二席
ポメロが椅子に腰を下ろし、相棒のギターを膝に乗せたその瞬間、サロンの濃密な空気はわずかに変質しました。
彼はまず歌い出す前に、慣れた手つきでペグを回し始めました。しかし、その指先は調律を拒んでいました。一弦を、だらりと、限界まで緩めていきます。
正確なピッチを命とする奏者が見れば、卒倒しかねない楽器への冒涜。けれど彼にとっては、これからお出しする不快という名の感覚を純粋に響かせるための、必然の準備だったのです。
「……アータ、何してるの?」
メルダックが、ダークブルーの唇から不快なほどに甘い煙を吐き出し、細い眉をひそめました。未知の気配。経験したことのない予感。彼女の肌に、粟立つような好奇心が疼き始めています。
「嫌だ!!!!」
最初の一声。喉の奥を掻きむしるような、剥き出しの絶叫。
ですが、メルダックの反応は冷ややかなものでした。
(……なによ、結局はこれ? ただ大声でがなるだけ。一山いくらのパンク野郎じゃないの。こんなの、ウチには腐るほどいるわよ。耳が痛いだけのご挨拶ね)
彼女の目に、隠しようのない落胆の色が混じります。期待が大きかった分、落胆も大きいのです。
続くギターの「ヤダ!」という擬声さえも、手法としては面白いが、如何せん音が「ペラい」。メルダックはそう感じました。
(音圧ゼロ。空気振動で一弦を震わせてるだけ。そんな器用な小細工、大音響と怒号が支配する十三番舞台じゃ、紙吹雪よりも先に霧散するわよ。アータ、見掛け倒しだったのかしら──)
メルダックが溜息をつき、手元の灰皿に視線を落とそうとした、その時でした。
イントロが終わり、Aメロへと踏み込んだ瞬間、サロンの時空が爆ぜる!
フォルテ、フォルテッシモ。そして、情熱を通り越したアパッショナート!
「ッ!?!?」
メルダックは椅子から飛び退かんばかりに目を剥きます。
突如として荒れ狂うフレットの動き。
ポメロの喉からは、鼓膜を直接針で刺すような、鋭利な金切り声が放たれる。
あまりの変貌。
そこにあるのは、圧倒的な【何か】だ。
けれど、それは暴力ではない。
破壊の意志でもない。
そこには何一つ、思考も、感情も、思想も乗っていない。
ただただ、純粋で、透明で、それゆえに毒々しい【何か】という感覚そのものが、加工されることなくそこに在った。
フェイストゥフェイス。
メルダックの、音楽のドブ川で培われた鋭敏な感性が叫んでいた。
(なんなの……これ、なんなのよ! 分からない。意味が分からない!)
この曲は、このテンポ、この音量、この歪んだ声でしか表現し得ない。
どのような感情を乗せているのかも、何を目的としているのかも不明。
けれど、強烈に「未知」でした。
分かりたい。
触れたい。
飲み込みたい。
その「未知」の引力に、メルダックは激しく身悶え、ソファの革を爪が弾けるほどに握りしめます。
(ヤラれてる。アーシ、この音に、犯され……違う! 抱かれ……違う! 見抜かれ……違うわ! どれも言葉が足りない!)
彼女は、最高潮の官能の淵に立たされていました。
この音は、メルダックに届けようとしていない。メルダックという女に、聴き手に、欠片ほどの関心も向けられていない。
メルダックがどれほど興奮し、出来上がっていようと、ポメロはまるで路傍の石を扱うかのように、純粋な嫌悪を無造作に投げ捨て、通り過ぎていく。
その徹底的な無関心が、メルダックの心身を、逃げ場のない快楽へと叩き落としてしまいました。
「……以上です」
唐突にテンポが下がり、演奏はぷつりと途切れた。
終わる。
終わってしまう。
アーシをその気にさせておいて。
冷たく見下すことさえしないで。
勝手にわめき散らし。
勝手にスッキリして。
メルダックは、じっとりと額に汗を浮かべ、虚脱感の中で立ち尽くすポメロを見つめていました。海千山千の興行主をして、楽曲の芯を捉えきることができませんでした。未知は、未知のまま。
ただ、彼女の肌を濡らす汗だけが、その三分間の凄絶な蹂躙を証明していました。
───── ♬ ─────
静寂が、耳を劈くほどに痛い。
ポメロは、ただ激しい演奏の疲労から、滝のような汗を滴らせていました。肺を酷使し、指先を削り、全神経を「嫌悪感」の純粋培養に注ぎ込んだ結果としての、健全な消耗です。
