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トルバドーれ!  作者: 袴田八峰
第二十九幕『あなたにも、メロディ、あげたい』

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88/106

一席


 九月の柔らかな陽光が、カーネギーの石畳を黄金色に染めています。


 ポメロは、自身の内側に巣食う停滞の正体を見つめながら歩いていました。


 パウに指摘された自分の弱点。

 

 一曲の作成に時間がかかりすぎること。そして熱情の発動が外部からの刺激に依存していること。

 

 ですが、六歌仙という頂へ至るには、ネオが示したような圧倒的な手数が必要不可欠なのです。

 

 ブレイクスルーのきっかけを掴むべく、ポメロはただの観察者として街へ出ました。


 行き交う馬車の車輪の音。石畳を叩く紳士の杖。

 

 香ばしい小麦の香りに誘われて足を止めると、通りの角の小さなパン屋。

 

 恰幅の良い店主が焼き立てを棚に並べながら、軽快な歌声を響かせました。


 ♪── 焼きたて、ふかふか、お日様の味

 ♪── 黄金こがねドレスを、脱がせておくれ


 わずか十数秒でした。

 

 ですが、ポメロの口から涎が垂れました。


 通りすがりの主婦や、急ぎ足の学生までもがふと足を止め、その旋律に誘われるようにふらふらと店内へ吸い込まれていきます。


 この感じ、どこかで何度も聴いています。

 

 まるで懐かしい人に出会ったような。

 

 嬉しい便りが今届いたような。


 あの時、弦を買いに行った楽器部品店の親父が、油まみれの指先で愛おしそうに呟いていたリズム。


 ♪── ネジを巻いたら、おやすみなさい

 ♪── ギヤを噛ませて、夢の続きを

 

 霧の深い朝、工場の煙突掃除の少年たちが、煤にまみれて合図に使っていた鋭いフレーズ。


 ♪── 空を磨いて煤散らせ、星の居場所は空けとけよ


 それは煌びやかなステージではありません。

 

 生活の、泥臭い日常の隙間に完璧に溶け込んでいました。

 

 カーネギーに居を移して一年半。

 

 ポメロは、意識せずとも何度もその音楽を浴びていたのです。


 一瞬で脳に焼き付くコンセプト。

 

 誰が作ったかも知れぬ、暴力的なまでにキャッチーな旋律。


 ポメロは吸い寄せられるように店内に入り、クロワッサンを二つ買いました。

 

 紙袋を受け取る際、店主に真っ直ぐな視線を向けます。


「……すみません。今、歌っていらしたその歌、作者はどなたですか?」


 ポメロの問いに、店主は包みにかけていた手をぴたりと止めました。

 

 それまでの陽気な表情が、まるで冬の湖面のように静まり返ります。

 

 店主は店内の客を素早く見回し、カウンター越しに身を乗り出して小声で囁きました。


「……よしてくれよ、お客さん。野暮なことを聞くもんじゃない」


「野暮、ですか? 僕はただ、この素晴らしい旋律を書いたのがどんな方か知りたくて」


「いいかい、この街にゃあ【名前を呼んじゃいけない音】ってのがあるんだ。こいつは、親切な隠居爺さんが、鼻歌で教えてくれただけだよ。あのお方は、金も取らなきゃ名も名乗らねえ。ただ、パンが美味そうに焼けたら、この歌で客を呼べって、それだけ置いていったのさ」


「ほむほむ」


「まあ、この町に住む年寄りなら、誰もが知ってることなんだけどさ」


 と、店主は少しだけ表情を和らげて付け加えました。


 ポメロは、店主のその眼差しに奇妙な温もりを感じました。

 

 権力を背景にした強制力で沈黙を強いられているのではないのでしょう。

 

 あくまでも自主的な思いやりによる、優しい隠匿なのでしょう。


 自分たちに豊かな音を授けてくれた幽霊を、今の静かな生活から引き摺り出したくないという、庶民なりの仁義なのだと感じたのです。


 ですがポメロの熱情は止まりませんでした。


「それで、なんですけど」


 ポメロがさらに食い下がろうとしますと、店主は無理やりクロワッサンの袋を押し付け、背中を向けてしまいました。


「もう勘弁してくれ。これでも喋りすぎて後悔してんだ。さあ、冷めないうちに持っていきな」


 追い出されるように店を出たポメロは、黄金色のクロワッサンを一つ口に含みました。


 サク、という小気味良い音。

 

