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トルバドーれ!  作者: 袴田八峰
第二十九幕『あなたにも、メロディ、あげたい』

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90/105

三席


 風呂上がり、ポメロはテイチクのボロ家へと連れ戻されていました。

 

 部屋の中は、積み上げられた五線譜の束と、空のインク瓶、そして食べ散らかしたコッペパンの袋で溢れかえっています。

 

 家具らしいものは、鍵盤の一部が象牙ではなく剥き出しの木になっている古いアップライトピアノだけでした。


「ケッ、狭くて悪かったな。そこらへんの譜面を枕にでもして寝やがれ」


 テイチクは再びねじり鉢巻きを締め直すと、安酒の瓶を煽り、ポメロにもコップを差し出しました。

 

 窓の外では、カーネギーの夜風がトタン屋根をガタガタと鳴らしています。


「……六歌仙、なぁ。まあ、四十年は前になるかな。おいらも昔は、六歌仙・革新の冠を押し付けられてた時期があったんだよ」


 テイチクの目が、遠い過去を見つめるように細められました。


「有識者会議。あいつらは徹底してやがる。議員の正体は隠匿、会議の場所も非公開。六歌仙でさえ、遣いの野郎を通してしかやり取りができねえ。だが、時の領主──あの議長だけは別だ。表向きの顔が必要だからな」


 テイチクの声が一段低くなります。


「おいらはある日、その野暮天領主の目の前で、六歌仙の金看板を思い切り投げ捨ててやったのさ。あんな窮屈な椅子に座ってたら、パンの焼ける匂いも、職人の汗の音も聞こえやしねえからな」


 地位を捨てたテイチクが向かったのは、劇場ではなく路上の喧騒でした。

 

 彼は街角でピアノを叩き、労働者たちのための短いフレーズを投げ銭のパン一つで配り始めました。

 

 この勝手な表現活動に対し、有識者会議はすぐさま公式に遺憾の意を表明し、六歌仙への復帰を命じたのです。


「おいらの六歌仙辞表は受理されてなかった。だがよ、おいらは無視した。一番舞台に上がらねぇで、もっとデカい音で、もっと短い爆弾フレーズを街中にバラ撒いてやったのさ」


 テイチクは酒を飲み干し、吐き捨てるように続けました。


 その代償は、あまりにも残酷で徹底したものでした。会議はテイチクを【楽壇】から除名に処したのです。


「除名ってのは、単に仲間外れにすることじゃねえ。あらゆる音楽表現活動による金銭、およびそれに類する報酬の授受を、法的に一切禁じるということだ。歌を歌ってパン一つ受け取っても、それは違法な取引とされる。おいらは音楽で一銭も稼いじゃいけねえ、生きた幽霊にされたのさ。あいつらは、おいらを餓死させて、音を根絶やしにするつもりだったんだ」


 以来、彼は記録から消され、それまでの貯えを切り崩し。街の人々が優しい隠匿として差し出す、帳簿に乗らない食べ物や施しだけで生き延びてきたのです。


 レ・ミゼラブル!


 ミューズ様。この哀れな子羊に慈悲は与えられぬのですか?


 継続して楽曲が奉納されているので問題ないですか。そうですか。


 失礼しました。


「いいか小僧。いくら六歌仙になりてえつっても、あいつらの言う芸術に魂を売るんじゃねえぞ。飢え死にしようが、記録を消されようが、誰かの耳に残り続ける音だけが本物だ。魂だけは売り渡すんじゃねえ」


 テイチクはそう吐き捨てると、酒の回った顔で早々に高い鼾をかき始めました。



───── ♬ ─────



 暗い部屋の中に、地響きのような大いびきが鳴り響いています。


 テイチクは楽譜の山を枕に、腹を波打たせて爆睡していました。その激しい音は、時折ぴたりと止まり、数秒の不気味な静寂の後、また爆発したように再開されます。


 そんな生命の危機さえ感じさせる轟音の傍らで、ポメロは眠るどころか、文字通り目が爛々と冴えてしまっていました。

 

 頭の下には、テイチクが書き捨てたスコアの山がありました。

 

 窓から差し込む薄い月明かりと、小さなランプの火を頼りに、彼はその一枚一枚を貪るように読み耽っていました。


(……なんだ、これは。どれも十秒そこら。長くても三十秒。一音の無駄もない)


 ポメロがページを捲るたび、狭いボロ家は幻想的なイメージの奔流に侵食されていきました。

 

 ある五線譜を見れば、視界の端で時計の針が猛烈な速度で逆回転を始め、秒針の刻む音が黄金の火花となって散ります。

 

 またある紙片を手に取れば、部屋の隅に真っ白な洗濯物が翻り、石鹸の泡が星屑のように天井を埋め尽くしました。


 リノのイメージの伝播は、彼女の清廉な心と【魔法】の相乗効果が生む、奇跡のような現象でした。

 

 ですが、テイチクのフレーズが呼び起こすこの幻覚は、似て非なるものです。

 

