二席
勝手口のほうから響くその叫びに、ポメロは心臓を掴まれたような衝撃で足を止めます。ついさっきまで公園の芝生の上で、柔らかな日差しに包まれていたことが遠い昔の出来事のように感じられます。
隣にいたリノが、瞬時に険しい表情になり、ポメロの袖を力強く引きました。彼女は立てた人差し指を口元に当てビークワイエットのポーズ。二人は忍び足で勝手口の影へと回り、壁に背を預けて様子を窺いました。
〽 逆縁悪縁も縁の内などと申しましてェ~
ベベン!
浪々と詠じている女性は、見知らぬ人でした。
オールドトラディショナルの、もはや文化遺産と化したような三弦を弾き語る原初の宮廷楽師の如きその女性は、乾いた唇の疲れたアラサーお姉さん。
素は美人であるのに。控えめで古風な撫子なのに。
滲み出る疲労感が全てを台無しにしていました。温泉行きたい。
彼女が抱えている三弦には覚えののある紋章。
(あれ、これ……エピタフが常識だって教えてくれた、ご領主様の紋章だ)
続く女性の言葉が記憶の正しさを証してくれました。
「……ご領主様がどうしてもと仰るのです。これは我が国にとって重要な案件であると」
「ハン、あの時保護を拒んだくせにまた利用するのかい。虫酸が走るね! あの子がどれだけ不安定になっていたのか、あんたの主人は忘れちまったのかい!」
「あれは、リノちゃんが……リノちゃんが自ら逃げ出したからで。我々には止める術が……」
ポメロの鼓動が激しく打ち鳴らされます。
リノの過去。保護、逃走、ご領主様。
今まで全く気にもしていなかったリノの過去が、不穏なワードとなってポメロの頭に一気になだれ込んで来ました。決して楽しそうではない過去が。
ポメロは思わず隣のリノを見ました。彼女は、壁に背をつけたまま、ただじっと自分の爪先を見つめています。かつてどこから逃げ出し、なぜ今、言葉を失ってここにいるのか。
ただの無垢な少女としてここにいるリノ。歌が大好きで、お昼寝が大好きで、パンの耳が大好きで、猫の観察が大好きな少女。
(こんな天使みたいな子を、辛い目に合わせた奴らがいる――)
ポメロの胸に、煮え繰り返るような焦燥と怒りが渦巻きます。
♪――
その負の感情に当てられたのか、リノが不意に小さな声で口ずさみました。
『おひるねがしたいうた』
それは、先ほどまで公園で感じていた穏やかな空気そのものの旋律。ポメロの荒れ狂う心を鎮めるための、リノなりの優しさだったのでしょう。
けれど、その純粋すぎる歌声は、皮肉なことに、隠れ潜む二人の存在をドリーさんたちに気づかれるきっかけとなってしまいました。
ポメロを落ち着かせる為だけに歌われたはずのそれは、皮肉にもドリーやハルモニアという三弦弾きすらその勢力圏に収めてしまったのです。
「リノ! それにポメロ! そこにいるのはわかってるんだ、二人まとめてフルスイングされたいか!?」
ドリーさんの鋭い一喝が飛び、二人は観念して物陰から這い出しました。ドリーさんの眼光は、まるで獲物を射抜く鷲のように鋭いものでした。連座して見つかったポメロは、ただ身を縮めるしかありません。
しかし、リノは違いました。彼女はドリーさんの横をすり抜け、てとてと、と軽い足取りで三弦弾きのお姉さんに歩み寄っていきます。
「リノ!? 近寄るんじゃないよ、そいつは……!」
ドリーさんの静止を聞かず、リノは迷いなく相手の目の前に立ちます。そして、自分を連れ戻そうとしているはずの相手に対し、優しく、慈しむように手を伸ばしました。
「リノちゃん……」
リノは三弦弾きの頭にそっと手を置き、丁寧になでなでしました。
よしよし、もう泣かないで。
そう言っているかのような、優しいお姉さんの笑みで。
あのとき、自作曲の酷評に打ちひしがれていたポメロにそうしたように。
三弦弾きの肩が激しく震えました。乾いた唇から、こらえきれない嗚咽が漏れ出ます。
リノの指先から伝わるぽかぽかとした熱が、彼女の心を粉々に砕き、あるいは癒してしまったのです。歌による【魔法】に頼ることなく、その優しい心のみで。
「……あんたって子は、本当に」
ドリーさんの声から険しさが消え、重く、沈んだ響きが混じります。
「ポメロ、リノを連れて中に入ってな。あたしゃこのハルモニアと話をつける」
───── ♬ ─────
この部屋に暖炉はない、それなのに。
ぶん! ぶん!
