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トルバドーれ!  作者: 袴田八峰
第十七幕「バイバイ。」

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四席


 ひとでなし……僕はひとでなしだ。

 

 ギター仙人の指摘がポメロの頭の中でリフレインしています。


 相棒を看取るという、自らが主催したその宴を、その途中でひっくり返してぶち壊す。社会でこれをやったら関係者総ブチギレ! 或いは関わりを断つの総スカン! 


 その位のことをポメロはしたのです。100%善意の老人、ギター仙人を巻き込んで。悪びれもせず!

 

 ですがポメロはそれでいいと思いました。それでこそと思いました。熱情を逃がして何が表現者か、と。

 

 夜の帳がさらに深く降り、焚火の爆ぜる音さえも吸い込まれていくような静寂の中。ポメロの視界の端を、何かがかすめました。

 

 それは、彼の胸の奥から這い出した、形なき熱情。

 

 いつもなら獲物を狙う猛獣のように牙を剥き、あるいは内側から突き上げるような衝撃を伴うはずのそれが、今夜は違いました。


 そいつは実体を持たぬ黒い影のくせに、まるで「用は済んだ」と言わんばかりの足取りで、ポメロから離れ、森の奥へとすたすたと歩き去ろうとしています。

 

「待て……待てよ! どこへ行く!」

 

 ポメロは叫び、逃げていく熱情を追いかけました。

 

 藁半紙を握りしめ、ペンを構えたまま。

 

 熱情の背中は、驚くほど冷たいものでした。それは、長年連れ添った相手が、ある朝突然、一切の情を断ち切って家を出ていく時の背中に似ていました。

 

 このギターは、僕のどんなわがままにも付き合ってくれた。指が血に染まるほど練習した日も、故郷を捨てて震えながら馬車に揺られた夜も、こいつだけが僕の腕の中にいた。修理してやりたい。直して、また一緒に歌いたい。


 それは嘘偽りのない、純粋な愛だったはずです。

 

 ですが、今のポメロの指は、修理のための道具ではなく、五線譜を汚すためのペンを握っています。

 

 自らの美学を貫くために、愛したものを置き去りにして、泥まみれの荒野へと踏み出していく。それが表現者という名の「業」だというのなら、あまりに無慈悲。


 もし、ここで「やっぱりこの子を救いたい」と筆を置けば、彼は人としての優しさを取り戻せるだろう。しかし、同時に音楽家として死ぬことになってしまいます。

 

 今、この瞬間にしか生まれない「別れの旋律」を逃して、何がポメロだ。何が表現者だ。

 

 愛している。愛しているからこそ、僕は君を、ここで捨てていかなければならない。

 

 君の断末魔を譜面に叩き込み、君の最後の一息を旋律の燃料にする。

 

 ポメロは、逃げ去ろうとする熱情の首根っこを、言葉の刃で強引にひっつかみました。

 

 「逃がさないぞ……! お前の正体は、もう分かっているんだ!」

 

 暗闇の中で、熱情がゆっくりと振り返ります。その顔は、ポメロ自身の写し鏡のようでありながら、氷のように無機質でした。

 

 「お前は【悲しみ】じゃない! 【愛】ですらない!」

 

 ポメロは吠えます。

 

 「汝の名は────【身勝手な感傷】!」

 

 その名を呼ばれた瞬間、熱情は、まるで急所を撃ち抜かれたかのように激しくのけ反り、その場で踊るようにして崩れ落ちました。

 

 【身勝手な感傷】。

 

 ギターを直せない現実を悲劇に仕立て上げ、ギターの楽しい歌で終わりたいという希望に泥を塗り、ギターの末期を踏みにじっても先へと足を勧める。


 哀愁を帯びて。

 後悔を抱いて。

 自分勝手。


 辛い思いをしている自分は絵になるぞ。

 後ろ髪引かれながらも進むのはストイック。

 今日泣き濡れて眠るのは自らの止まぬ野心を憐れんで。

 センチメンタリズム。


 そんな自分に酔ったのだ。

 いや、乗ったのだ。自ら選んで。

 

 倒れ込んだ熱情からは、バラの花束を散らすが如く真っ赤な血をまき散らし、地面を濡らしていきました。

 

 それは大量の血。ポメロがこれまで相棒と共に歩んできた歳月の重みであり、流されるべきだった涙の代わり。

 

 血は、ポメロの足元にまで広がり、彼が必死に書き連ねていた五線譜を浸食していきます。

 

 ですが、その血に濡れた場所から、美学という名の自己陶酔が、音の粒となって立ち昇ります。

 

 感傷が溶けてゆく。

 

 自分への言い訳が消えてゆく。

 

 後に残ったのは、ただ一本の、真っ白な墓標。

 

 ポメロは、その墓標に刻むようにして、最後の一節を書き殴りました。

 

 ペン先が紙を突き破る。

 

 インクが散る。

 

 『バイバイ。』

 

