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トルバドーれ!  作者: 袴田八峰
第二十六幕「あなたとお昼寝がしたい」

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一席


 使い古された舞台化粧の白粉と、重厚なベルベットの帳が吸い込んできた数十年分の汗の匂い。

 

 二番舞台の楽屋裏は、華やかな表舞台の熱狂を影で支える、湿り気を帯びた静寂に包まれていました。


「ごめんねー。よびつけちゃってー」


 その声は、かつて劇場の隅々まで震わせた「歌声すなわち地震」の片鱗を残しながらも、今はどこか穏やかな、日向ぼっこの陽だまりのような響きを持っていました。

  

 元【六歌仙】が一人、【歌唱】の冠をかつて抱いていた男・マンモス。

  

 巨躯を支えるのは、かつての威容を誇る両足の筋肉ではなく、その手に握られた一本の漆黒のステッキでした。

 

 それはお洒落を気取った装飾品などではなく、長年の酷使に悲鳴を上げた両膝を、かろうじて現世に繋ぎ止めるための杭でした。


「……悪いのかい?」


 ドリーが、その膝を鋭く射抜くように見つめました。

 

 かつて同じ舞台に立ち、共に喝采を浴びた「硝子細工のプリマ・ドンナ」の目は、戦友の身体に刻まれた終わりの予兆を見逃しません。


「にちじょうせいかつはもんだい無いけどー。ぶたいのうえはねー」


 マンモスは、U字に禿げ上がった頭を少しだけ傾け、困ったような、それでいて憑き物が落ちたような笑みを浮かべました。

 

 歌謡ショーであれば、杖を突いて歌うことも許されるでしょう。

 

 ですが、彼が命を懸けてきたのは歌劇オペラです。一歩踏み出すごとに大地を揺らし、愛を叫び、絶望に身を投じる演技が求められる場所において、この膝はもはや秒読みの時を刻んでいました。


「いろいろ考えたけどー。むすことのじかんも大事にしたいしー。引退をきめたんだー」


 その顔に、湿っぽい寂寥感はありませんでした。


 「息子」──彼がリノの魔法によって得た、あの小さな仔猫との平穏な日々を天秤にかけ、彼は自ら幕を引くことを選んだのです。


「長い間頑張ったね。お疲れさん」


 ドリーの言葉は短かったですが、そこには三十年という歳月を共にした者だけが分かち合える重みがありました。


 二人はしばし、窓から差し込む夕刻の光の中で、言葉のない物思いに沈みました。

 

 楽屋に充満する埃が、スポットライトを浴びた紙吹雪のように、ゆっくりと宙を舞っていました。


「それでねー。いんたい興行をうつことになったからー。ドリーをしょうたいしたいとおもってー」


「ああ、最後の雄姿、見せてもらうよ」


 ドリーが即座に応じると、マンモスは嬉しそうに目を細め、さらにもう一段階、声を低めました。

 

 それは、公の六歌仙としてではなく、一人のお爺ちゃんとしての顔でした。


「もうひとつねー」


「なんだい?」


「お爺ちゃんからまごむすめたちに、おくりものをしたいと思ってー」



───── ♬ ─────



「うわー。うわー? ……うわー!」


 二番舞台。そこは「至高の場所」たる一番台に次ぐ、カーネギー音楽界の至宝にして権威の象徴でした。


 フルオーケストラを従えた歌劇や、100人規模の混成合唱を発表できる、ナンバーズ唯一の大型舞台です。


 天井から降り注ぐシャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に反射し、ポメロの目を白黒させました。

  

 今日のポメロは、いつものボロボロの綿シャツではありません。

 

 仕立てのいい、ピカピカの正装に身を包んでいます。一文無しで路頭に迷っていた春は遠く、

 

