二席
ひと月近くが過ぎ、季節を跨ぐ風が町外れの貯水塔を吹き抜けていきます。
ポメロは連日の辻ライブをこなし、エピタフもまた伝統派としての演奏活動や派閥の勉強に追われる日々でした。
その過密なスケジュールの合間を縫うようにして、二人は交代で、あるいは共に、芝居小屋へと足を運び続けました。
なんとか師匠から課された十個の観劇という高い壁をこなした二人は、報告のために再びテイチクの前に立っていました。
「──それで、おめぇら。一ヶ月も芝居小屋の肥溜めに浸かって、何か得たものはあったのかよ。本業の合間にコソコソ通い詰めた甲斐はあったのか、あぁ?」
テイチクは相変わらずねじり鉢巻き姿で、汚れたスコアにペンを走らせながら、ぶっきらぼうに問いかけました。
「はい、師匠。僕は、表現の奥深さ、そして細工の重要性を痛感しました。伝統派の技術論における装飾は、あくまで美を補完するものでしたが、優れた劇作における言葉の多重性は、構造そのものを支える背骨となっている。音楽という抽象を具現化する際、どれほど緻密な知性が背後に控えているべきか、その片鱗に触れた思いです」
エピタフは、伝統派の厳しい修行の合間に手帳へ書き留めた分析を、淀みなく述べました。
知性のみが築き上げることができる高度な世界表現。
それを伝統派の技術論と比較検証する彼の言葉には、新たな視座を得た熱っぽさが宿っていました。
「へッ、おめぇさんは随分と広く見たんだな」
テイチクは短く評し、ようやくペンを置いて二人を見ました。
「だから他の芸術も大事なんだよ。芸術に限ったことじゃねぇ。遊びだってそうだし、仕事だってそうだ。そこにはなにがしらの【気付き】で溢れてる。お前たちはそれをなるたけ集めて、なるたけ飲み込むんだ。音楽ばっかりじゃ、バカになっちまうからな」
老人の鋭い眼光が、今度は黙り込んでいたポメロに向けられました。
「で、おめぇさんはどうだよ、ポメロ。何を見た」
ポメロは、ライブの合間に見た他の九つの演劇のことなど、とうに意識の彼方へ追いやっていたのです。
「師匠。僕は、あの『テヌート』という舞台が、どうしても許せないんです。あの不条理さ。リンフォルツァンドとプレッシオーネへの、あの憐れみのない扱い。あれは人間を描いていません。ただの舞台装置だ。二人の人生が、たった一行の報告で、構造を完成させるための部品として捨てられた。それが、悲しくて、悔しくて、やりきれないんです!」
ポメロの言葉には、分析など入り込む余地のない、生々しい感情の熱がこもっていました。
「おめぇさんは、随分と深く見たんだな」
テイチクはふんと鼻を鳴らしました。
「広くと深く。どっちが良い悪いってもんじゃねぇ。だがよ、ポメロ。おめぇさんの目的とする【手数の多さ】は、今のおめぇさんみてぇにこだわりを抱え込んじまっちゃあ、到底達成できねぇぞ。感情の重石を積んだまま、軽やかに音を並べられるわけがねぇ。どうするか、よく考えるんだな」
───── ♬ ─────
夕闇が迫る帰途。ポメロは、テイチクに指摘された重石の正体を噛み締めるように、一歩一歩を重く踏みしめていました。
「……ポメロ。あの指導、どのように考える。師匠の言う通り、そのこだわりは、君の目指す技巧的な軽快さを削いでしまうのではないか」
隣を歩くエピタフが、不思議そうに問いかけました。
エピタフ自身は、舞台の構造美に感銘こそ受けてはいましたが、端役の末路にポメロほどの情緒的なこだわりは抱いていません。
あくまで知性としてそれはそういう物だと受け止めていたのです。
ポメロは足を止め、空を仰ぎました。
「……吐き出して、解消するよ」
その声は、驚くほど力強いものでした。
この熱情を一人でどうにかし、音楽として昇華させねばなりません。
「僕はそういう人間で、そこから逃れられない。リンフォルツァンドやプレッシオーネへの同情も、不条理への怒りも、全部僕の中に居座り続ける。でも。だからこそ、それを全部、音にして外に掃き出し切ってしまえば──」
ポメロの言葉を遮るように、エピタフがふっと口角を上げ、先を続けました。
「──【新しい朝】を迎えるか」
「うん。全部使い切って、空っぽにするんだ。そうすれば、また軽やかに跳ねるための隙間ができる。作るよ、エピタフ。あの哀れな二人のための、でも、最後には何一つ残らないような、そんな曲を」
───── ♬ ─────
ガキ、ガキ、ガキ、ガキ。
寸分の狂い無く胸に響き渡る機械音。重々しいネジが回る音。
それは『テヌート』を観劇してからずっと、ポメロの胸に響いていました。
テイチク師匠の指摘を得てから、エピタフに吐き出すと決意を告げてから、ネジの意識は明らかにこっちを向いていました。
熱情。
その名にふさわしくない非生物的な形状。
立方体。
音はその中から響いてくる。
ガキ、ガキ、ガキ、ガキ。
奏鳴荘の自室。深夜の静寂は、時として鋭利な刃物のように神経を逆なでします。
ポメロは机に向かい、空白の五線譜を睨みつけていました。
胸の奥底、パトスの貯蔵庫の蓋が、内側からの猛烈な圧力で軋んでいます。
(──来る。──来い!)