 それは、愛した過去に向けた言葉であり、自分の中にあったひとがましさへの決別であり、そして、目の前の相棒への、最も不誠実で最も誠実な、最後の手向けでした。

 

 「……できた」

 

 最後の一音。

 

 書き上げた、その瞬間。

 

 ───パキン。

 

 乾いた、けれど決定的な音が、静まり返った森に響きました。

 

 ポメロの膝の上に横たわっていた愛器。

 

 そのネックが、まるで張り詰めていた糸が切れたかのように、自らの張力に耐えかねて、中央から鮮やかに折れたのです。

 

 もう、音は出ない。

 

 弦が弾け、虚しく丸まっている。

 

 まるで、曲が完成するのを、主人が身勝手な決着をつけるのを、じっと待っていたかのような最期でした。

 

 「ああ…… ああ……」

 

 ポメロの手から、ペンが零れ落ちます。

 

 熱情はもういません。

 

 溶けて消えた血の跡も、闇に吸い込まれて見えなくなってしまいました。

 

 目の前にあるのは、火の消えた、冷たい灰の山。

 

 そして、二度と直ることのない首の折れたギター。

 

 ポメロは、折れたギターを胸に抱き寄せようとしましたが、その前に全身の力が抜けてしまいました。

 

 脳が、神経が、魂が。

 

 全力を使い果たした反動で、回路が焼き切れたような感覚。

 

 激しい眠気と疲労が、泥のように彼を飲み込んでゆきます。

 

 「ああ…… あああ…………」

 

 ポメロは、冷たくなった灰のそばで、気絶するように倒れ込みました。

 

 折れたギターを枕にするようにして、彼は深い、深い眠りへと落ちていきました。

 

 森の夜風が、書き上げられたばかりの譜面を、パラパラと弄びます。

 

 そこには、一人の【ひとでなし】が、その美学のために全てを捨てて書き上げた、残酷なまでに美しい墓標が、確かに刻まれていました。



───── ♬ ─────



 眩しさに、ポメロはゆっくりと瞼を持ち上げました。


 視界を焼くのは、真上から降り注ぐ苛烈な太陽。時計の針を見るまでもなく、太陽は天の中点。もう、昼を回っていました。


 辺りを見渡すが、そこにギター仙人の姿はありませんでした。


 昨日までそこにあったはずの、生活の気配。テント。小道具。それらすべてが、焚火の跡だけを律儀に残し、足跡ひとつ残さずに消え失せていました。きれいさっぱり。


 まるで、深夜の深い森に現れる妖精にでも化かされていたかのような、あまりに鮮やかな幕引きでした。


「いたた……」


 強張った体を起こし、ポメロが立ち上がった瞬間、胸元からかさっと乾いた音を立てて一枚の紙が落ちました。


 それは、酷くセピア色に褪せ、今にも風に吹かれれば塵となって散ってしまいそうなほど古い紙でした。そこには、仙人のものと思われる細く端正な筆致で、メッセージが綴られていました。


 『大変業の深い一席にございました。ギターたちに人格を見るわたしのような者にはいささか辛い別れでございましたが、あなたの友は前のめりに力尽きておられましたよ。どこまでもあなたのお供をするという気概で。さて、そんなあなた方に感化されたのか、先の漆塗りの高齢童貞があなたを支えたいと言い出しました。いずれ使い捨てられるとわかっている相手にわが友を託すのはいささか辛うございますが、言い出したら頑固な方です。諦めてお別れすることに致します。仲良くしてやってください』


 ポメロはハッとして、足元に転がっていた自身のギターケースに手をかけました。


 これまで六年、共に歩んできた相棒が入っていたはずのその場所には、昨晩のジャムセッションで仙人が手にしていた、あの漆塗りのギターが鎮座していました。鈍い光沢を放つ、暗い茶色のボディ。


 ポメロはそれを手に取り、肩にかけました。


 一音、鳴らします。


 ──ズン、と。


 歪んだ音。けれど、昨晩の悲鳴のようなそれとは違う、腹の底に響くような力強い音だ。


 そのまま、かき鳴らしてみます。しっかりと指を立てて弾けば一音一音の粒が立ち、わざと雑に爪弾けば、途端に音がひび割れました。


 『弾き様によって反応が変わってくる。扱いの難しさはあるが、工夫のし甲斐がある。まあ、個性的なお方ですわ……』


  仙人の言葉をなぞり、ポメロは自嘲気味に笑いました。この一筋縄ではいかない「表現者」の相棒に、自ら立候補するとは。この新しいギターもまた、仙人に似て酔狂な性格のようでした。


 ポメロは新たな相棒を愛おしげに抱えると、首の折れてしまったかつての相棒を、優しく袖で磨き上げます。


 空になった仙人のギターケース──漆塗りの彼がこれまで入っていたであろう入れ物に、古い相棒を横たえました。


 焚火の跡のすぐ傍、灰の横にそっと、かつての戦友を寝かせました。


『バイバイ。』 



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