一席
「──というわけだ。君のような耳音痴にこれ以上、師匠の貴重な時間を独占させるわけにはいかないからね。僕が監視、もとい、技術的支援のために同行するのは至極当然の帰結というわけだよ」
いつにも増して饒舌に、そして不自然なほど胸を張って、エピタフはポメロの横を歩いていました。その足先は、町外れの古い貯水塔の管理小屋──忘れられた元六歌仙・革新のテイチクの隠れ家へと向かっています。
「あはは、エピタフもテイチクさんに弟子入りしたいって素直に言えばいいのに。でも、伝統派の修行は大丈夫なの? モトロードさんにバレたら、また眉間に皴が増えちゃうよ」
ポメロがケラケラと笑うと、エピタフは顔を真っ赤にしてアロンジュ・ペリュックを揺らしました。
「ば、バカを言いたまえ! これはあくまで編曲の、つまりは数学的構成の外部調査であって……! いいかい、絶対に伝統派の連中には秘匿するように。これは僕たちの、その、共犯……いや、高度な学術密約なんだからな!」
エピタフがこの密約に身を投じてから、はや十日が過ぎていました。
きっかけは、ポメロが自室に持ち帰ったテイチクのスコアを盗み見たことでした。
独学で編曲の限界に挑み、数式のように緻密な音列に溺れかけていたエピタフにとって、それは雷に打たれるような衝撃でした。
そこに並んでいたのは、伝統派が尊ぶ装飾過多な美ではなく、贅肉を一切合切削ぎ落とし、心臓の鼓動だけを抽出したような究極の引き算でした。
(これだ。僕が求めていた数理的純粋さは、ここにある)
エピタフが戦慄したのは、その完璧な計算の果てに崩された数理的純粋さがあったことでした。
わかっていて、あえて崩す──破調の美。
編曲のすべては、たった一つのフレーズを輝かせるために捧げられていました。
正しく伴奏し、主役の言葉に命を吹き込む。
そのためだけに、膨大な数理的知識を持ちながら、なお、テイチクは自ら築いた正解を崩しているのです。
そう確信したエピタフは、プライドを二の次にしてポメロに泣きつき、伝統派には自主練と称してこの貯水塔へ通い詰め、今やテイチクからも「てるてる坊主」という不名誉な呼び名で(渋々ながら)存在を認められるまでになっていました。
「てるてる坊主」──それは、エピタフが命の次に重んじるアロンジュ・ペリュックの下に隠された、真実の姿でした。
普通の人間はその頭を知る由もありませんが、裸の付き合いを重視するテイチクだけは別でした。
断じてハゲてはいない! ただ剃っているだけだ!(エピタフ心の代弁)
エピタフはポメロの時と同様、テイチクに連れられ銭湯の暖簾をくぐり、師匠の背中を流したのです。
ポメロの時とは違い、「痒いところに手が届かねぇ、気の利かねぇ野郎だ!」と江戸っ子さながらの荒い口調で怒鳴り散らされはしましたが、その洗礼を経て、二人の師弟関係はどこか奇妙な馴染みを見せていました。
ポメロとエピタフは、鉄錆の浮いた貯水塔の扉を叩きました。
中から出てきたのは、ねじり鉢巻きにランニングシャツという、およそ芸術の最高峰には見えない風貌の老人、テイチクでした。
「あぁ? また揃ってお出ましか。エビ髪に、てるてる坊主……おめぇら、毎日毎日、飽きもせずによぉ。俺の小言がそんなに心地いいのかよ」
「て、てるてる……! その呼び方は慎んでいただきたいと、この十日間で何度申し上げれば! 僕はエピタフです! 今日はあなたの、あの……第七小節であえて対位法を放棄した意図を、論理的に説明していただくために来ました!」
それは、決して無理な相談ではありませんでした。このチャキチャキな老人の知識は、底知れぬほどに豊富です。経験もまた豊富でした。
かつて革新の冠を額に載せていた身分ではありますが、その根底には、伝統派の厳しい薫陶もまた脈々と流れています。
彼が学んでいた時代は、まだ伝統派一強の時代でしたから当然です。
その一興を突き破り、【作曲】の冠を【伝統】と【革新】の二つに引き裂いたのはこの男なのです。
エピタフ程度の若輩者に、伝統手法のインストラクションを授けることなど容易でした。
しかし。