一方で、メルダックもまた、じっとりと汗ばんでいました。しかしその汗は、ポメロのそれとは質が違います。頬は上気し、ライトブルーの瞼は熱を帯び、ダークブルーの唇は微かに震えている。それは紛れもない、不健全な消耗でした。
「凄かったわ。でも……イケなかったわ」
しわがれた声で、彼女は吐息を漏らすように呟いた。
「……不合格、ですか」
ポメロが不安げに尋ねる。これほどの熱量を持ってしても届かなかったのか、と。
「ンーン、文句なしの合格よ。でもね……」
メルダックは、ぬずい、と蛇が獲物を追うような滑らかな動きでポメロに近寄った。そのドギツイ厚化粧の奥にある瞳は、飢えた獣のそれでした。
「欲求不満でたまらないわ。アータの音に散々弄ばれて、中身をぐちゃぐちゃにされたのに、肝心の【何に】ヤられたのかが分からない。これじゃあ、不完全燃焼もいいところよ」
「ポメロ、答え合わせしていいか?」
それまで、この異様な空間で一人だけ「希望の朝」を知る者の余裕を崩さず、へらへらと笑っていたデッカが口を開きました。
「メル姉さんはな、お前の叫びの根幹が分からないからスッキリできないワケよ。まあ、自曲のおっぴろげなんて公然猥褻罪だが、お前のキャリアに関わる話だ。見せちまえ、裏筋まで」
「ええ、上司としても部下の腹のウチは知っときたいわ。アータ、あの時何を叫んでいたの? 何を突きつけていたの?」
ポメロは、一瞬の沈黙の後、すんとした顔で答えました。
「不快感、です」
「え?」
「不快感。僕もこの楽曲を作っているときに気づきを得たんですが、【感覚】っていうのは【感情】とは違うんですよ。怒りとか悲しみとか、そういう意味のあるものじゃないんです。ただ、そこにある不快。それを不快なままお出ししただけです」
普通、人は叫ぶときに怒りや悲しみを乗せてしまいます。
けれどポメロのそれは、腐ったものを口にした時、あるいは生理的に受け付けない何かに触れた時に走る、あの反射的な【不快感】をそのまま雄叫びとギタープレイに変換していたのです。
「そんなことが……?」
メルダックは呆然と呟いた。ポメロは淡々と続ける。
「さあ。ホントのとこは偉い学者さんにしかわかりません。僕の中ではそうだってだけで」
「……なるほどね。蓋を開けてみれば腑に落ちたわ」
メルダックは、ようやく憑き物が落ちたように大きく息を吐き出しました。納得は彼女に、興行主としての冷徹な正気を取り戻させました。
そこからは、早いものでした。
契約の条件、初舞台の日取り。実務的な話が流れるように進み、いよいよセットリストを決めるための小会議に移ります。
しかしポメロが持ってきた二十曲近い候補曲のリストを、メルダックは、不機嫌に一瞥したあと、ぽいっと投げ捨てました。
「ダメ。足りない」
「え? でも、曲数は十分……」
「アータね、認識が甘いのよ。舞台の演奏は一ステージ五曲。これは神の決めた法則よ。でも、アータの持ち歌で、十三番舞台のオーディエンスにお出しできる曲は、『ヤダ!』と『恋とか』。後はアレンジ次第でどうにかなる『ムカつく』くらい。……あと二曲、足りないわ」
「でもでもだって……!」
食い下がるポメロに、メルダックは愛おしそうに、けれど容赦なく言い放ちます。
「アーシは好きよ? アータの曲は、どれも。全部アータから絞り出したアータ汁の臭いがするもの。でもね、アーシは興行主なのよ。ここまで十三番の色を作り上げたプライドがある。アーシのファン贔屓で、色の違う楽曲をお出しするわけにはいかないの」
彼女は、試すようにポメロの瞳を覗き込む。
「……アータ、他人の曲に魂込められる?」
ポメロは、ヘルプに明け暮れた二ヶ月間を思い出します。あの時、演奏を求められたのは全て、記号化されたデッドコピーの恋愛ソングばかりでした。どれもこれもが、誰かが決めた売れる型をなぞっただけの、血の通わない量産型。
そんな音楽に魂を込めることなど、彼には到底不可能でした。それは奏者として、最も辟易とする死んだ時間だったのですから。
「正直苦手です。僕はずっと、僕の歌を歌っていたので。……誰かが用意した死んだ記号をなぞるのは、もう御免です」
「そーでしょうね。だからアーシはアータの音に首ったけなんだから」
メルダックは、その鋭いネイルでポメロの頬をなぞります。挑発的なまなざしで。
「……歌を。……作ればいいんですよね? あと二曲」
ポメロは怯えません。メルダックの視線を受け返しました。
「できるの?」
「できらぁ!」




