四席
「これからマンモス様の本当の歌い収めが始まります。お静かに願います」
老紳士アッシャーがハルモニアへと投げた言葉は、もはや案内ではなく厳命でした。
その横で、ポメロとリノが同時に瞼を押し上げます。
室内に佇むハルモニアを認め、リノは純粋な喜びに頬を緩めましたが、ポメロの背筋には凍り付くような戦慄が走りました。
ハルモニアが纏う空気が、あまりに異質だったのです。
そこにあったのは、疲れた表情でぼやきを零す宮廷詩人の仮面を剥ぎ取った、冷徹な諜報員の顔でした。
射抜くような視線は鋭利な刃物の冷たさを湛え、ただそこに立っているだけで周囲の温度を奪い去るような、隠密部隊隊長としての素顔です。
まあ、疲れてはいるんですけど。唇も荒れてるんですけど。
ですが、リノはその殺気すら厭わぬ無垢な足取りで、ハルモニアへと近寄りました。
そして、なでなで。
かつて、奏鳴荘の勝手口で、汚れ物を持って立っていた彼を癒やした時と同じように。その小さな掌が触れた瞬間、ハルモニアの顔が耐えきれぬようにくしゃりと歪みました。
「リノお嬢様……私は……」
なでなで。なでなで。
リノの指先が触れるたび、研ぎ澄まされていた「刃」の気配が霧散していきます。
氷のような視線に人の情が灯り、じょじょに、いつもの、愛すべき道化の気配へと戻っていきました。
「騙すつもりが騙されてェ──」
ベベン!
と三弦を鳴らすハルモニア。
「ですのでお静かに。それとも退場なさいますか?」
「すみません」
アッシャーの慇懃が直接介入し、ハルモニアはリノを席へ促すと、自らも一人の忠実な従者のようにその脇に侍りました。
「お話は、マンモスさんの雄姿をこの耳に焼き付けてからでいいですか」
楽師の顔に戻ったハルモニアは、舞台へと向き直りました。
「ええ勿論ですよ。古き時代の終焉の瞬間、宮廷楽師として心に刻みますとも!」
アンコールに、タイトルコールなど不要でした。
舞台袖から湧き上がる、地鳴りのような拍手に迎えられ、マンモスがゆっくりと姿を現しました。
その手には一本のステッキ。
劇中ではあんなに堂々と振る舞っていたのに、今の彼の歩みには、隠しようのない老いと痛みが刻まれています。
こつ、こつ──。
静寂を支配する杖の音。不安定に揺れる巨躯です。
会場の誰もが息を呑みました。
今、目の前で一つの巨大な星が、その命の灯火を燃やし尽くそうとしているのだと。
「主役を食うバス」
「オペラ山脈」
「歌声すなわち地震」
その男を称えるラッパが、天を衝くように吹き鳴らされました。
突き抜けるような八小節。
直後、全楽器が暴動を起こしたかのように炸裂する、重厚なオーケストラヒット!
「ダスプッティン序曲か?」
「子供への門出の歌だろ? なんで今これを?」
一階の最前列で、ドリーが小さく鼻を鳴らしました。
その表情には、呆れと、そして深い慈しみが同居しています。
一階席で彼女にだけは、マンモスの選曲の意図が分かったからです。
「やれやれ……ジジイはほんとうに孫馬鹿だねぇ。自分の晴れ舞台をガキどもに費やすなんてさ」
後方理解者面でそうつぶやいた彼女の瞳には、かつて共に戦った盟友の、不器用で巨大な愛の形がはっきりと見えていました。
客席がどよめきます。
マンモスは不敵に笑いました。
漆黒のステッキを舞台の隅へ投げ捨てました。
両足を震わせながらも、己の肉体だけで大地を、歴史を、一番舞台を踏みしめます。
そして、その眼光が三階の特別貴賓室を射抜きました。
見つめるのは、彼が守ると決めた二人の少年少女です。
ですが、その視線の先に立ち尽くすハルモニアと目が合った瞬間、マンモスは深く、重く、一度だけ頷きました。
ハルモニアの瞳が、驚愕に大きく揺れます。
(──後は頼んだぞ、お抱え道化。この子らの行く末を、音楽の光を、お前が守れ)
その無言の遺言を眼差しに込め、巨人は息を吸い込みました。
深く。
深く。
深く。
常人の数倍、数十倍の空気が、その巨大な肺腑へと吸い込まれていきます。
♪── ッ!!!
発せられたのは、歌という名の「衝撃波」でした。
その声は劇場の壁を震わせ、シャンデリアを悲鳴のように鳴らしました。物理的な圧力を伴ったバスの低音が、観客一人一人の心臓の鼓動を強制的に上書きしていきます。
♪── がんばれ! せかいをみてこい!
