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トルバドーれ!  作者: 袴田八峰
第二十一幕「目を閉じて私を見て」

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三席


 八番舞台。

 

 音楽の都カーネギーにおいて、そこは【情念の吹き溜まり】と呼ばれ、あるいは【人生の終着駅】と囁かれる特異な聖域です。

 

 華やかな四番舞台の流行歌も、九番舞台の精緻な理論も、ここでは何の意味も持ちません。ただ、どれだけ深く人生の泥を掬い上げ、どれだけ悲痛に絶望を飾り立てられるか。

 

 人が目を背けたい、幸せとは背中合わせでありながらもほど遠い場所にあるここ。ままならぬをままならぬと嘆きながらも受け入れるための収容所です。


 それが八番舞台の存在意義でした。


 一歩足を踏み入れれば、そこには豪華絢爛でありながら、どこか死の香りを漂わせる奇妙な舞台装置が鎮座していました。

 

 セットは贅を尽くされていますが、その輝きは墓標を飾る供花のように、どこか冷ややかで、終わりの予感に満ちています。

 

 客席を満たすのは、安価な酒精と強い煙草の煙、そして長年染み付いた執着という名の怨念の匂いでした。


 今、ステージ上では出し物が順々に、人生の欠片を差し出すように回されています。


 まずは、鮮やかな朱塗りの番傘を差した年配の女形。

 

 ゆるりと、しかし正確なリズムで傘を回しています。朱の骨が空気を切る音すら、誰かの忍び泣きのように聞こえました。

 

 背後には、彼が通り過ぎてきた男たちの幻影が立ち上るかのような、淡いスモーク。歌われるのは、去り行く背中をただ見送るだけの、乾いた諦念の譜でした。

 

 未練を捨てたはずの歌声に、捨てきれぬ情が澱のように溜まり、それが聴衆の胸をじわりと締め付けます。


 次いで、場面が切り替わるようにスポットライトが移動し、黒いドレスを纏った女が姿を現しました。

 

 彼女は微動だにせず、石像のような直立不動の姿勢を保っています。

 

 彼女は歌いません。ただ、自らの詩集を感情の一切を排して朗読します。

 

 その抑揚のない声が、逆に静寂を鋭利な刃物のように研ぎ澄まし、剥き出しの存在感を客席に突きつけていました。


 最後に、舞台のせり上がりから現れたのは、頭に鉢巻を巻いた漁師姿の大御所でした。

 

 彼は、嵐で亡くした息子の名を海に向かって絶叫します。ですが、その悲劇の結びは、息子を奪った海を呪いながらも、その海でしか生きる術を知らぬ己への無残な肯定でした。

 

 逃げられぬ過去、変えられぬ業。それが八番舞台の正解の形だったのです。


「どう、胸に響くでしょ?」


 客席の最前列。

 

 エレクトラとポメロ、そして仲介役として同席したメルダックの前に座る人物が、地を這うような野太い声で語りかけました。


 体つきやしぐさはたおやかな女性のそれであり、身に纏うシルクのドレスも一級品。しかし、丁寧に化粧を施された肌の下には、剃っても剃っても青々と主張する顎髭の跡が生々しく浮かび、立派に突き出た喉仏が、その人物が歩んできた一筋縄ではいかぬ人生を雄弁に物語っています。


 この情念の殿堂を統べる、八番舞台興行主です。


「ここはね、綺麗事じゃお腹がいっぱいにならない人たちのための、最後の晩餐会場なの。泥水ですら、極上のワインに変えて飲み下す強かさが必要なのよ。……さて、十三番の女王が連れてきた【ノフラージェの至宝】。噂は聞いていたわ。でも、聞くのは初めて。あなた、ここで何を曝け出してくれるのかしら。その美しい皮を剥いだ後に、何が残っているのか見せてちょうだい」


 メルダックは不機嫌そうに深く脚を組み、鼻を鳴らします。

 

「いらんプレッシャーかけてんじゃねえよ、ヒゲ女。その女汁啜りてぇなら黙って聞いてろ」


 そう言い放つメルダックの瞳には、言葉とは裏腹に、エレクトラを品定めをするような鋭い光が宿っています。


 ポメロは、漆塗りのギターを抱えていました。

 彼には分かっていました。エレクトラが今、どれほどの恐怖の中にいるかを。

 

 ノフラージェという水槽。銭ゲバ翁という支配者。そこから逃げ出し、自らの意志でこの深淵の海に飛び込もうとする彼女の背中は、いつになく小さく、脆く見えました。


 エレクトラは、ゆっくりと、一歩ずつ踏みしめるようにステージへ上がります。


 その手には、先日ポメロが彼女の要請を受けて生み出したシャンソンの極みが握られていました。


 エレクトラという人物の深奥を覗き、虚飾を剥ぎ取り、魂を削って制作された、エレクトラにしか表現できぬ歌。


──『目を閉じて私を見て』


 あの夜、八番舞台への挑戦を決めかねていた彼女に、ポメロは告げたのです。

 

