一席
都の深淵、十三番舞台。そこは音楽の都カーネギーにおいて、最も野蛮で、最も純粋な熱情が吹き溜まる剥き出しの闘技場。
その舞台の裏手、よくない薬効成分を含んだ煙が重く淀み、肺の奥まで侵食してくるような危ない居酒屋。
そこでは今、ヘルプとして演奏に参加したデッカを囲み、十三番舞台を主戦場とするパンクバンドの打ち上げが、正気をかなぐり捨てた様相で繰り広げられていました。
「ギャハハハハ!」と、壁から突き出た錆びた釘に自らの額を打ちつけ、血を流しながら哄笑するダブルモヒカンの大男。
その隣では、レザースーツを纏った男がテーブルの上の醤油入れを「宿敵」と見做し、「なんだお前! すっぞお前! 死んだぞお前!」と支離滅裂な罵声を浴びせ続けています。
アンアン、ズンバン。店内の隅では、ハプニングバーでもないのに自主的なまな板ショーに興じる男女が、狂ったような喝采を浴びていた。
「見える……見えるぞ! 心の目で見れば音の粒が見える。色はピンクだ!」と、未だ公的に禁止されていない菌糸類の力を借りて悟りを開くジャンキー。
退廃と無秩序。暴力的なまでのカオス。
しかし、ここが十三番舞台の御贔屓店である以上、これは避けることのできない日常の光景に過ぎません。店内に漂うのは、安酒の鼻を突くアルコール臭と、誰かの吐瀉物、そして焼けた鉄のような血の匂いです。
ここでは音楽は高尚な芸術ではなく、明日をも知れぬ命を燃やし尽くすための触媒でしかなかったのです。
そんな世紀末のような空間で、デッカは至極リラックスした様子でジョッキを傾けていました。彼の懐は、この泥沼のような場所をも包み込むほどに広いのです。
「んでさー、俺ちゃん、あのお堅い伝統派のぼっちゃんに言ってやったのよ。固いのはせがれだけにしとけってな!」
「「「どわっはっはっは!」」」
デッカの卑俗な下ネタに、狂乱の徒たちは腹を抱えて笑い転げます。
その時、入り口から短い悲鳴が上がりました。
「ぎゃあ!」
「アータ、入り口塞ぐなら蹴り刺しちまうよ!」
しわがれた声が響くと同時に、扉を塞いで寝こけていた男の脇腹には、既に鋭いヒールが深々と突き刺さっていました。
「「「「ちわーす、姐さん!」」」」
つい先刻まで無秩序の権化だった男たちが、一斉に動きを止め、その女性──十三番舞台興行主メルダックへと最敬礼を送ります。盛り合っていたカップルでさえも、その動きを止めるほどの影響力!
オレンジ色の髪をアシンメトリーなウルフカットに散らし、鼻の脇や唇の下にまで及ぶ無数のピアスを光らせて、メルダックはつかつかとデッカに歩み寄ります。ライトブルーに塗られた瞼と、ダークブルーの唇。そのドギツイ厚化粧の奥にある鋭い眼光が、デッカを射抜きました。
彼女がくわえた手巻き煙草の先へ、デッカは慣れた手つきでライターの火を灯します。ゆらりと立ち昇る、その「中身」を探ることさえ躊躇われる怪しげな煙。彼女の歩く後には、高級な香水の香りと、それとは相反する獣のような死線の緊張感が取り残されるのです。
「で、姐さん、俺ちゃんに何か用でも?」
「アータの住処にひよっこがいるだろ? 最近、恋愛脳たちに目ェつけられてるのが」
「あーあーあー、ポメロちゃんね。それが?」
「あいつの曲、聞いたよ。『恋とか恋とかそんなのばっか』。……あんな無鉄砲な音、久々に濡れたよ、アーシ」
「えー! 姐さん、最近は不感症気味だって言ってたのに!」
「だからデッカ、お前。アーシんとこにそのひよっこを連れて来い。……羽ばたくチャンスをくれてやる」
修羅の国とも、地獄とも揶揄される十三番舞台。
その女王メルダックが、ポメロというひよっこに、興味を寄せました。
───── ♬ ─────
「ええっ!? 舞台!? 僕があの、プロが立つ【ナンバーズ】に!?」
下宿「奏鳴荘」の共有スペースに、ポメロの素っ頓狂な叫びが響き渡ります。手に持っていたチューナーを落としそうになるほど、彼の動揺は激しいものでした。
無理もありません。この街に来てわずか四カ月。まだ街の空気にも馴染みきっていない若者に、都のナンバーズの一角から声がかかるなど!