 これは魔法ではありません。純然たる技術のみが到達した、機能美の極点なのです。


 巨大な音楽の原石を、迷いなく切り落とし、不純物を削ぎ落とし、血を吐くような研磨を繰り返した果てに、ただの一粒だけ残された職人のキャッチーでした。


 あれも取り込みたい、これも表現したいという作曲家の欲を完膚なきまでに振り切り、テーマには一切の遊びも、一ミリのブレも存在しません。


 主張する一点。それしか見えなくなるのです。

 

 故に明確にイメージの形が浮かび上がります。


(……そして、似ている。僕の楽曲づくりに)


 ポメロもまた、極限の一点を目指し、その一点をあるがままに表現するために、余計なものを見出しては削ってきました。


 例えば、刺激が強すぎて封印曲としている『ヤダ!』は、不快感を不快感のまま切り出した問題作です。付随する怒りや並んでいた拒絶感をバッサリ切り捨てて純度を上げました。


 また、エレクトラと共に作った『濡れ鼠のブルーズ』に至っては、挫折の瞬間──水面で足を攣った瞬間を切り取るために、エレクトラが必須だと判断した「後悔」や「悲哀」をも切り捨てています。それは沈み始めてから初めて感じるものですから、「その瞬間」にはありえない感情だ、と。


 このタコ入道は、先にいます。

 

 ポメロが進むべき道の、ずっと向こうを歩いているのです。


「……ただの一言。それだけなのに、なんて雄弁なんだ」


 ポメロは震えました。


 自分が理屈や執念で辿り着こうとしていた高みに、この男は秒で、それも技術だけで居座っています。

 

 ポメロの中に、激しい渇望が沸き上がりました。

 

 この男に、教えを請いたい。

 

 僕の持っている引き算を、この次元まで昇華させたい。


「びえっっくし!」


 突然、テイチクが眠ったまま大クシャミをかましました。


 飛び散る飛沫。手鼻以上にきったないそれを腕で拭うこともせず、タコ入道は再び何事もなかったかのようにガァーッと凄まじい大いびきを再開しました。


(でも、間違いない。僕が求めていた答えは、ここにある!)


 夜が明ける頃、ポメロの瞳には、かつてないほどに研ぎ澄まされた確信の光が宿っていました。

 

 人の心のど真ん中を秒で射抜くための、身を削ぐような引き算。

 

 それが必要なのです。



───── ♬ ─────



 トタン屋根の隙間から、鋭い朝の光が差し込み、埃の舞う室内を照らし出しました。


 「カァーッ、ペッ!」という豪快なタン切り音と共に、テイチクが目を覚まします。

 

 タコ入道はむくりと起き上がると、ねじり鉢巻きをギュッと締め直し、まだ床に座り込んでいたポメロを睨みつけました。


「なんだ小僧、一晩中起きてやがったのか。ショボショボした目をしやがって」


 ポメロは、しょぼしょぼした瞳を爛々と輝かせ、テイチクの前に正座して深く頭を下げました。


「テイチクさん、お願いします! 僕に、あなたの音を教えてください。一晩、あなたのスコアを拝見しました。僕が目指すべき引き算の答えが、あそこには全部詰まっていました。どうか、僕を弟子にしてください!」


 床に額をこすりつけるポメロを、テイチクは冷ややかな目で見下ろしました。


「……本気かよ。いいか、おいらは有識者会議から目の敵にされてる幽霊だぜ? おいらに関わったことがバレりゃあ、おめえの輝かしい六歌仙への道は、その瞬間にドブ川行きだ。あいつらは執念深い。おめえの履歴書に、一生消えねえ墨を塗られるぞ」


「構いません」


 ポメロは顔を上げ、テイチクの節くれ立った、インク汚れの染み付いた手を力強く握りしめました。


「そんな名誉よりも、僕はあなたのフレーズに惚れたんです! 魔法も理屈も超えて、秒で脳を焼く……その本物の技術を学びたいんです! 有識者会議だって、あなたの曲ならねじ伏せられる!」


「な、ななな……ッ!」


 惚れたという直球の言葉に、テイチクは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしました。


 次の瞬間、彼は大げさな動作でその手を振りほどき、鼻の下をごしごしと乱暴にこすりながら、ぷいっと横を向きます。


「てやんでえ! 気持ちの悪いこと言いやがってコンチキショウ! おいらの手はな、インクと汗でベタベタなんだよ!」


 ですが、隠しきれません。


 横を向いたテイチクの、磨き上げられたような禿頭の横にある耳が、みるみるうちに沸騰した茹蛸のように真っ赤に染まっていきます。


「どうか」


「……ケッ。そこまで言うなら勝手にしやがれ! ただしよ、おいらの指導は地獄よりも厳しいぞコノヤロウ!!」


 照れ隠しの怒声が、朝の静かな貯水塔の裏に響き渡りました。


 ポメロは、その真っ赤な耳を見つめながら、勝利を確信して力強く微笑みました。



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