テイチクは鼻を鳴らし、二人を塔の中へ招き入れることもなく、その場に胡坐をかきました。
「……ヘッ、おめぇらみてぇな音楽しかやってねぇガキの音楽は、いつまで経ってもバカの音楽だ。十日も通ってまだ音の高低と長さだけ数えてやがる。それで世界を分かった気になってんじゃねぇよ、べらぼうめ」
厳しい言葉に、ポメロとエピタフは思わず息を呑みました。
テイチクの目が、濁り一つなく二人を見据えています。
「いいか。音楽ってなぁ、空気の振動じゃねぇ。人間の生き方の残りカスだ。絵も見てねぇ、芝居も見てねぇ、他人の人生に触れてもいねぇ野郎が、綺麗な音だけ並べて何になる。そんなもんは、ただの耳鳴りだ。理屈ばっかりこね回してねぇで、まずは人間を見てきやがれ」
テイチクは大きなインク瓶を弄びながら、粗野に言い放ちました。
「演劇を、種類を問わず十個見てこい。それまではこの敷居をまたぐんじゃねぇぞ。いいな、音楽の要素がねぇ純然たる芝居だ。それを見て、何が削ぎ落とされて、何が残ったか、その目ン玉で確かめてきやがれ。さっさと行けッ!」
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ボロ小屋を追い出された二人は、夕暮れ時の町外れを、肩を落として歩き出しました。
「……厳しいなぁ。でも、師匠の言うこと、なんだか分かる気もするよ。僕の歌も、村の景色やリノとの思い出がなかったら、ただの騒音だったかもしれないし」
「……理論的には納得がいかない。音楽こそがすべての芸術の頂点であり、数学的調和であるはずだ。それを、演劇などという不確定な文学と感情の垂れ流しと比較するなど……不愉快、不愉快極まりない!」
毒づきながらも、エピタフは手帳を取り出し、カーネギーの興行予定を必死に検索し始めました。
「いいかポメロ。師匠の……いや、あの老人の課題をクリアするには、まず音楽を徹底的に排除した演劇を探さねばならない。歌劇は論外だ。あれは音楽が主役だからな」
「オペレッタも、ダンスシーンで音楽が鳴るからダメだよね?」
「当然だ。音楽の要素がない演劇……そんなものが果たしてこの音楽の都に存在するのか? ……次は公園回りを探してみよう。いくらか簡素な芝居小屋があったはずだ。あそこなら、楽器を雇う金のない貧乏劇団が、言葉だけで勝負しているかもしれない」
二人は、楽器ケースを背負ったまま、音楽が溢れる大通りを避けるようにして、静かな公園の奥へと足を進めました。
「……あったぞ。あそこの、黒い布を張っただけの小屋だ。演目は……『テヌート』? 看板を見る限り、どうやら悲劇のようだな」
ポメロは、その古びた看板に描かれた、二人の影のような人物の挿絵を見つめました。なぜだか、その影が、雨に濡れた捨て犬のように頼りなく見えて、彼の胸の奥がわずかにざわつきました。
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黒い布を張っただけの、簡素な公演小屋の中は、夕暮れの湿った空気が溜まっていました。座席は粗末な木箱でした。
観客は十人もおらず、そのほとんどが街の辻ライブに飽きた浮浪者か、寝場所を探している酔っ払いでした。
「静かにしたまえ。それにしても、テイチクの老人の課題はクリアしたはずだが……。本当に音楽が、音響効果すらないなど。不愉快極まりない」
舞台が始まって中盤。ポメロは、木箱の上で所在なげに足を揺らしていました。
主人公・テヌートの周囲をうろちょろする二人の男──リンフォルツァンドとプレッシオーネ。
彼らが王様の命令で動くスパイだと分かった時、ポメロは鼻白みました。
(はいはい、よくある話だ。友情より出世をとったんだね。君たちも、なかなか世渡りが大変そうだ)
彼らがテヌートに翻弄され、異国行きの船に乗せられた時も、「さて、あっちでひどい目に遭って、改心して戻ってくるのかな」くらいに思っていました。
一方で、エピタフは別の「震え」を感じていました。
劇作家が仕掛ける、言葉遊びの洒脱さ。何重にも重なる意味を持ったセリフ。そこに巧妙に織り交ぜられた社会批判と皮肉。
