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トルバドーれ!  作者: 袴田八峰
第三十一幕「葬送歌」

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一席


「一緒に、会って欲しい人がいるの」


 ポメロは戸惑いました。

 

 いつも自立し、誰にも心の内を見せない彼女が、わざわざポメロを伴って誰かに会いに行こうとする。

 

 それは、あの『目を閉じて私を見て』を共に作り上げた時以上の、深い影への誘いのように感じられました。


「エレクトラさん? 会って欲しい人って……」


 エレクトラの瞳は、窓から差し込む冬の薄光を拒絶するように、深く、静かに沈んでいました。


 今の奏鳴荘は、かつてのような騒がしさはありません。

 

 リノは領主の義娘となり、領主館に居を移したために、心温まるハミングもスキャットも聞こえなくなって久しいものです。

 

 フォルテもまた、地獄のアイドル虎の穴に放り込まれたため、あの突き抜けるような「ヤー!」という咆哮も聞こえてきません。


「……あー」


 階段を一段飛ばしで降りてきたデッカが、二人に漂う空気を読んで静かに回れ右。


「ねえ、ポメロ君。私、少しは変われたかしら?」


 ふふっ、と。エレクトラはかつての無彩色な微笑ではなく、どこか少女のような瑞々しさを湛えた照れ笑いを浮かべました。

 

 あの夜、ポメロに「立ちすくんだままの少女」だと喝破されて以来、彼女を覆っていた硬い大理石の殻は剥がれ落ち、内側から確かな体温が滲み出していたのです。


 エレクトラは、ポメロの右手を握る指先に少しだけ力を込めました。

 

 その瞳には、いつものアンニュイな影ではなく、未知の波風に対する恐れのような、揺れる心が宿っていました。


「興行主の知り合いでね、熟年の女性よ。……その人が、私に、お願いがあるんですって」


「エレクトラさんに……?」


「大恩ある興行主さんの仲介だから問題はないと思うんだけど……でもちょっとだけ不安なの。ついて来てくれない? 君がいれば私は、いつもの私でいられるから」


 エレクトラのような完成された孤独を纏う表現者が、自分のような少年を、並び立つパートナーとして誰かに紹介しようとしています。

 

 それは、あの夜に共有した『目を閉じて私を見て』という共犯関係が、一歩先へ進もうとしている合図のようでもありました。


「……彼女が、私の、そしてあなたの、新しい未来を開く鍵になるかもしれない。そんな予感がするのよ」


 エレクトラは、奏鳴荘の玄関に差し込む、刺すように冷たい冬の光を真っ直ぐに見つめました。



───── ♬ ─────



 八番舞台の興行は、いつも夜半から深夜にかけて行われます。

 

 太陽が天辺にある時間帯のここは、驚くほどに閑散としていて、剥き出しの床が不気味なほど広く感じられました。


「いらっしゃい。まあ、座りなさいな」


 八番舞台の興行主は、二人の到着に気づくと、野太い声で着席を促します。

 

 嫋やかな身振りで勧めるのはノンアルコールのカクテル。

 

 派手な化粧に隠された顎髭の跡が、生白い照明の光の下ではより生々しく浮かび上がっています。


「お願いとは何でしょう? 興行主も内容をご存じなのですよね?」


 エレクトラが単刀直入に尋ねると、興行主ははぐらかすように、けれどどこか慈しむように笑いました。


「まあ、悪いようにはならないわよ。あの女性にとっても、あんたにとってもね」


 それきり興行主は口を閉ざしました。

 

 予定の時間を二分ほど過ぎた頃、重い扉が軋んだ音を立て、一人の女性が姿を現しました。


「ふふ……ごめんね、エレクトラさん。十分に間に合う時間に出てきたつもりなんだけど」


 自嘲気味な笑みを浮かべたその女性は、五十代ほどに見えました。

 

 とても疲れた痩せ型の体躯に、煤けた赤銅色の長い髪。

 