ポメロは意識のピントを、己の内面へと深く合わせました。
暗闇の中から這い出してきた熱情の造形は、巨大で無機質な機械でした。
鈍い鉄の色をしたその塊は、ポメロの心象風景の半分を占拠し、逃げ場のない壁際まで彼をじりじりと追い詰めてきます。
ガキ、ガキ、ガキ、ガキ。
その機械は、圧倒的な重量と大きさでポメロを圧迫し、呼吸さえも困難にしていきました。
それは一個人の感情など介在する余地のない、冷徹な装置そのものだったのです。
(なんだよ、お前。僕を押しつぶして、何が楽しいんだ)
機械は答えません。
ただ、あらかじめ決められた歯車の回転に従って、無感情にポメロを壁に押しつけます。
機械は主役の悲劇を美しく際立たせるために、床に転がるゴミ──すなわち、リンフォルツァンドやプレッシオーネのような余計な細部を吸い込み、舞台から片付け、その存在を跡形もなく消そうとしているのです。
(あいつら。必死に生きてたあいつらを、こうして掃除して終わりにしたのか!?)
ガキ、ガキ、ガキ、ガキ。
巨大なデウス・エク・マキナのような威圧感に、ポメロは歯を食いしばりながら、その心臓部を見据えました。
僕は問う! 熱情の名を!
湧きあがるパトスの芯を!
お前は誰だ!
なんでそんなに、血も涙もなく僕を拒絶する!?
ネジの音。軋まぬ歯車。
舞台の上で、たった一行の報告で掃除された二人の顔が、機械の表面に浮かんで消えます。
「見えたぞ熱情。汝の名は──【不条理への怒り】!」
名前を看破された瞬間、機械は激しく振動し、油の混じった黒い煙を噴き出しました。
(そうか。お前は、あの劇作家が作り上げた完璧な構造の化身なんだな)
ポメロは、自分を押しつぶそうとする機械のレバーに手をかけ、強引にその動きを制御しようと試みます。
本来なら、ここから不純物を削ぎ落とし、純粋な音の結晶へと成形していくのがいつものお作法です。
ですが、今夜のポメロは、それを良しとしませんでした。
「削らない。僕はあいつらの空白の旅路を埋めたいんだ!」
ポメロは、機械の隙間に手を突っ込み、回転する歯車の間に、無理やり別の部品を噛ませていきます。
それは、舞台では語られなかったリンフォルツァンドの逡巡であり、プレッシオーネの卑劣なまでの生への執着でした。
掃除されるべき夾雑物。
消されるべき端役。
それらすべてを拾い上げ、ポメロは五線譜の上に語られなかった物語を構築していきました。
埋めるのだ、空白を。
劇作家が一行で済ませた、その行間に横たわる、彼らの吐息を。
眼差すのだ、二人を。
リンフォルツァンド。プレッシオーネ。
御大層な名前を与えられておきながら。
主役の友。国王からのスパイ。
キーを握りそうな役割を与えられておきながら。
『リンフォルツァンドとプレッシオーネは死んだ』
それで終わりだ。
既存のパターンを外す技法?
様々な事情から推敲しきれなかった名残り?
何らかの理由はあるだろう。言い分もあるだろう。
だが! 僕はこいつらに同情した!
物語の都合という不条理を憎んだ!
いいだろう、こいつらを憐れむ人間がいても。
いいだろう、こいつらを知りたい人間がいても。
いいだろう! こいつらを主人公にするバカがいても!
描くのだ、物語を。
異国の砂浜で、逃げ出したくなるような恐怖と戦い、それでも腹を空かせ、明日を夢見た、惨めで愛おしいただの人間としての姿を。
誰の復讐劇のダシでもない。彼ら自身が主役として生きた、その一秒一秒の重みを。
二人の名が五線譜の上で、呪いから解かれたように躍動し始めます。
完成したのは、輝く音の結晶ではありません。
本編の影に隠され抹殺されたはずの、泥臭くて人間臭い二人のロードムービーでした。
ペンを置いたとき巨大な機械は、もうポメロを圧迫してはいませんでした。
それは、ポメロの手によって歪なまでに圧縮され、二人の経過を刻み続ける無害なオルゴールへと作り変えられていたのです。
小さくなったオルゴールを握りつぶすと、最後の音が飛び出ます。
これで完成。
「できたよ。リンフォルツァンド。プレッシオーネ」
譜面の端には殴り書きのような文字で、新しい物語の始まりが記されていました。
テヌートからは分かたれた、彼らだけの時間が、そこには確かに流れていました。
───── ♬ ─────




