三席
かつて野心作『俺で塗れ!』を産み落とした、あの十三番舞台ゲストハウス。
剥がれかけた壁紙、カビ臭い空気、踏めば鳴る床板。
破壊と爆発の象徴だったこのボロ家は、今、ポメロを家族の温もりから隔離し、表現者の業へと引き摺り込むための、冷徹な独房へと変貌していました。
窓の外では、春の終わりを告げる雨が、音もなく街を濡らしています。
それはかつてエレクトラと共に歩いた『濡れ鼠のブルーズ』の夜のような、奪われる体温をお互いの眼差しでやり過ごす、寒いけれど温かみもある雨とは違いました。
ただ、静かに、執拗に、地表の熱を奪い去っていくような、孤独に震えながらも終わりのない「しかたない」の雨でした。
(……あはは。やっぱり、しんどいな)
ポメロは冷たい床に座り込み、膝を抱えました。
『お前の歌、好きじゃないんだわ』
デッカに言われた完全なる拒絶の言葉。
かつてなら、それを撥ね退けるだけの熱い反発心が湧いたはずでした。
ですが、今のポメロの胸の底にあるのは、どれほどかき混ぜても汲み出せない、粘り気のある重苦しいメランコリー。
デッカ先輩の耳を、好みを、感性を、僕が変えることなんてできない。
どれほどいい曲を書いたとしても、届かない場所がある。
それは、どうしようもないことでした。僕には、どうすることもできなかった。だから、しかたない。
ぽたり、と。胸の奥に、澱んだ雫が落ちました。
暗く冷え切ったこの場所で、ポメロはただ一つの言葉を暗闇の壁に刻みつけるように反芻していました。デッカがポメロを引かせることになった契機の言葉。
『僕の愛するこの歌が、君の心に響かない』
これだ。
今、この喉元まで競り上がっている寒さを集約するならば、デッカの語ったこの言葉以外にあり得ません。
ポメロは膝を抱え、ギターのネックを杖のように握りしめて思考の深淵へと潜っていきました。
ポメロは、漆塗りの暗い茶色のボディを抱き寄せます。
ギター仙人から託された、頑固で個性的な「高齢童貞」。
ホールの内側にまで漆を塗り重ねられたこのいぶし銀の相棒は、夜の湿気を吸い込んで、より一層落ち着いた鈍い光沢を放っています。
湿り気を帯びた弦に、そっと指を触れました。
ポーン、と。
本来なら剃刀のようなキレを見せるはずのこのギターが、今は主人の心象に寄り添うように、夜露を吸い込んだ哀切な音を漏らしました。
これまでのように、溢れる断片をこね合わせ、熱量で塗り固める作業はもう必要ありません。今すべきは、自分の中に固まってしまったこの拒絶という名の宝玉を、あえて粉々に砕くこと。
剥がして、割って、散らばった破片を一つずつ拾い上げ、どれが一番冷たく、どれが一番鋭いかを選別する作業。
(……すれ違い、じゃないんだ)
それは、もっと静かで、決定的な断絶。
届かないのではない。届いた上で、相手の心という土壌には根を張れなかった。その事実を直視する痛みが、指先を凍えさせていきます。
寂しい。ですが、そこには【しかたない】という冷徹な諦めが必要でした。
デッカは悪くない。自分の歌が悪いわけでもない。ただ、重なり合わない波形がそこにあるだけ。
ポメロは、この必要な後ろ向きをあえて抱きしめました。
また、しずくが、ぽたりと落ちる。胸にたまる。
ブルーズの水たまりに波紋が広がる。
(納得、はしている。……でも、淋しいんだ)
頭では理解できています。音楽には好みがあり、一線がある。
心ではそれを飲み込めません。デッカ先輩に音楽を避けられていたなんて。
「……なんだよ。結局、僕はこうして、悲しみさえも食い物にして生きていくんだな」
自嘲気味な呟きが、誰もいない部屋に虚しく響きました。
ですが、その言葉を吐き出した瞬間、ポメロのペンは止まることなく五線譜の上を走り始めました。
『ひとでなしですね』
かつてギター仙人に投げかけられた言葉が、脳内で呪文のようにリフレインします。
デッカに、あんなに切実な顔で好きじゃないと言わせてしまいました。
彼のスタンスを、彼の平穏を、自分のエゴで土足で踏み荒らしてしまいました。
気づける契機はいくらでもあったのです。
空気を読めば早い段階で身を引けました。
結局は熱情を振り回して、押し付けて。迷惑をかけていることにすら気づかなかったのです。
学びを生かせなかったのです。
その事実に胸を痛めながらも、ポメロの右手は止まりません。
(ああ、最低だ。……僕は、デッカ先輩の優しさまで利用して、音楽を作ろうとしている)
デッカがわざわざ仮面を脱いで、真剣に向き合ってくれたからこそ、この拒絶はこれほどまでに美しく、重く、動かしようがないのです。
それを逃さず、一滴残らず譜面に吸い取らせます。