 無造作に束ねられた髪の一割ほどが、白髪となっています。


「私って、とても「持ってない女」だから、なんかね。肝心な時はたいていダメな方にサイコロが転がるの……」


 苦労という言葉から連想されるおおよその外観を、その女は満たしていました。


 ポメロは、彼女から漂う気配に息を呑みました。

 

 それは単なる疲労感ではありませんでした。


 疲労感と言えば、宮廷楽師のハルモニアを思い出します。

 

 彼女の休みたい、温泉行きたいというボヤキには明確な休息への欲求があり、眠れば、あるいは温かな湯に浸かれば、その魂までもが回復する見込みがありました。


 しかし、目の前の女は違う。

 

 これは──摩耗感です。


 あまりにすり減りすぎた皮膚が、奥底の神経を剥き出しに晒している。

 

 この女はもう、ボヤキなど零さないでしょう。

 

 回復の手立てなどどこにもなく、もはや手遅れなのだ──。

 

 そこまで考えて、ポメロはあまりに失礼なことを考えていたと、心中で初老の女性に深く頭を下げました。


「あの…… お名前は」


「何物にもなれなかった私に、名乗れる名前なんて無いわ」


「では、なんとお呼びすれば」


「そうね……サイレン(無音)。そう呼んで」


「わかりました。サイレンさん」


「この街に来て、歌い続けて四十年。もう引退するつもりなんだけど……エレクトラさん。あなたに、私が紡ぎ続けてきた歌たちを、お譲りしたいのよ」


「私に……ですか」


「ええ、あなたに。本当はね、私は楽譜をすべて焼いて、忘却の彼方に押しやってひっそりと消えようとしていたの。──あなたの『目を閉じて、私を見て』を聴くまでは」


 サイレンの濁りのない、けれどひどく乾いた瞳がエレクトラを射抜きました。

 

 その眼差しは、自分と同じ沼を知る者を見つけ出した、執念に近い輝きを宿していました。


「あの歌を聴いた時、私のなかの死にかけの旋律たちが、一斉に叫びだしたの。「この人なら、私たちを在るべき場所に連れて行ってくれる」ってね」


 彼女がカバンから取り出したのは、ボロボロに擦り切れた、けれど一文字一文字が血を吐くような執念で書き込まれた、一束の分厚い楽譜集でした。


「私の四十年。……この呪いのような歌たちを、その魂ごとあなたに受け入れてもらえないかしら」


 とても五十代と思えぬ澄んだ声。

 

 透明感溢れる声。

 

 透明感しか感じられぬ声。


 エレクトラの本能が危機感を訴えます。


「私のような未熟者には、四十年。荷が重──」


 サイレンはエレクトラの否定にかぶせます。


「こんなみじめなおばさんに言われたくはないでしょうけれど」


 確信を持って、サイレンは告げました。


「あなたとわたしは似ている。外見じゃない。魂の在り方が」


 エレクトラは反射的に否定しかけて、けれど「ですが」と言葉を継ぐ前にサイレンに遮られました。


「あなた、とても臆病でしょう?」


「それは……」


 エレクトラは否定できませんでした。

 

 『目を閉じて私を見て』は、臆病なあまり立ち竦んでいた自分をありのままに、ポメロに引きずり出されるようにして歌ったものだったからです。


「何度も何度も」


 サイレンの澄んだ声が、静まり返った八番舞台に響きました。


「何度も何度も」


 彼女を取り巻く空気が、重力に潰されてゆきます。


「立ちすくんで誰とも知れない誰かの名前を呼び続けていたの、私」


 向けられた澄んだ眼差し。

 

 エレクトラは二の句を継ぐことができませんでした。

 

 かつての自分も、そして今も、その震えは背中に張り付いているものだったからです。


「四十年もの間」


 音楽の都カーネギーの裏通りで、四十年間誰にも見つからずに研ぎ澄まされてきた、持たざる者の聖歌。


 それが今、エレクトラの手に託されようとしていました。



───── ♬ ─────




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