二席
「一度スコアをお預かりして、ご返答はまた日を改めて――」
エレクトラの態度は煮え切らないものでした。
それは、彼女の奥底にある怯えが、これは怖いものだと悲鳴を上げていたからです。冷たい毒のように全身に回っていたからです。
サイレンに喝破された通り、エレクトラは本質的にとても臆病な性質を持っていました。
だからこそ、怖い。
このサイレンという女性が、その背負う四十年の魂の分け身は、今の彼女にはあまりに重過ぎました。
何より、エレクトラは立ち竦むことを止め、自らの足で歩き始めたばかりなのです。
ポメロという補助輪に支えられながら。その補助輪が外れた矢先に、立ちすくむ自分をこそ評価し、愛でる者が現れてしまった。
興行主を見れば、その顔は隠しきれない期待に満ちていました。
エレクトラがこの話を断るはずがないと信じ込み、未来を決めきっている。
(でも、私は───)
エレクトラがポメロを振り返ろうとした、その時でした。
「私の歌を、聴いてみてくれない?」
サイレンに、またもや遮られました。
「いいわね、そうしましょ」
興行主が弾んだ声で被せてきます。
ポメロは、何も語りません。
ただ、足元に広がる八番舞台の古い板目を見つめながら、何事かを深く、深く考え続けていました。
「……そうね。聴かせて頂けますか?」
抗いきれず、エレクトラは状況に流されました。
「私、声が通る性質じゃないから。もっと狭い部屋を貸してもらえない?」
透き通った、けれど今にも消えてしまいそうな、蚊の鳴くような声。
「応接室に行きましょう。そこなら最高に密度の高い音が聴けるわ」
興行主の浮き足立った声が響きます。
状況は、肝心の主役の想いを置き去りにしたまま、加速して進んでいきました。
───── ♬ ─────
応接室の隅、一脚の古びた椅子に、サイレンは座っていました。
長く伸びた黒髪が顔を隠し、その細い指先は使い古されたギターの弦に、祈るように、あるいは首を絞めるように添えられています。
「聴いて。私が、私でいられた証を」
「さあ、始めなさい。あなたの四十年を見せてちょうだい」
興行主の野太い声が、重い幕を上げる合図となりました。
一曲目。
最初の音が鳴った瞬間、ポメロは自分の心臓が薄く切り裂かれたような錯覚に陥りました。声が、あまりに澄んでいます。五十を過ぎた肉体が発する音とは思えません。それは真冬の深夜に、凍りついた湖面がミシリと割れるような、透明で、鋭利で、逃げ場のない音色でした。
ですが、その澄み渡る透明の背後には、言葉にできないほどの膨大な摩耗が沈殿していました。一音出すたびに、彼女の命の灯火が数日分ずつ、目に見えて磨り減っていきます。
歌われるのは、十代の頃に覚えた、世界への消えない不信感でした。彼女はその傷口を思い出として語るのではなく、いま、この瞬間にカミソリでなぞるように、生々しい現在進行形の痛みとして曝け出していました。
一曲目を歌い終えたサイレンが、ふっと前髪の隙間からエレクトラを射抜きました。
エレクトラは、そのあまりに剥き出しの不信感に、生理的な拒絶を覚えて顔を背けました。
ポメロは、その二人の間で、微動だにせずサイレンの指先を見つめ続けていました。
二曲目。
静寂を裂いて、情念が焦燥へと変質します。「行かないで」と叫ぶフレーズ。それは懇願ではありません。去りゆく者の背中に、折れた爪を立てて縋り付くような、無惨な執念です。
エレクトラのような「受動的な怯え」ではない。サイレンのそれは、自ら進んで絶望の業火に身を投じる「能動的な自虐」でした。ギターの指板を叩きつける指先から、見えない火花が散ります。かつて少女だった頃に抱いた殺意に等しい恋心を、枯れ果てた肉体で歌い直す残酷さ。
声はなおも澄んでいますが、その響きは細く、鋭く、聴き手の喉元に冷たい刃を突きつけていました。
サイレンの濁りのない瞳が、再びエレクトラを捉えます。
エレクトラは、その執念の醜さに怯えながらも、同時に、かつて自分が喉の奥で殺したはずの叫びが共鳴し始めるのを止められませんでした。
ポメロの視線は、まだ動かないようでした。彼は音の発生源そのものを凝視していました。
三曲目。
一転して、音数は極限まで削ぎ落とされました。彼女は瞳を閉じ、完全に気配を消します。声はささやきに近いものです。だが、そこには四十年間、同じ場所で、同じ絶望を温め続けてきた者にしか出せない重力がありました。
(もう、いい。もう, 眠らせてくれ)