親愛なる先輩の背中を、創作という名の暗い焚き火に、燃料として投げ入れます。
感謝している。感謝しているからこそ、僕はあなたの配慮を、ここで使い切らねばならない。あなたの拒絶を譜面に叩き込み、僕らの終わりを旋律として消費する。
(先輩の耳に、僕の音はどんな風に響いているんだろう)
ノイズか、ただの風の音か。
大好きなものを受け入れてもらえない絶望を、ポメロは怒りに変えることを拒みました。
怒ってしまえば、灯火はただの攻撃になります。
悲しみのまま、凍えたまま、この【隔たり】を楽曲にしなければなりません。
(……そうだ。この距離こそが、僕たちの真実だ)
手を伸ばせば届く距離にいて、同じ屋根の下で笑い合って。それでも、魂の奏でる旋律だけが、どうしても交わらない瞬間がある。
その淋しさを、美しいメロディで着飾る必要はありません。
ポメロは、その境界線を【わかりあえなさ】という名の澱みとして、ただじっと見つめ続けました。
正体を看破し、名前を付けてとっ捕まえるようなことはしません。何故ならこれは熱情ではなく、ブルーズの水たまりに映った夢の残滓。生涯抱えて生きていくしかない諦念の発露なのです。
ポメロは、砕け散った想いのなかから、一番尖った破片を選び取りました。
それは、デッカに投げられた「好きじゃない」という言葉の裏側にある、自分自身の「それでも好きだ」という呪いのような執着。
(諦めるよ、デッカ先輩。……でも、歌うよ。あなたに響かない、この歌を)
ペン先が藁半紙を突き破り、インクが黒い涙のように散ります。
「……できた」
かつての熱情が嘘のような、切ない旋律のバラードでした。
納得という名の重りと、淋しさという名の弦。
それらが一つに結ばれたとき、暗闇の中でポメロの指が、静かに、けれど深く、抉り出すように弾きました。
そうして出来上がった曲は、あの熱狂を目指した『楽園』とは対極の、全く弾き語りのために生まれたかのような曲となりました。
あなたに届かない歌だから。多人数のノリも、デッカの刻むリズムもいらない。僕とギター。それだけで完結する、完結せざるを得ない、閉じた世界。
夜明け前、ゲストハウスから漏れ出すその音は、あまりにも透き通り、あまりにも切なく、胸の奥に引っかかる音でした。
ポメロは、漆塗りのボディを愛おしそうに撫でました。
色気を理解できない「高齢童貞」は、こうしたブルージーな旋律を奏でるときには、より深みを増した響きを返してくれます。
救われたのではない。ただ、この地獄を抱えたまま生きるための、新しい呼吸法を覚えただけ。
「明日を生きなくちゃ……」
脳が、神経が、魂が。全力を使い果たした反動で、回路が焼き切れたような感覚。
ポメロは、カビ臭い床に横たわり、そのまま泥のような眠りに吸い込まれていきました。
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「エモいー」「泣けるー」「淋しくて震える」
ポメロが深夜の倉庫で、凍える指先と孤独な魂を削り取って生み出した『僕の愛するこの歌が、君の心に響かない』。
その曲は、ポメロの予想もしなかった形、すなわち「究極の失恋ソング」として、十代の乙女たちの心に火をつけてしまいました。
たしかに、そこに綴られた「響かぬあなた」への絶望的なまでの執着と、拒絶を受け入れた上での「それでも好きだ」という独白は、恋に破れた少女たちの琴線を激しくかき鳴らしました。
「これ、私のこと歌ってる……」
「一方通行の想いが痛すぎて、聴くのが辛い。でも聴いちゃう」
カーネギーの街角では、半年前には『お嬢様の朗読会』を口ずさんでいた少女たちが、今度は俯き加減にこの切ない旋律をハミングしています。
「……違う。そうじゃないんだ」
公園のベンチで、ポメロは頭を抱えていました。
これはデッカへの、音楽的スタンスの相違による、男同士の【決別と敬意】を込めた歌だったはず。決して、甘酸っぱい失恋の記憶を美化するための道具ではありません。
しかし、ひとたび世に放たれた音楽は、作り手の意図を軽々と飛び越えて歩き出します。
皮肉なことに、デッカに「好きじゃない」と言われたその熱量が、皮肉にも都中の片想いたちの共犯者となってしまったのです。
「いいじゃない、ポメロ君。売れるっていうのは、そういう誤解の積み重ねよ」
八番舞台へ向かうエレクトラが、隣でふふっと肩を揺らしました。
「あの曲の【切なさ】は、確かに本物だった。それが恋か友情か、あるいはもっと得体の知れない執着かなんて、受け取る側には関係ないわ」
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