「僕は、今のあなたを歌にしました。でも、ここから先は……エレクトラさんの意志で、その門を潜ってほしいんです」

 

 その言葉通り、彼女は今、自分の足でここに立っています。


 ポメロのギターが、重く、湿り気を帯びたアルペジオを刻み始めました。

 

 弦が弾かれるたび、エレクトラの滑らかな肌を一本の剃刀がゆっくりと撫で、皮一枚を剥ぎ取っていくような、残酷なまでの解像度。

 

 彼女の喉が小さく爆ぜました。


 歌声は、肺の奥に溜まった古い空気を絞り出すような、掠れたアルトで始まりました。音程を探るのではなく、自らの痛みの輪郭をなぞるような響き。

 

 エレクトラの視界が歪みます。舞台の端に、喪服を纏った自分を見上げる「幼い自分」の姿を幻視しました。

 

 迷子になり、誰かがその手を引いてくれるのを、喉を鳴らして待っている泣きじゃくりそうな子供。


 ──諦めたんじゃない。


 ──諦めを飲み込んだふりをして、ただ立ち止まっているだけ。


 言葉の一つ一つが、肺腑を突き刺します。

 

 ポメロが曲を編み上げる中で喝破したエレクトラの正体。


 【迷子になって立ち竦む少女】。

 

 エレクトラは思い出しました。いつも指に挟んでいた煙草。本当は、あの焦げ付くような苦い味をおいしいと思ったことなど、一度もなかったのです。

 

  ただ、紫煙を燻らせることで、自分の顔を他人の視線からぼやかしていました。それもまた、脆弱な自尊心を隠すための、浅ましい自己防衛の現れだったのです。

  

  煙の向こうに隠れ、ミステリアスを演出することで、立ちすくんでいる自分の姿を必死に隠していただけでした。


 ポメロの旋律は、逃げ道を塞ぐようにねっとりと絡みつきます。

 

 エレクトラの喉は、内側から熱い鉄を流し込まれたように熱を帯び、震え、ついには声そのものが肉の裂けるような痛みを伴って響き始めました。

 

 かつての絶唱の女王たちが、愛と孤独を歌いながら自らを削り取っていったように、エレクトラもまた、己の恥部を旋律の生贄に捧げていきます。


 しかし、歌唱が後半に差し掛かった時、その場にいた全員が、これまでにない何かに直面しました。


 それは、伴奏者であるポメロにすら捉えきれていなかった側面です。

 

 ポメロは、彼女の弱さを、怯えを、受動的な立ちすくみを歌にしました。彼のギターは、彼女の動けない姿を完璧に描写していたはずでした。

 

 ですが、伴奏では表現しきれていない熱量が、エレクトラの五体から溢れ出してきたのです。


「……これは」


 人生の辛酸を嘗め尽くし、あらゆる虚飾を剥ぎ取られた人間の末路を見てきた八番舞台興行主だけが、その光景に別の解釈を見出しました。


 エレクトラは、立っています。

 ただ、立っているのです。


 弱りはて、怯えきり、自分を守るための煙すら奪われ、瞳の奥の涙さえ枯れ果ててなお、彼女はステージの中央で両足を地につけていました。

 

 絶望に打ちひしがれれば、人はしゃがみこみます。

 恐怖に屈すれば、人は倒れこみます。

 ですが、エレクトラはそうしませんでした。

 

 膝を震わせ、今にも砕け散りそうな魂を抱えながら、彼女は立ち続けていました。


 ただ【立ち続けている】というその一点において、彼女の受動的な怯えは、ある種の人たちから見れば、崇高な意志だと映るのです。


「……っ」


 エレクトラの瞳から、大粒の涙が零れ落ち、ステージの板を濡らしました。


 それは聴衆を感動させるための演出ではありません。鏡の中に、ずっと目を逸らしてきた惨めな自分を突き付けられた、敗北の落涙です。

 

 ですが、その涙こそが、八番舞台採用の決め手となりました。


 アウトロ。

 

 ポメロのギターが、その涙を救い上げるのではなく、さらに深い絶望の底へと突き落とすように、残酷なまでに美しいマイナーコードで静かに終息しました。


 歌い終えた瞬間、場内は深夜の墓場のような静寂に包まれました。

 

