二席
町外れの古い貯水塔。その裏手に、継ぎ接ぎだらけの木材と錆びたトタンで組まれた、今にも崩れそうなボロ家がありました。
周囲には人家もなく、ただ湿った風が吹き抜けるだけの荒れ地でした。
ですが、そこから漏れ出す音は、カーネギーのどの劇場よりも濃密な熱を帯びていました。
「甘いんだよ! そんな腑抜けた音、パンのイースト菌も起きやしねえッ!」
地響きのような怒鳴り声でした。
直後、ガタのきた鍵盤楽器が、短く、ですが心臓を鷲掴みにするような三秒のフレーズを叩き出します。
(……すごい。今の三音で、空気が震えた?)
ポメロは戦慄しました。ですが、驚愕はそれで終わりませんでした。
「ケッ! まだ湿っぽいや。未亡人の溜息じゃねえんだ、朝の光を鳴らしゃがれコンチキショウ!」
二度目の怒鳴り声と共に、鍵盤がひときわ高く跳ねます。
先ほどと同じ三音。ですが、リズムの溜めが僅かに削られ、響きがより鋭利に研ぎ澄まされていました。
ポメロの肌に、まだ見ぬ焼き立てのパンの熱気が、チリチリと伝わってくるような錯覚さえ覚えます。
「いけねえ、いけねえや! まだ説明してやがる。理屈じゃねえんだ、本能をひっ掴め!」
三度目。
それはもはや音楽というより、火花の散る衝突でした。
完璧だったはずの前の二つを、自ら無価値だと切り捨てる破壊的更新。
三秒の旋律に、生命の躍動すべてが詰め込まれた至高の一撃でした。
ポメロは、吸い寄せられるようにボロ屋の扉に手をかけました。
(なんだこれ……なんだこれぇ!? 結果はわかるよ、すごく良くなってる。でも、どう考えたらそこに行きつくのか全然わかんない!)
この、街中の名もなき名曲を産み出し続けている、幽霊の正体を──。
「あの、ごめんくだ──」
ギィ、と扉が開いた、その瞬間でした。
「おいらがフレーズ探してる時は、誰も入るなって張り紙してるだろうが! このすっとこどっこいのてやんでえめッ!!」
シュッ、と鋭い風を切る音。
避ける暇もありませんでした。
バシャッ!
重い衝撃と共に、ポメロの視界が漆黒に染まりました。
顔面を直撃したのは、投げつけられたインクの瓶でした。
真っ黒な液体をポタポタと滴らせ、呆然と立ち尽くすポメロの前に、そいつは立っていました。
「あ……」
頭にねじり鉢巻きを締め、黄ばんだ粗末なランニングシャツからは、噴き出した汗が滝のように流れています。
真っ赤な顔をした、太い首筋に血管を浮き上がらせる禿頭の老人でした。
これがタコ入道!
怒り狂って熱を帯びたその姿は、まさに深海から這い出てきた、巨大なタコの化身のようでした。
「真っ黒けだな、小僧! 運のねえ奴だ! だが知らねえツラだな? 何しに来やがった!?」
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ゆらゆらと白い湯気が立ち込める、古びた銭湯の洗い場でした。
壁のペンキは剥げ落ち、カランからは時折錆びた水が混じって出てくるような、街の外れにある一番安い銭湯です。
「……すまねえな、小僧。おいらせっかちでよ。創作の最中に風が動くだけで、せっかく捕まえかけたフレーズが逃げちまう気がして、つい手が動いちまった。服は、まあ、なんとか弁償してやらぁ」
湯船に浸かり、ねじり鉢巻きを解いたタコ入道──テイチク──が申し訳なさそうに言いました。
鉢巻きを外したその頭は、磨き上げられたように滑らかな禿頭でした。
テイチクの着ていたランニングシャツは、脱ぎ捨てられた籠の中で、もはや何色だったか判別もつかないほど使い込まれ、あちこちに穴が空いていました。
「いえ、お構いなく。創作の邪魔をされたくないお気持ち、僕も音楽を志す身としてよく分かります。……それより、背中、お流ししましょうか?」
石鹸の泡でその岩のような広い背を撫でると、テイチクは「おお、すまねえ」と目を細めます。
「あー、あー! 痒いところに手が届きやがるぜ畜生! こいつはとんだ三助だ! 小僧。名前はなんてんだ?」
「ポメロといいます。……テイチクさん、僕は、あなたの音を追いかけてここまで来ました。あの圧倒的な手数を産む作曲法を学びたいんです.僕には、どうしても登り詰めなければならない場所がある。どうしても、【六歌仙】にならなければならないんです」
その言葉が、静かな浴室に響いた、次の瞬間でした。
「……あんだとォッ!?」
ゴボリ、と湯船が鳴りました。
テイチクの背中から、猛烈な熱気が立ち昇ります。
なだらかな斜面だったはずの禿頭が、瞬く間に朱に染まり、首筋の血管が沸騰したように脈打ち始めました。
「六歌仙だと!? あの、有識者会議の犬っころどもに媚びを売って、冠を欲しがるってのかコンチキショウッ!!」
茹蛸モードでした。
真っ赤に茹で上がった巨躯が、ドチャリと洗い場へ躍り出ます。
「そんな薄汚ねえ志で、おいらの門を叩いたのかッ! てやんでえ、表へ出やがれッ!!」
バシィッ! と、吸盤のような勢いの張り手が、ポメロの胸にぶつけられました。
ポメロは必死に身を翻し、飛び散る湯気をかいくぐりながら、石鹸の泡に滑りそうになりながらも必死に弁解しました。
「違います! 誤解です! 手段としてです! 有識者会議クソくらえ! 地位が欲しいわけじゃない! 六歌仙という立場に登り詰めないと、絶対に会わせてもらえない子がいるんです……!」
その、悲鳴に近い真実の叫びでした。
振り上げられたテイチクの、真っ赤な右腕が空中で止まりました。
「……あ、会えない、子だぁ?」
数秒の沈黙がありました。
みるみるうちにテイチクの身体から赤みが引き、元の、ただの頑固なタコ入道へと戻っていきます。
テイチクは呆然と立ち尽くした後、不器用に鼻をすすりました。
「……泣かせる話じゃねえか、てやんでえバーローちくしょい!」
突然、テイチクの大きな目から大粒の涙が溢れ出します。
彼は指で片方の鼻の穴を塞ぐと、洗い場に向けて豪快に「フンッ!」と手鼻をかみました。
飛び散る飛沫を拭いもせず、テイチクは湿った声で呟きます。
「……すまねえな。おいら短気でよ」
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