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トルバドーれ!  作者: 袴田八峰
第二十六幕「あなたとお昼寝がしたい」

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二席


「――だからまだ、マンモスさんは出ないね」


 ポメロがプログラムを指差しながら教えると、リノは優雅に、一点の曇りもない微笑を浮かべて頷きました。

 

 その動作一つをとっても、教育が行き届いた貴婦人のそれでした。


(もどかしい)

  

 ポメロの胸の内を、得体の知れない焦燥感がじりじりと焼き焦がしていきます。


 開演前の二十分。そして開演してからの十五分。その間、ポメロは狂ったように話し続けました。

 

 最初の十分は、会えなかった半年間に募らせた自分自身の気持ちを。

 

 次の十分は、あるじを失って少しだけ静かになった奏鳴荘の様子を。

 

 そして最後の十分は、自分がどのような迷いを経て、どのような音楽を刻んできたのかを。


 ついに話題は尽きました。

  

 自分が独りよがりにまくし立てている自覚はあります。

 

 ですが、リノの反応はあまりに完璧すぎて、まるで暖簾に腕を押しをしているような、手応えを感じられぬ虚しさが残るのです。


 本当なら、会話がしたい。

  

 リノは言葉を持ちませんが、代わりに【魔法】の歌で心を伝えることができます。

 

 ですが、今はオペラの只中です。客席で声を上げるなど、二番舞台の、しかも恩あるマンモスの引退興行では許されません。

  

 『マンモスの最後の花道、汚すんじゃないよ』

  

 ドリーの言葉が、呪縛のようにポメロの喉を塞いでいます。


「?」


 リノは、ポメロの沈黙を不思議そうに見つめ、首を少しだけ傾けました。


 彼女は決して無視をしているわけではありません。

 

 ポメロの言葉に対し、薄く微笑んだり、「まあ」と驚いた顔を作ったり、悲しげに眉根を寄せたり、時には扇子を動かして上品に不快を表明したりします。

 

 蔑ろにしているわけではないのです。


 ですが、ポメロがもう一度会いたいと切望した、あの「にこにこ」「きょどきょど」「うわー!」「ぷんぷん!」と、感情が噴水のように溢れ出すリノは、どこにもいませんでした。

  

 今の彼女は、完璧な貴族の仮面を被っています。


(仮面……なのかな?)


 ポメロの胸に、底冷えするような不安が宿ります。


 人間はちょっとしたことで変化します。それをポメロは見てきました。

 

 エレクトラは煙草を吸わなくなり、ドリーは溜息が増え、火掻き棒のスイング音すら弱くなりました。


(それとも……)


 人は、他人には見せない面を持っています。ポメロはそれも知りました。

 

 デッカは「お前の音楽は苦手だ」と本音を突きつけ、エピタフは師を欺きながら編曲に耽っています。


 ならば、リノは?


 今、目の前で優雅に微笑むこの姿こそが、彼女が半年かけて辿り着いた本当のリノなのでしょうか。


 ポメロが口を噤んだのを察したのか、リノの顔は再び舞台へと向きました。

  

 オペラは第一幕の佳境に入っていました。

 

 ソプラノのアリアが、怒りに満ちた高音で劇場の空気を切り裂いています。

 

 その感情は、聴き手の肌に突き刺さるような鋭利な熱を持っていました。


 怒り。

 

 それはかつてのリノが最も嫌い、恐れていた感情です。

 

 以前の彼女なら、怒りを発する者がいるだけで「ぴゅーっ」と逃げ出していたはずです。

 

 ですが、今のリノは。

 

 たおやかに。

 優雅に。


 ただの芸術鑑賞を楽しんでいるだけのような、落ち着いた横顔のまま、静かに舞台を見つめていました。


 その横顔のあまりの正しさに、ポメロの胸に「しかたない」の一滴が零れました。



───── ♬ ─────



 一幕目が終わりました。

 

 一階席から湧き上がる拍手が、ホールの精緻な反響を通して、どこか無機質な機械音のように三階まで届きます。

  

 リノは立ち上がることもなく、指先を合わせる程度の拍手を数回、音を立てずにこなしました。

 

 そこに宿るのは、称賛ではなく義務感。

 

 奏鳴荘のベランダで、洗濯物を干しながら屈託なく笑っていた彼女とは、あまりにかけ離れた姿勢でした。


(もう……リノは……)