 興行主は、ゆっくりと立ち上がり、指先まで神経の通った、しかし力強い拍手を送りました。


「素晴らしい……! 素晴らしいわ! これこそ、私たちが待ち望んでいた【暗がりの道標】よ! エレクトラ、あんたという芸術作品は、この八番舞台という額縁の中でこそ完成する! その怯え、その受動的な震え! 客はみんな、あんたの震える肩の中に、行き止まりの自分を救う淡い光を見るわ! あんた、あんなに震えながら、一歩も引かずに立っていた! それがどれほど過酷で、どれほど美しいことか!」


 興行主による最大級の賛辞。

 

 それは、エレクトラがノフラージェを去り、この泥濁りの海で生きていくための生存証明になるはずのものでした。


 ですが、隣に座っていたメルダックだけは、不快感を隠そうともせずに立ち上がりました。


 これまで自らの意志と圧倒的な腕力で運命をねじ伏せ、世の中をしのぎ切ってきたメルダック。

 

 彼女にとって、エレクトラという存在そのものは、完璧に構築された芸術作品として賞賛に値しました。その立ち姿、計算された美貌、纏う衣装のすべてが調和し、一つの極致に達しています。


 しかし、その中心に座る歌が語る感情──誰かに見つけてもらうのを待ち、受動的な怯えの中で立ちすくむ魂の震え──は、メルダックにとっては理解不能な代物であり、生理的な拒絶を催させるものでしかありませんでした。


 明日を掴むために自らを焼き尽くす飢えた獣たる彼女に、救いを待つ人魚の涙はあまりに退屈で、苛立たしい。


 メルダックは、出口へ向かって歩き出しながら、冷徹に言い捨てました。


「濡れないわ」


 大絶賛の渦中で、その宣告だけが、エレクトラの胸に鋭く突き刺さりました。

 

 自分の歌は万人には通用しない。

 脆い心の癒えない傷にしか作用しない。

 だから、しょうがない。

 

 ポメロはギターをケースに収め、エレクトラに手を振ると、メルダックの背を追いかけます。


 ポメロは楽曲を提供した際に「自分の意志で潜ってほしい」と告げました。

 

 そして今、エレクトラは実際にその門を潜って、自らの弱さを曝け出して称賛を勝ち取ったのです。


 たとえメルダックに否定されようとも、彼女は間違いなく一歩を踏み出しました。ポメロにとっては、その事実こそが重要だったのです。

 

 ポメロは、一度だけステージの上で孤独に立つ彼女を振り返り、自立し始めた表現者への、静かな後方保護者面をして会場を後にしました。


 エレクトラの夜は、まだ始まったばかりでした。



───── ♬ ─────



「なんかあんた、変わった?」


 小春日和の穏やかな昼下がり。大通りから一本外れた、客足の少ないオープンカフェのテラス席で、チーママはホットココアをすするエレクトラに問いかけました。


 注がれる視線には、かつての同僚としての親愛と、それ以上に一人の女性としての驚きが混じっています。


「変わってはいないと思うわ。ただ歩き始めただけ」


 エレクトラはカップを置き、事もなげに答えました。

 ですが、チーママは深くため息をついた後、それを力強く否定します。


「もの凄い変化じゃないの!?」


「ふふっ……実は私もそう思うの」


 返る笑みには艶があり、その表情には以前にはなかった張りと、瑞々しい生命力が宿っていました。

 

 これまでの彼女は、磨き上げられた大理石の彫像のように美しく、柔軟に、そしてどこか冷ややかに静止していました。

 

 しかし今の彼女からは、内側から溢れ出す確かな体温が感じられます。チーママは、エレクトラのことはもう心配いらないだろうと、心の底から胸を撫で下ろしました。


「ノフラージェの方、どう?」


 エレクトラが、かつての自分の居場所について尋ねます。


「静かなもんよ。銭ゲバ翁はあんたが去って以来、一度も店を訪れない。経営に口も出してこない。……もう、興味なんてないんでしょうね」


「また、変なところに売りに出されちゃわない?」


「そんな先の事を心配してもしょうがないわ。利益を出し続けてるなら、多分このまま過ぎるでしょ」


 チーママは、達観を含んだ予想を口にしました。支配的な執着が去った後の静寂は、寂寥感よりもむしろ、嵐が過ぎ去った後の凪のような安らぎを店にもたらしているようでした。


「ねえチーママ。ちょっと買い物に付き合ってくれない?」


「また化粧品?」


「ううん。春物の私服を買いたいなって」


 エレクトラの言葉に、チーママは目を丸くしました。


「へー。私服に気を遣うなんて珍しい。どんな心境の変化なんだか」


 あの無彩色で、ジャージをパジャマにしていた彼女が、自分のための装いに興味を持つ。それは、彼女がようやく自分の人生の主権を取り戻した証左でもありました。


「あのね」


 ふふっ、と。

 エレクトラは少女のような照れ笑いを浮かべました。


「年下のコの気を惹きたいの」



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