二席
「――だからまだ、マンモスさんは出ないね」
ポメロがプログラムを指差しながら教えると、リノは優雅に、一点の曇りもない微笑を浮かべて頷きました。
その動作一つをとっても、教育が行き届いた貴婦人のそれでした。
(もどかしい)
ポメロの胸の内を、得体の知れない焦燥感がじりじりと焼き焦がしていきます。
開演前の二十分。そして開演してからの十五分。その間、ポメロは狂ったように話し続けました。
最初の十分は、会えなかった半年間に募らせた自分自身の気持ちを。
次の十分は、主を失って少しだけ静かになった奏鳴荘の様子を。
そして最後の十分は、自分がどのような迷いを経て、どのような音楽を刻んできたのかを。
ついに話題は尽きました。
自分が独りよがりにまくし立てている自覚はあります。
ですが、リノの反応はあまりに完璧すぎて、まるで暖簾に腕を押しをしているような、手応えを感じられぬ虚しさが残るのです。
本当なら、会話がしたい。
リノは言葉を持ちませんが、代わりに【魔法】の歌で心を伝えることができます。
ですが、今はオペラの只中です。客席で声を上げるなど、二番舞台の、しかも恩あるマンモスの引退興行では許されません。
『マンモスの最後の花道、汚すんじゃないよ』
ドリーの言葉が、呪縛のようにポメロの喉を塞いでいます。
「?」
リノは、ポメロの沈黙を不思議そうに見つめ、首を少しだけ傾けました。
彼女は決して無視をしているわけではありません。
ポメロの言葉に対し、薄く微笑んだり、「まあ」と驚いた顔を作ったり、悲しげに眉根を寄せたり、時には扇子を動かして上品に不快を表明したりします。
蔑ろにしているわけではないのです。
ですが、ポメロがもう一度会いたいと切望した、あの「にこにこ」「きょどきょど」「うわー!」「ぷんぷん!」と、感情が噴水のように溢れ出すリノは、どこにもいませんでした。
今の彼女は、完璧な貴族の仮面を被っています。
(仮面……なのかな?)
ポメロの胸に、底冷えするような不安が宿ります。
人間はちょっとしたことで変化します。それをポメロは見てきました。
エレクトラは煙草を吸わなくなり、ドリーは溜息が増え、火掻き棒のスイング音すら弱くなりました。
(それとも……)
人は、他人には見せない面を持っています。ポメロはそれも知りました。
デッカは「お前の音楽は苦手だ」と本音を突きつけ、エピタフは師を欺きながら編曲に耽っています。
ならば、リノは?
今、目の前で優雅に微笑むこの姿こそが、彼女が半年かけて辿り着いた本当のリノなのでしょうか。
ポメロが口を噤んだのを察したのか、リノの顔は再び舞台へと向きました。
オペラは第一幕の佳境に入っていました。
ソプラノのアリアが、怒りに満ちた高音で劇場の空気を切り裂いています。
その感情は、聴き手の肌に突き刺さるような鋭利な熱を持っていました。
怒り。
それはかつてのリノが最も嫌い、恐れていた感情です。
以前の彼女なら、怒りを発する者がいるだけで「ぴゅーっ」と逃げ出していたはずです。
ですが、今のリノは。
たおやかに。
優雅に。
ただの芸術鑑賞を楽しんでいるだけのような、落ち着いた横顔のまま、静かに舞台を見つめていました。
その横顔のあまりの正しさに、ポメロの胸に「しかたない」の一滴が零れました。
───── ♬ ─────
一幕目が終わりました。
一階席から湧き上がる拍手が、ホールの精緻な反響を通して、どこか無機質な機械音のように三階まで届きます。
リノは立ち上がることもなく、指先を合わせる程度の拍手を数回、音を立てずにこなしました。
そこに宿るのは、称賛ではなく義務感。
奏鳴荘のベランダで、洗濯物を干しながら屈託なく笑っていた彼女とは、あまりにかけ離れた姿勢でした。
(もう……リノは……)
ポメロの心に「しかたない」の雫がぽたりと落ちて、ブルーズの水たまりに小さな波紋を広げました。