聴き手の脳裏に、出口のないベッドシッターの牢獄が浮かび上がります。彼女の歌は、聴き手を慰めなどしません。ただ、逃げようのない孤独の底まで道連れにします。澄んだ声が闇に染み込むたび、応接室の空気が物理的に重くなっていきました。
サイレンは、歌いながらエレクトラの心の内側を愛撫するように見つめました。
エレクトラは、瞳からは拒絶が消え、代わりに深い泥に足を取られたような、抗いがたい魅了が滲み出し始めました。
ポメロは、彫像のように視線を固定したまま、部屋に満ちる重力を全身で受け止めていました。
四曲目。
慟哭が始まりました。彼女の身体が、苦痛に耐えるように折れ曲がります。それは歌という形式を超えた、体内に閉じ込められた報われない死者たちの声を放出する儀式でした。「痛い、痛い」と、歌詞にはない叫びが、彼女の澄み切った喉から漏れ出します。
彼女の最後の一本の蝋燭が、不自然なほど大きく、激しく揺らめきました。燃え尽きる直前の、最も熱く、最も明るい、死への輝きです。声は極限まで張り詰め、今にも千切れそうな細い糸となって、天井の闇を貫きました。
それは生への執着ではなく、死んでもなお、この初期衝動を終わらせないという、恐るべき呪縛の意志でした。
限界まで張り詰めた声の中で、サイレンの眼差しは「見つけたわ、私と同じ呪いを」と語りかけていました。
エレクトラはもう、身じろぎ一つできません。呼吸を合わせ、サイレンの痛みを自分のものとして飲み込み、その絶望の熱量に陶酔し始めていました。
ポメロの視線は依然としてサイレンから離れません。彼はその死への輝きの正体を、一刻も逃さず刻み込もうとしているようでした。
五曲目。
嵐の後のような静止の中で、彼女はたった一言、愛について歌いました。誰からも与えられず、誰にも与えられなかった、砂のように乾いた愛です。澄み切った声が、ふっと消えるように途絶えたとき。そこには、ただ一本の折れたギターと、幽霊のように佇む一人の女の残影だけが残されていました。
情念は、まだ燃え尽きていません。ただ、彼女の肉体という燃料が、物理的な限界を迎えただけなのです。
サイレンは、憑き物が落ちたような、けれどひどく空虚な微笑を浮かべてエレクトラを見つめました。
その瞳は、もはや他人を見るものではなく、鏡の向こうの自分を見ているかのようでした。
エレクトラの瞳は完全に虚脱し、サイレンの影に取り込まれていました。彼女の輪郭は曖昧になり、かつて馴染んでいた深海の更なる底へと沈み続けてゆきます。
その魂は、かつて自分が逃げ出したはずの深海の底へと、自ら沈んでいくことを選んでしまったかのようでした。
ポメロは──
「ふふ……わかるでしょ。こういうのばっかりなの。こういうのしか浮かばないの。ね、こういうのだけでできたのが、私なのよ。……ね、わかるわよね、エレクトラさん?」
彼女の声は、どこまでも澄んでいます。秋の始め、片づけ忘れられた風鈴のような声。
「……ええ。わかるわ」
エレクトラは、搾り出すように答えました。その声は、驚くほどサイレンの響きに近づいていました。
サイレンが奏でた五つの呪文は、すべてエレクトラが忘れかけていた名もなき痛みに、あまりにも正確な名前を与えてしまったのです。
ポメロという存在を知る前のノフラージュ。
深海の人魚姫。
あの頃の自分が、大事に抱えて、その重さゆえに沈んでしまった痛みでした。
「私の中にあったけれど、形にできなかった音が……ここに、全部あるわ」
興行主は、ゆっくりと立ち上がりました。
化粧の下の青い髭跡に、一筋の光が反射します。
「素晴らしいわ……! なんど招聘しても「舞台には不釣り合い」と応じてくれなかったサイレンさんが、その魂の結晶を我ら八番舞台の至宝に継承するなんて! ああ、なんて幸福な日なの! 世を儚んで命を断った、八番舞台ゆかりのあの人たちの導きに違いないわ!」
至宝。あんたという芸術品。
それはエレクトラをステージに上げてからこれまで、ずっと興行主が言っていました。
最大級の賛辞です。
ですが、人を人として見ていない言葉でした。
エレクトラは心の中でいつも小さな反感を覚えつつも、それを口に出すことはありませんでした。
言ってもしょうがない。
この人に嫌われたらステージで歌えない。表現できない。
そんな危惧を抱いて。
ですが──
歌いたい、でも怖い。
似ている、でも、昨日までの自分。
表現したい、この歌を。
私ならもっと深みに至れる。
サイレンさんよりもっと響かせられる。
エレクトラという人間を捨て、エレクトラという芸術作品となるのなら。
この呪いを完成させられる。
ならば、私は──。
「一日、待ってもらえませんか」
ポメロが顔を上げました。




