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トルバドーれ!  作者: 袴田八峰
第三十一幕「葬送歌」

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三席


 奏鳴荘に戻ったポメロは、一度も灯りを点けることなく、冷たい床に座り込みました。


 春の夜の湿り気が、カビ臭い部屋の空気をいっそう重く沈殿させています。

 

 窓の外では、細い雨が音もなく闇を塗り潰していました。


 かつてエレクトラと歩いた『濡れ鼠のブルーズ』の夜のような激しさはありません。

 

 ただ、静かに、執念深く、体温を奪い去っていく「しょうがない」の雫。


(……あはは。やっぱり、しんどいな)


 ポメロは膝を抱え、漆塗りの相棒──あの頑固な【高齢童貞】のネックを、折れそうなほど強く握りしめました。


 人間としての僕は、今すぐにでもエレクトラさんの部屋へ駆け込んで、あの魔女のようなサイレンから彼女を引き剥がすべきなんだろう。

 

 そうしたほうがいい。

 

 そうしなきゃいけない。

 

 けれど、僕の中の表現者という名の化け物が、冷徹な声で僕の背中を押さえつける。


『見たくないのか? エレクトラがあの深淵の先で、完成を迎える瞬間を』


 その好奇心は、ヘドロのように黒く、あるいは抗いがたいほどに甘美でした。

 

 彼女が自ら深海へと沈んでいくなら、ポメロはそれを特等席で見届けたいのです。

 

 彼女が助けを求めていない以上、ポメロが口を出すのは無粋な越権行為です。

 

 ……なんて、最低な言い訳でしょう。


 一年半もともに過ごし、やり切れぬ夜を共に超えてきた姉よりも、今日あったばかりの見知らぬおばさんを気にしています。

 

 彼女が見せた一瞬の表情を焼き付けています。彼女に捧げる歌を絞り上げようとしています。

 

 歌待ち女子にナンパ男子がそうするように。


 『ひとでなしですね』


 かつてギター仙人に投げかけられた言葉が、呪文のようにリフレインします。

 

 僕はデッカさんの優しさを燃料にした。

 

 今度は、エレクトラさんの沈降さえも、自分の旋律を研ぐための砥石にしようとしている。


 けれど。


 それ以上にポメロを縛りつけて離さないのは、サイレンという女が歌い終えた瞬間の、あの表情でした。


【憑き物が落ちたような】、あの空虚な微笑。


(……あなた、あの時、どこを見ていたんですか)


 確かに、彼女が今しがた歌い上げた五つの呪詛は、四十年の彼女そのものだったのでしょう。

 

 いいえ、「だった」はずです。

 

 歌い終えた瞬間の彼女は、もうその闇の中にはいなかったからです。

 

 重荷を下ろしたことで初めて感じたであろう、震えるような解放感。


 過去ではありません。

 過去を歌いきったからこそ、彼女の視線は別の場所を向いていました。


 未来か。そうであって欲しいです。

 その様な時代もあったのだといつか笑える日が来て欲しいものです。


 彼女はあの場所で、自分自身の一部だった過去の楽曲に区切りをつけました。

 

 置いていくのです。かつての自分自身を、エレクトラの胸に。


(だったら……その「弔い」を、誰がやるっていうんだ)


 サイレン自身は、もう自分の死骸うたを片付ける気力なんて残っていません。

 

 エレクトラは、預けられた荷物を背負って、再び深淵へ沈み込もうとしています。

 

 自分の意志によるものなのか、サイレンの呪いに魅入られたせいなのか。

 

 これまでよりもずっと深く。

 

 目を閉じても彼女を見ることが叶わぬ深さまで。


 自分の想いと、四十年の呪いだけを抱いて。


 呪詛の主に、目をやる余裕も無く。


(だったら、僕がやるしかない)


 サイレン、あなたという一人の人間に、この鎮魂歌を届けたい。


 ポメロは、漆塗りのボディを抱き寄せました。

 

 夜の湿気を吸い込んだ相棒は、主人の澱みをそのまま音にする準備を整えていました。


 指先が、湿り気を帯びた弦にそっと触れました。


 ポーン、と。


 夜露を吸い込んだような、哀切な音が漏れ出しました。


 溢れる熱量で塗り固める作業はいりません。

 

 今すべきは、自分の中に固まってしまった諦めと、サイレンが遺した空虚を、一つずつ繋ぎ合わせる作業。


(共感、じゃない。寄り添うことでもない)


 それは、もっと残酷で、決定的な【葬送】。


 あなたの四十年の孤独を、僕がここで看取ってあげます。

 

 土に還してあげます。

 

 昨日までのあなたに、永遠の別れを告げるための旋律を。


 ポメロのペンが、カビ臭い床の上で五線譜を走り始めました。

 

 エレクトラを案ずる心も、エレクトラを見届ける心も、すべて捨て去りました。

 

 サイレン。かの初老の女性、残した歌。

 

 今が過去になる、瞬間。


 残ったのは、静かで、達観した、あるいは恐ろしいほどに透き通ったバラードでした。


(淋しい。……でも、しかたないんだ)


 人は生まれ変わり、歩き出す。そのとき、必ず何かを捨てていかなければなりません。


 サイレンさん。


 あなたが残そうとした四十年の呪いを、僕がこの歌に封じ込めて、焼き上げます。


「……できた」


 夜明け前。


 窓の外の雨が雪解け水のような白さを帯び始めた頃、ポメロは最後の一音を書き込みました。


 完成したのは、かつての熱情が嘘のような、けれど聴く者の魂を無理やり明日へと連れて行くような、軽いながらも力強い響きを持つ一曲でした。


 あなたに届かない歌ではありません。


 あなたの終わりを看取るための、僕なりの儀式。


 あなたの始まりの背中を押すための、僕なりのエール。


 ポメロはギターを抱えたまま、ゆっくりと目を閉じました。


 泥のような眠りに吸い込まれる直前、確かにその旋律の向こう側に、新しく生まれ変わる一人の女の背中を見ました。



───── ♬ ─────




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