 広がるバターの香り。


 そこには、先ほどの十秒の旋律がそのまま味になったような、恐ろしいほどの調和がありました。


(名前を、呼んじゃいけない音……)


 ポメロは確信しました。


 この街の毛細血管に密やかに紛れているあれらの音の主は、楽壇と距離を置いて存在する、不可触の存在なのだと。

 

 店主は口を割りませんでした。ですが、その優しい沈黙が、逆にポメロの心に熱い火をつけました。

 

 親切な隠居爺さんは、どこにいる。

 

 ポメロは残りのクロワッサンを口に放り込むと、再び街の雑踏へと足を踏み出しました。



───── ♬ ─────



 ポメロは、耳を研ぎ澄ませてカーネギーを彷徨いました。


 一度音楽の癖を覚えてしまえば、街は宝の山でした。建物の隙間から、地下の窓から、至る所に【親切なご隠居】のものと思しき指紋が残されています。

 

 ですが、驚くべきはその多様性でした。場所ごとに、まるで呼吸を変えるようにリズムの構造が異なっていました。


 まずは広場に面した時計修理店でした。複雑に絡み合う歯車の隙間から、精密機械のような正確無比なスタッカートが漏れてきます。


  ♪── チク、タク、刻むよ、小さな命を。

  ♪── チク、タク、止まれば、昨日になっちまう。

 

「親父の代、気難しそうな巨漢の客が、修理代の代わりに置いていった旋律メロディさ。おかげでこの時計は一度も狂っちゃいねえ」


 次に訪れたのは、裏通りの洗濯場でした。女たちがたらいを囲み、洗濯板を叩く重い低音に、滑り込むような三連符の合唱が響いていました。


  ♪── ゴシゴシ! 泡立て! 真っ白けっけ!

  ♪── 昨日の涙も、流れてしまえ!

 

「誰に教わったかって? さあね、運河のほとりで酔っ払ってたお爺さんが、あたしたちの不揃いなリズムに腹を立てて、勝手に譜面を書き殴っていったのよ」


 さらに歩き、木工工房の軒先を通ると、大工たちが鉋をかける「シュッ」という摩擦音を、あえて長い休符で活かした情緒的な旋律を耳にしました。


  ♪── 木の肌は、あたたかい。……シュッ。

  ♪── 千年の眠りを、今、椅子に。 ……シュッ。

 

「作者かい? ……あんた、有識者会議の回し者じゃねえだろうな。あのお人は、俺たちの誇りを歌にしてくれたんだ。場所は教えられねえが、一つだけ言っとく。あのお人はお前らと違って、日の当たるところにはいねえよ」


 四か所目、大通りに店を構える老舗の菓子店【飴屋本舗】でした。

 

 そこには、一際優しく、どこか懐かしさを誘う魔法のようなフレーズが流れていました。


  ♪── どうぞ、メロディーィー

  ♪── まだあーるーー、メロディー


 ポメロはその場で立ち尽くしました。あまりにも郷愁をさそう音楽。


 口に蘇るバタースコッチの味。


 ふと見ると、飴を買いに来ていた幼い女の子が、そのメロディに乗せて勝手に替え歌を歌いながらスキップをしていました。


  ♪── タコにゅうどうの、うたー! 怒るとまっかっかー!


「えっ、タコ入道?」


 ポメロが驚いて問いかけると、女の子は無邪気に北の町外れを指差しました。


「そうだよ! 町外れの古い貯水塔の裏に、タコの化身が住んでるの。いつもピアノを叩き壊すみたいな音をさせて、怒鳴り散らしてるんだよ! こーんな優しくて甘ーいアメの歌も作ってるくせにさ!」


 少女は口ずさみました。

 

  ♪── どうぞ、メロディーィー

  ♪── まだあーるーー、メロディー


 ついに、尻尾を掴みました。

 

 ポメロは女の子に礼を言うと、影が長く伸びる石畳を、北へと走り出します。

 




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