本来であれば数年、あるいは一生を費やしても届かぬ奇跡に近いことです。ポメロの脳裏には、先日まで自分が立っていた【片馬辻】の、拒絶に満ちた手のひら返しがどうしても思い浮かびます。
失敗した。軽率だった。次の機会はいつだ? そもそもまだチャンスはあるのか?
そう、明日に怯えを抱きかけていた自分が、まさか正反対の極北にある地獄へ招かれるなど。悪い夢を見ているのではないかという疑念さえ浮かぶ。
「勘違いするなよポメロちゃん。ナンバーズっつっても地獄の【十三番舞台】。しかもまだ『オーディションの切符』を手に入れたってだけだ」
デッカはソファに深く腰掛け、紫色の封筒をひらつかせながらシシッと笑います。
「メルダック姐さんは耳が肥えてる。その『恋とか~』が、ただの頭でっかちな批判ソングか、ちゃんと世間にケンカを売れる腹括った作品か……自分の耳で確かめたいって言ってるんだ。アーシを濡らしてみろ、ってな」
「……冷静に考えて答えを出すべきだな」
それまで黙って新聞を読んでいたエピタフが、眼鏡のブリッジを押し上げながら、重苦しい口調で制止をかけました。その横顔は、いつになく険しい物です。
「なんでさ? せっかくのチャンスなのに」
「ちっ、これだから田舎者は。僕が蒙を拓いてやろう」
エピタフは新聞を畳むと、ポメロの瞳を真っ向から見据えます。
「十三番舞台。そこは階段数と同じ数だけ不吉を重ねられた、地獄とも処刑台とも呼ばれる荒れ狂う魂の乱闘場だ。観客は音楽を聴きに来るんじゃない、自らの理性を焼き殺すための燃料を求めに来るんだ。怪我人が出るのは日常茶飯事、興奮しすぎた暴徒どもを衛兵が取り押さえる風景などはこの街の風物詩だ」
「ぴぇえ」
「気合の入っていない演奏をしようものなら、楽器ごと袋叩きにされて裏路地へ放り出されると言われている。貴様のような、まだ殻も脱ぎ切れていないひよこが行く場所じゃない。あそこには慈悲もなければ、優雅な拍手もない。あるのは呪詛と、剥き出しの生存本能だけだ」
「ほんとうに地獄みたいな…… どうなのデッカ先輩」
「……その噂、まるっと噂じゃねーんだな、コレが」
デッカが肩をすくめて、エピタフの言葉を肯定する。
「あそこでやって行けるのは、俺っちみたいにヘラヘラ立ち回るコウモリ野郎か……あるいは、亡者どもを黙らせられる本物かだ」
ポメロの心臓が、ギターの低音弦を強く弾いたときのような、激しく重い鼓動を刻み始めます。
背筋を這い上がるのは、得体の知れない慄き。けれど、その恐怖の裏側で、彼の指先は微かに熱を帯びていきました。
新曲でリサイクル恋歌至上主義者【淋しくて震える勢】を敵に回してしまい、居場所を失いかけていた自分の歌を、地獄の主が求めている。だが、無視されることに比べれば、多少の危険があったとしても、歌う機会が与えられるなら目を瞑れ…………瞑って大丈夫かなぁ?
(楽器ごと袋叩きって多少以上の危険だよね?)
しかし十三番とはいえナンバーズの舞台。それはここカーネギーにおける一流のみが立てる憧れのステージ。
(楽壇デビュー半年でナンバーズ舞台って凄くない?)