その咆哮は、王がテラスから旅立つ王子に贈る、至上の祝福です。
一階席の紳士淑女たちは、そのあまりの声量に椅子へとのけぞりました。
彼らが聴いているのはもはや旋律ではありません。
一人の男が四十年の歳月をかけて磨き上げた魂の質量そのものです。
♪── お前の知らないことはいっぱいあるぞ!
♪── 楽しいことも不安なことも!
声は、地底から湧き上がるマグマのように、聴衆の足元から這い上がってきました。
それは歌劇王の遺言です。
バスの音域の深淵、そのさらに下に眠る「大地の震え」を、彼は自らの喉から絞り出しました。
声が響くたび、空気が物理的な粒子となって劇場内を駆け巡り、聴衆の皮膚をビリビリと叩きます。
彼は歌いながら笑っていました。
白い歯は、かつての黄金期と変わらぬ輝きを放ち、剥き出しの生命力が、衰えたはずの肉体を一時的に神格化させています。
もはや歌ですらありません。
それは、この二番舞台という宇宙そのものを、マンモスという一人の巨人が飲み込み、再構築してゆく儀式のようでした。
ポメロは、その歌声の中に、マンモスの巨大な手が自分の背中を力強く押し出す感触を覚えました。
(お前の音楽を、信じろ)
リノは、その響きの中に、どんなに遠くへ行っても消えることのない慈父の抱擁を感じ、大粒の涙を零しました。
(お前は、愛されるために生まれてきたのだ)
♪── だが心配するな! 挑戦を楽しめ!
♪── お前の父は、いつでもここでお前の背中をみているぞ!
最後の一節です。
マンモスの声は、もはや人間の喉から出る音を超越していました。
楽器の音がふっと消え、完全な無伴奏──静寂という名の海の中に、彼の肉声だけがホールの空気を、人々の鼓膜を、そして運命そのものを震わせ続けます。
歌い切った瞬間。
マンモスは、ゆっくりと、しかし満足げにその巨体を舞台の中央に沈めました。
オペラ山脈が、崩れたのです。
一拍。
二拍。
拍手さえも躊躇われるほどの神聖な空白の後、二番舞台をかつてない熱狂の嵐が飲み込んでいきました。
ポメロは、涙を拭うことさえ忘れ、舞台に残された漆黒のステッキを見つめていました。
伝説の終焉。
───── ♬ ─────
熱狂の余韻が冷めやらぬ中、リノは静かに立ち上がりました。
彼女は再び、あの完璧で、どこか遠い国の高貴な他人のような、お上品なカーテシーを一礼しました。
それは休憩時間の終わりを告げる儀式でした。
深紅のドレスを翻し、彼女は再び令嬢の時間へと戻っていきます。
「待ってください」
ポメロは、リノに付き従うハルモニアを呼び止め、その背中に小声で尋ねました。
「これからもリノに会いたい。どうすればいい?」
ハルモニアは足を止め、ゆっくりと振り返りました。
その顔には、諜報員のものと楽師もの、二つの顔を併せ持った、静かな微笑みだけがありました。
「今日の邂逅は、マンモス様が仕掛けた奇跡のようなもの。これを最後の思い出となされませ」
「リノをこちらに引き寄せようとはしない。あなたたちがリノを使ってやっていることに口出しはしない。……それをリノに吹き込むこともしない。それでも?」
ポメロの切実な言葉に、ハルモニアは僅かに瞳を細めました。
「はい。こちらの懸念しているところを解消して頂けるとは助かりました。ですが、足りません」
「何が?」
「身分です。庶民と貴族を隔てる壁。それは地平の果てまで続く絶壁。そうやすやすとは超えられませぬ」
「やすやすとは」
ポメロは、その言葉を反芻するように噛み締めました。
「はい、やすやすとは」
「……ランキング一位になっても?」
「足りません」
「年間ランキング一位では?」
「足りません」
ポメロは拳を握りしめ、三階から見える劇場全体の煌めきを見渡しました。
『せかいをみてこい!』
『挑戦を楽しめ!』
そして、巨獣マンモスが命を懸けて守り、そして自分に託した背中を思い出します。
「じゃあ……【六歌仙】に至ったら?」
ハルモニアは答えませんでした。
ただ、月明かりのような、アルカイックな微笑を浮かべるだけでした。
彼女はそのまま深々と一礼すると、一度も振り返ることなく、令嬢を追って廊下の闇へと消えていきました。
ロージェに一人残されたポメロの耳には、まだマンモスの咆哮が鳴り響いていました。
そのエールに背中を強く、強く押され、ポメロは誰もいない客席に向かって、自らの新たな北極星を掲げました。
届かない歌を届かせるために。
隣で昼寝をする権利を勝ち取るために。
少年は今、本当の冒険へと踏み出したのです。