エピタフはその全てとは言いませんが、圧倒的な知性のみが築き上げることができる高度な世界表現を、そこから確かに感じ取っていたのです。
音楽という感情を奪われた空間で、言葉という論理がダンスを踊っています。
不意に、脳裏にテイチクのあの声がよみがえりました。
──音楽ばっかりしかやってねぇガキの音楽は、いつまで経ってもバカの音楽だ。
(これか。この、緻密に計算された構造、冷徹なまでの知略的配置──。これを理解せずして、僕は編曲を語ろうとしていたのか)
物語は、テヌートが一人で故国へ帰還した場面へと移ります。
親友であったはずの二人を異国の地へ置き去りにし、テヌートは復讐の鬼と化して王宮へと舞い戻りました。
舞台の上で、テヌートは墓掘りたちが放り出す髑髏を手に、生と死の虚無を独白します。
ポメロは、いつの間にか木箱の端を強く握りしめていました。
(え? あいつらの伝令、いつまでかかってんの? 海を渡るのって、そんなに時間がかかるっけ? いや、きっとここからだ。あの二人が戻ってきて、きっと何かが動くんだ)
ポメロは期待していました。
一度は裏切った二人が、土壇場で人間らしい良心を取り戻し、テヌートの窮地を救う劇的な再登場を。
あるいは、底知れない悪意を持ってテヌートを追い詰め、物語をより深い絶望へと叩き落とす、その役割の全うを。
しかし、舞台上の情景はポメロの予想を無情に裏切り、加速していきます。
毒剣が磨かれ、王妃が毒酒を煽り、重臣の息子とテヌートが互いの命を削り合う最終局面。
血飛沫を暗示する赤い照明が舞台を浸食し、登場人物たちが次々と折り重なるように倒れていきました。
(おいおい、待てよ! もうクライマックスっぽくない!? あいつらは? リンフォルツァンドとプレッシオーネはどうなったんだよ! まだ出てきてないぞ!)
焦燥が、ポメロの全身を駆け巡りました。
舞台の隅々まで目を凝らし、暗闇の袖から二人が「待て!」と叫んで飛び込んでくるのを今か今かと待っていました。
彼らが戻らなければ、彼らの選んだ「裏切り」も、その裏にあるはずの「葛藤」も、すべてが語られないままではないか。
ですが、現れたのは、二人ではありませんでした。
見知らぬ異国の使者が、死体の転がる王宮に無造作に足を踏み入れ、事務的に報告しました。
「──リンフォルツァンドとプレッシオーネは死んだ」
(……は?)
ポメロは、思わず立ち上がっていました。
「なんじゃ、そりゃあああ──ッ!!」
静まり返った小屋に、ポメロの怒声が響きました。
「そりゃあ、あいつらは小悪党だよ? でも小悪党として登場させたなら、小悪党としての経過を見せろよ! 結末を見せろよ! 最後がたった一言の報告!? 死んだの一言で、おしまいなの!? ふざけるなよ、そんなの、あんまりじゃないか!!」
劇作家が用意した、冷徹なまでの構造。その完璧な歯車として消費され、ゴミのように捨てられた二人の人生。
ポメロの胸の中に燃え上がったのは、やり場のない、凄まじいまでの不条理感と怒りでした。
主題の為に細部を削る。
それはポメロが身につけつつある作曲の手法であり、テイチクが説く作曲の極意そのものです。
この『テヌート』という舞台も、その点では徹底していました。
テヌートという男こそが柱です。その復讐心と狂気こそがテーマであり、そこをクローズアップするために、余計な夾雑物はことごとく削ぎ落とされています。
手法は何ら変わりません。いつもの自分たちのやり方です。
──いや、一点だけ、とびきりの違いがありました。
(僕が劇作家なら、そもそもこの二人を最初から登場させない。なのに、この作家はわざわざ彼らを物語に残した。出演させたんだ)
わざわざ出演させておきながら、一顧だにせず使い捨てる。
悪趣味だ。
ポメロは心の底からそう感じました。
これを面白いと思って書いているのなら、この劇作家とは、逆立ちしても友達になれそうにありません。
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