 ポメロの心に「しかたない」の雫がぽたりと落ちて、ブルーズの水たまりに小さな波紋を広げました。


「すこし席を外すね」


 ポメロは腰を浮かせました。

 

 次の幕からは、あの巨星マンモスが登場します。

 

 彼に敬意を払い、その最後の雄姿をこの目に焼きつけなければなりません。

 

 頭を切り替えなくては。

 

 リノはもう、立派な令嬢になったのです。

 

 それは喜ばしいことなのだと、自分に言い聞かせながら。


 扉が自動的に開きました。

 

 脇に控えていた老紳士アッシャーが、慇懃に頭を下げます。


「お手洗いは左手奥に。洗面台には時計もございます」


 ですが、その時でした。


 ぎゅっ……。


 立ち上がろうとしたポメロの正装の袖口に、微かな、しかし確かな抵抗が走りました。

 

 見れば、リノの小さな手が、彼の袖を必死に掴んでいました。


「あ」


 ポメロが嘆息を漏らすと、リノはハッとしたように手を離しました。

 

 そして、両手をぶんぶんぶん!と振り回し、「違うの、違うの!」と言いたげに、首まで一緒に振り乱しました。


「あはっ」


 ポメロの口から、自然と笑みが零れました。


 これです。やっぱり、この子はリノです。


 笑みを深めたポメロの視線に気づき、リノは自分の取り乱しぶりに赤面しました。

 

 ばっと扇を開いて顔を隠しますが、その奥から「はふぅ、はふぅ」と呼吸を整える、必死な息遣いが聞こえてきます。


 ポメロはそっと、その扇を取り上げました。

 

 扇の向こう側で、リノは目に涙を溜めていました。


「そっちのほうがいい」


 リノは、ポメロの言葉を吸い込むように聞き入ります。


「そうやって感情が顔に出るリノの方が、ずっといい」


 リノは困ったような、まるでお世話係のハルモニアを彷彿とさせる「ハの字」の眉を作りました。


「でも……今のリノは、貴族令嬢なんだね」


 こくこく。


「しっかりした令嬢になるために、頑張ってるんだ」


 こくこく。


「お作法も、よく身についてた。最初はリノじゃないかと思っちゃうくらい、完璧にお嬢様だったんだ」


 こくこく。


「……淋しい想いをさせちゃったね」


 リノの動きが止まります。


「気を遣わなくてもいいよ」


 こくこく!


 リノの口が、もにょもにょと動き始めました。何かを伝えたがっている口。

 

 歌を、心の魔法を解き放ちたがっている口です。


「アッシャーさん。ここでちょっとだけ、歌を歌ってもいいですか? 休憩時間の間だけ。小声で」


 ポメロの問いに、アッシャーは静かな笑みを浮かべました。


「実は……この三階はマンモスさまの貸し切りとなっておりまして。構造的に音が下層には届かぬ仕組みとなっております。小声と言わず、どうぞお好きにお歌いください」


 マンモスからの、特大のプレゼントでした。


 ポメロは、その老音楽家の深い慈愛に目頭を熱くしました。ですが、マンモスの追撃はそれだけではありませんでした。


「この三階の特別ロージェというのはですね……誠に不本意ながら、紳士淑女の密会の場としても需要を頂いておりまして……こうして、出窓を閉じてしまえば……」


 アッシャーが、舞台と客席を隔てていた重厚な出窓を閉ざします。


 ぎぃぃぃい──。


 重い音と共に、外界の喧騒は完全にシャットアウトされました。


「このように、内にも外にも、一切の音が漏れなくなるのですよ」


 これこそが、マンモスの気遣いの極致でした。

 

 心の孫娘と若き友、二人が何を求め、何に苦しんでいるかを、彼はすべて読み切っていたのです。


「でも、マンモスさんの舞台は……」


「さらに、マンモス様からは、こう。私の事は気にせず、存分に半年の空白を埋めて欲しいと。自分の本当の最終公演は、アンコールのソロにある。そう伝えるよう言付かっております」


 どこまでも、大きな背中でした。


「アンコールの開始前には一度お声がけ致します。では……ごゆるりと」


 アッシャーが静かに退出し、個室には、漆黒の静寂と、少年と少女の吐息だけが残されました。



───── ♬ ─────



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