ですが地獄。ですが一流。ですが怖い。ですが眩しい。
「どうする、ポメロ。伸るか、反るか。お前は偽物か、本物か」
デッカの瞳が、一瞬だけチャラ男の皮を脱ぎ捨てました。
「メルダック姐さんの「耳」は、本物だぜ」
ポメロはゆっくりと手を伸ばし、デッカの手から招待状をひったくります。
「やってやらあ!」
───── ♬ ─────
翌日。ポメロはデッカに連れられ、緊張で膝を震わせながら、重厚な石造りの十三番舞台の門を叩きました。
案内されたのは、舞台の奥にあるサロン。そこは、甘く重たい煙草ならぬ煙がゆらゆらと揺らめき、外の喧騒が嘘のように静まり返った、濃密な空気の部屋でした。
壁には歴代の戦死した楽器の残骸が剥製のように飾られ、豪華な絨毯には拭いきれない古びた血痕が模様のように沈み込んでいます。
ソファに深く腰掛け、足を組んだメルダックが、射抜くような眼光でポメロを迎えました。ダークブルーの唇を歪め、指先に挟んだ手巻きの煙をくゆらすその姿は、まるで血肉の玉座に坐する女王のようです。
「は、始めまして……ポメロです」
ポメロが、震える声を絞り出して頭を下げると、メルダックは数秒の沈黙の後、唐突に声を上げて笑い出した。
「あっはっは!」
しわがれた、けれど腹の底に響くような大笑い。
「アータ、そんな始めましてなんて、真人間の挨拶をされたのは久しぶりだよ。あー、おかしい」
「え……そこ、笑うところなんですか?」
ポメロが困惑する中、メルダックは傍らにたむろしていた、首に刺青を入れた屈強な男たちに視線を投げた。
「デッカ、挨拶」
「ちゅーっす」
デッカはいつもの調子で手を上げる。だが、続く「お前」達は違った。
「挨拶」
「……ちっ、うっせえな」
「お前もだ」
「知らねえよ、そんなの」
不遜な態度をとる男たちに、メルダックの体が豹のようにしなった。
「───ア?」
目にも留まらぬ速さのハイキック。鋭いピンヒールが、男の屈強な頬に深く突き刺さり、鮮血が舞う。
「舐めてんじゃねえよ。ア? 一発カマした女は格下ってか? アーシがそんなナメた態度許す女だってナメてんのか? ア? ア?」
「ぴぇえ」
ヤクザ顔負けの詰め寄りに、サロンの空気が凍りつきます。ポメロは恐怖で喉が引き攣り、デッカさえも真顔で沈黙しました。
男達は苦悶の声を上げる間もなく、メルダックは紙屑でも捨てるような冷めた視線で彼らを蹴り飛ばします。ここは敬意すらも暴力で奪い取る場所なのだと、ポメロの脳細胞が警鐘を鳴らしました。
「……恥ずかしいトコ見せちまったね。女だてらで切った貼ったの商売やってんだ。舐められたら骨までしゃぶられちまうからさ」
メルダックは乱れたオレンジ色のウルフカットを無造作にかき上げ、再びポメロに向き直ります。先程の殺意が嘘のように、その瞳には奇妙な熱が宿っていました。
「で、ひよこちゃん。アータを呼んだのは、アーシがアータの歌を生で聞きたいと思ったからさ。ゴム無しでね。ハートってのはね、フェイストゥフェイスでしか伝わらないもんだからさ」
その言葉には、不思議と一本筋の通った誠実さがありました。
「聞かせてごらん? アータの持ち歌で一番パンチのあるやつを。一番狂ってて、一番タフなやつを」
請われれば、答えはおのずから明らかでした。
ポメロは、背負っていたボロボロのギターケースから、使い古された相棒を取り出します。
手汗で滑りそうなネックを強く握りしめ、自分を笑った世界への復讐を旋律に変えるべく、息を吸う。
「……聞いてください。……『ヤダ!』です」