 今の彼は年収600万クラス──並の中小企業の中間管理職すら凌駕する「稼げるトルバドール」となっていました。


「あんまりおのぼりさんっぷりを晒すんじゃないよ。エスコートされてるアタシが恥かいちまうんだからね」


 隣で腕を組むドリーが、扇子の影から釘を刺します。


 ポメロは必死にアームエスコートを試みますが、いかんせん歩幅が合いません。

 

 階段でつんのめるポメロと、それを支えるドリー。

 

 絵にならないことこの上ないですが、周囲の紳士淑女たちは武士の情けか、あるいはドリーの放つ「元プリマ」の威圧感に気圧されたか、揃って見ないふりを決めていました。


「女に歩調をあわせるんだ!」


 ドリーが、ドレスの袖越しにエア火掻き棒の素振りで威嚇します。


「ごめんなさい」


 この日のために、ポメロの尻は何度も火掻き棒の犠牲になりました。腫れ上がった尻を抱えて眠れぬ夜を越え、ようやく辿り着いたのがこの赤じゅうたんの上なのです。


「マンモスの最後の花道、汚すんじゃないよ」


「うす!」


 ポメロはネクタイを締め直し、気を引き締めます。

 

 やがて二人はフォワイエへと至り、燕尾服のアッシャーがチケットを確認しました。


「マダムはこちらへ。ヤング・マスターは3階のロージェですね」


「アタシに案内は結構。この子についてやっとくれ」


「畏まりました」


「あれ? チケットは連番じゃ……」


 ポメロは思わずドリーの袖を掴み、あざとい上目遣いで縋りました。ですが、ドリーの姿勢は鉄壁です。


「落ち着きなポメロ。格式なんて気にしないで、常識の範囲でこの雰囲気を楽しめば良いのさ」


 慇懃なポーカーフェイスの老アッシャーもまた、ドリーに同調しました。


「マンモス様からのご配慮でございます。特等席からの景色、どうぞお楽しみ下さいませ」


 背中で語るように手を振り、ドリーは一階席の奥へと消えていきました。その引き際は、かつての舞台さながらに様になっています。


「ではヤング・マスターはこちらへ」


「お手数かけます……」


 アッシャーに導かれ、ポメロは城のような空間を進みました。領主館すら質素に思えるほどの豪華絢爛さです。


「良く似合っておりますよ」


「ですかね?」


「ええ、若々しい精気に満ちておられます」


「ですよね!」


 老アッシャーが時折投げかけるプロの賛辞に、ポメロの緊張はほどよく解けていきました。


 三階に上がると、そこは一階の喧騒が嘘のように静まり返っていました。

 

 客の姿もなく、重厚な木戸が並ぶ廊下を歩きます。そして、目的のボックス席につきました。


「ヤングレディがお待ちですよ」


「れで……!」


 アッシャーの言葉に、心当たりはありません。ですが、脳裏にひらめく顔があります。心拍数が跳ね上がりました。


 開かれた扉の先──二つ並んだ椅子の片方に、深紅のドレスを纏った少女が座っていました。


「リノ!」


 ポメロの声に、白髪の少女がゆっくりと振り返ります。彼女の瞳が一瞬だけ、驚きに揺れました。


 ポメロは迷わず駆け寄りました。


「リノ……っ!」


 ですが、その手が届くより先に。


 少女は静かに立ち上がり、凛とした動作で威儀を正しました。


 そして。


 唇の両端を僅かに上げ、慈悲深い聖母のようなアルカイックスマイルを浮かべると、流麗な動作で膝を折り、深紅の裾を広げてカーテシーを披露したのです。


 それは、少年の馴れ馴れしさを優雅に拒絶し、立場を弁えぬ無礼を咎めるかのような、完璧な貴族の礼法でした。


 ポメロは、あと三歩という位置で凍りついたように立ち止まりました。

 

 顔を見直します。

 

 そこにいるのは、間違いなくリノです。

 

 それなのに。


「リノ……?」


 少年には、目の前の少女が──名前さえ知らない、どこか遠い国の高貴な他人のように感じられてしまいました。



───── ♬ ─────



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