「すこし席を外すね」
ポメロは腰を浮かせました。
次の幕からは、あの巨星マンモスが登場します。
彼に敬意を払い、その最後の雄姿をこの目に焼きつけなければなりません。
頭を切り替えなくては。
リノはもう、立派な令嬢になったのです。
それは喜ばしいことなのだと、自分に言い聞かせながら。
扉が自動的に開きました。
脇に控えていた老紳士アッシャーが、慇懃に頭を下げます。
「お手洗いは左手奥に。洗面台には時計もございます」
ですが、その時でした。
ぎゅっ……。
立ち上がろうとしたポメロの正装の袖口に、微かな、しかし確かな抵抗が走りました。
見れば、リノの小さな手が、彼の袖を必死に掴んでいました。
「あ」
ポメロが嘆息を漏らすと、リノはハッとしたように手を離しました。
そして、両手をぶんぶんぶん!と振り回し、「違うの、違うの!」と言いたげに、首まで一緒に振り乱しました。
「あはっ」
ポメロの口から、自然と笑みが零れました。
これです。やっぱり、この子はリノです。
笑みを深めたポメロの視線に気づき、リノは自分の取り乱しぶりに赤面しました。
ばっと扇を開いて顔を隠しますが、その奥から「はふぅ、はふぅ」と呼吸を整える、必死な息遣いが聞こえてきます。
ポメロはそっと、その扇を取り上げました。
扇の向こう側で、リノは目に涙を溜めていました。
「そっちのほうがいい」
リノは、ポメロの言葉を吸い込むように聞き入ります。
「そうやって感情が顔に出るリノの方が、ずっといい」
リノは困ったような、まるでお世話係のハルモニアを彷彿とさせる「ハの字」の眉を作りました。
「でも……今のリノは、貴族令嬢なんだね」
こくこく。
「しっかりした令嬢になるために、頑張ってるんだ」
こくこく。
「お作法も、よく身についてた。最初はリノじゃないかと思っちゃうくらい、完璧にお嬢様だったんだ」
こくこく。
「……淋しい想いをさせちゃったね」
リノの動きが止まります。
「気を遣わなくてもいいよ」
こくこく!
リノの口が、もにょもにょと動き始めました。何かを伝えたがっている口。
歌を、心の魔法を解き放ちたがっている口です。
「アッシャーさん。ここでちょっとだけ、歌を歌ってもいいですか? 休憩時間の間だけ。小声で」
ポメロの問いに、アッシャーは静かな笑みを浮かべました。
「実は……この三階はマンモスさまの貸し切りとなっておりまして。構造的に音が下層には届かぬ仕組みとなっております。小声と言わず、どうぞお好きにお歌いください」
マンモスからの、特大のプレゼントでした。
ポメロは、その老音楽家の深い慈愛に目頭を熱くしました。ですが、マンモスの追撃はそれだけではありませんでした。
「この三階の特別ロージェというのはですね……誠に不本意ながら、紳士淑女の密会の場としても需要を頂いておりまして……こうして、出窓を閉じてしまえば……」
アッシャーが、舞台と客席を隔てていた重厚な出窓を閉ざします。
ぎぃぃぃい──。
重い音と共に、外界の喧騒は完全にシャットアウトされました。
「このように、内にも外にも、一切の音が漏れなくなるのですよ」
これこそが、マンモスの気遣いの極致でした。
心の孫娘と若き友、二人が何を求め、何に苦しんでいるかを、彼はすべて読み切っていたのです。
「でも、マンモスさんの舞台は……」
「さらに、マンモス様からは、こう。私の事は気にせず、存分に半年の空白を埋めて欲しいと。自分の本当の最終公演は、アンコールのソロにある。そう伝えるよう言付かっております」
どこまでも、大きな背中でした。
「アンコールの開始前には一度お声がけ致します。では……ごゆるりと」
アッシャーが静かに退出し、個室には、漆黒の静寂と、少年と少女の吐息だけが残されました。
───── ♬ ─────




