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トルバドーれ!  作者: 袴田八峰
第二十九幕『あなたにも、メロディ、あげたい』

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二席


 町外れの古い貯水塔。その裏手に、継ぎ接ぎだらけの木材と錆びたトタンで組まれた、今にも崩れそうなボロ家がありました。


 周囲には人家もなく、ただ湿った風が吹き抜けるだけの荒れ地でした。

 

 ですが、そこから漏れ出す音は、カーネギーのどの劇場よりも濃密な熱を帯びていました。


「甘いんだよ! そんな腑抜けた音、パンのイースト菌も起きやしねえッ!」


 地響きのような怒鳴り声でした。

 

 直後、ガタのきた鍵盤楽器が、短く、ですが心臓を鷲掴みにするような三秒のフレーズを叩き出します。


(……すごい。今の三音で、空気が震えた?)


 ポメロは戦慄しました。ですが、驚愕はそれで終わりませんでした。


「ケッ! まだ湿っぽいや。未亡人の溜息じゃねえんだ、朝の光を鳴らしゃがれコンチキショウ!」


 二度目の怒鳴り声と共に、鍵盤がひときわ高く跳ねます。

 

 先ほどと同じ三音。ですが、リズムの溜めが僅かに削られ、響きがより鋭利に研ぎ澄まされていました。

 

 ポメロの肌に、まだ見ぬ焼き立てのパンの熱気が、チリチリと伝わってくるような錯覚さえ覚えます。


「いけねえ、いけねえや! まだ説明してやがる。理屈じゃねえんだ、本能をひっ掴め!」


 三度目。

 

 それはもはや音楽というより、火花の散る衝突でした。

 

 完璧だったはずの前の二つを、自ら無価値だと切り捨てる破壊的更新。

 

 三秒の旋律メロディに、生命の躍動すべてが詰め込まれた至高の一撃でした。


 ポメロは、吸い寄せられるようにボロ屋の扉に手をかけました。


(なんだこれ……なんだこれぇ!? 結果はわかるよ、すごく良くなってる。でも、どう考えたらそこに行きつくのか全然わかんない!)


 この、街中の名もなき名曲を産み出し続けている、幽霊の正体を──。


「あの、ごめんくだ──」


 ギィ、と扉が開いた、その瞬間でした。


「おいらがフレーズ探してる時は、誰も入るなって張り紙してるだろうが! このすっとこどっこいのてやんでえめッ!!」


 シュッ、と鋭い風を切る音。


 避ける暇もありませんでした。


 バシャッ!

 

 重い衝撃と共に、ポメロの視界が漆黒に染まりました。


 顔面を直撃したのは、投げつけられたインクの瓶でした。


 真っ黒な液体をポタポタと滴らせ、呆然と立ち尽くすポメロの前に、そいつは立っていました。


「あ……」


 頭にねじり鉢巻きを締め、黄ばんだ粗末なランニングシャツからは、噴き出した汗が滝のように流れています。

 

 真っ赤な顔をした、太い首筋に血管を浮き上がらせる禿頭の老人でした。


 これがタコ入道!


 怒り狂って熱を帯びたその姿は、まさに深海から這い出てきた、巨大なタコの化身のようでした。


「真っ黒けだな、小僧! 運のねえ奴だ! だが知らねえツラだな? 何しに来やがった!?」



───── ♬ ─────



 ゆらゆらと白い湯気が立ち込める、古びた銭湯の洗い場でした。


 壁のペンキは剥げ落ち、カランからは時折錆びた水が混じって出てくるような、街の外れにある一番安い銭湯です。


「……すまねえな、小僧。おいらせっかちでよ。創作の最中に風が動くだけで、せっかく捕まえかけたフレーズが逃げちまう気がして、つい手が動いちまった。服は、まあ、なんとか弁償してやらぁ」


 湯船に浸かり、ねじり鉢巻きを解いたタコ入道──テイチク──が申し訳なさそうに言いました。


 鉢巻きを外したその頭は、磨き上げられたように滑らかな禿頭でした。

 

 テイチクの着ていたランニングシャツは、脱ぎ捨てられた籠の中で、もはや何色だったか判別もつかないほど使い込まれ、あちこちに穴が空いていました。


「いえ、お構いなく。創作の邪魔をされたくないお気持ち、僕も音楽を志す身としてよく分かります。……それより、背中、お流ししましょうか?」


 石鹸の泡でその岩のような広い背を撫でると、テイチクは「おお、すまねえ」と目を細めます。


「あー、あー! 痒いところに手が届きやがるぜ畜生! こいつはとんだ三助だ! 小僧。名前はなんてんだ?」


「ポメロといいます。……テイチクさん、僕は、あなたの音を追いかけてここまで来ました。あの圧倒的な手数を産む作曲法を学びたいんです.僕には、どうしても登り詰めなければならない場所がある。どうしても、【六歌仙】にならなければならないんです」


 その言葉が、静かな浴室に響いた、次の瞬間でした。


「……あんだとォッ!?」


 ゴボリ、と湯船が鳴りました。


 テイチクの背中から、猛烈な熱気が立ち昇ります。


 なだらかな斜面だったはずの禿頭が、瞬く間に朱に染まり、首筋の血管が沸騰したように脈打ち始めました。


「六歌仙だと!? あの、有識者会議の犬っころどもに媚びを売って、冠を欲しがるってのかコンチキショウッ!!」


 茹蛸モードでした。


 真っ赤に茹で上がった巨躯が、ドチャリと洗い場へ躍り出ます。


「そんな薄汚ねえ志で、おいらの門を叩いたのかッ! てやんでえ、表へ出やがれッ!!」


 バシィッ! と、吸盤のような勢いの張り手が、ポメロの胸にぶつけられました。

 

 ポメロは必死に身を翻し、飛び散る湯気をかいくぐりながら、石鹸の泡に滑りそうになりながらも必死に弁解しました。


「違います! 誤解です! 手段としてです! 有識者会議クソくらえ! 地位が欲しいわけじゃない! 六歌仙という立場に登り詰めないと、絶対に会わせてもらえない子がいるんです……!」


 その、悲鳴に近い真実の叫びでした。

 

 振り上げられたテイチクの、真っ赤な右腕が空中で止まりました。


「……あ、会えない、子だぁ?」


 数秒の沈黙がありました。


 みるみるうちにテイチクの身体から赤みが引き、元の、ただの頑固なタコ入道へと戻っていきます。


 テイチクは呆然と立ち尽くした後、不器用に鼻をすすりました。


「……泣かせる話じゃねえか、てやんでえバーローちくしょい!」


 突然、テイチクの大きな目から大粒の涙が溢れ出します。

 

 彼は指で片方の鼻の穴を塞ぐと、洗い場に向けて豪快に「フンッ!」と手鼻をかみました。

 

 飛び散る飛沫を拭いもせず、テイチクは湿った声で呟きます。


「……すまねえな。おいら短気でよ」



───── ♬ ─────



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