火掻き棒が激しく自己主張しています。
夜の帳が下りたドリー婆さんの部屋には、窓から差し込む街灯の頼りない光と、使い古されたオイルランプの煤けた熱だけが満ちていました。
その重苦しい空気の中を、ドリーが握る火掻き棒が猛然と空を切ります。鉄が空気を裂くたびに、ポメロの心臓はびくんと跳ね、喉の奥がカラカラに乾いていきます。
「ポメロ」
ぶん! 火掻き棒が空を切りました。ポメロの鼻先で。
「はい」
「どこから聞いてた?」
再び、ぶん!
年齢を感じさせぬ鋭い風切り音が、ポメロの頬を撫でました。
「保護とか──逃げたとか。そこからです」
ポメロが正直に口を割ると、ドリーは「はあーーーっ」と、地底の底まで届くような深い溜息を吐いた。
「ハルモニアめ、直接来やがって……」
ドリーの顔には、隠しきれない悔恨の色が滲んでいた。
「リノに危険はないんですか?」
「どうだかね」
「僕にできることは?」
「忘れることさね」
ドリーが突き放すように言いますが、リノは隣でくいこくいことポメロの袖を引っ張っています。深刻な話に夢中で、自分を無視している二人にしびれを切らしたようです。しかたないね。こねこだし。
ドリーは、その睦まじい様子を眺めて、再び溜息を吐きました。
「リノ。前は、うまく誤魔化せた。うまく、だ。わかるね?」
リノはわかってなさそうな顔をして、こくこくと頷きました。
「ハルモニアも悪いやつじゃないんだが、領主殿も情に厚いやつではあるんだが、アイツらは音楽や秩序を破ってでもリノを守るような奴じゃない。自衛の手段…… そうだね。またあのジジイの力を借りるか。借りばっかり作って申し訳ないんだがね。緊急事態だ。甘えよう」
ジジイの力を。
♪――
その言葉を聞いた瞬間、リノの表情がぱあっと華やぎました。自然と口ずさまれる喜びのフレーズ。
「で、いつまでここにいるんだい?」
「リノが離してくれなくて……」
リノはぶんぶんと、ちぎれんばかりにポメロの腕を振っています。
「リノ」
ぶんぶん。
「真面目な話だよ」
ぶんぶん。
ドリーが無言で睨みつけますが、リノはぶんぶんをやめません。
「……はあーーーっ」
またしてもドリーが折れました。なんだかいつも折れてます。
♪――
その気配を感じ取ったリノが、満面の笑顔でポメロの腕を一層激しく振りました。
「ポメロ、いいかい。リノは不安定なところがあってね。あまり刺激したくないんだ。平和に。緩く。そうやって生きていないと危ないんだよ」
ドリーの言葉は、まるで壊れやすい宝物を守る祈りのようでした。
「確かに、リノにはどこか儚さがありますね」
ポメロが同意すると、ドリーは首を横に振りました。
「違うよ。危ないのは、回りが、さ」
ドリーの瞳が、どろりと濁り、リノの過去が語られます。
───── ♬ ─────
五年前、九歳で奏鳴荘の前に転がり込んできた時のこと。
言葉すら理解せず、ただそこにあるだけで空気を歪ませていたという空っぽの少女だったこと。
三番舞台という神輿の上で、【クレオパトラ】という奇跡の覆面シンガーとして、十二歳まで祭り上げられていたこと。
権力者と有力者との争奪戦になり、一時領主預かりとなったものの、そこを抜け出して奏鳴荘に戻ってきたこと。
覆面シンガーであったことと、領主直々に詮索無用を発布したことで、争奪戦が沈静化したこと。
十四歳になった今、リノは何も持たず、ただ奏鳴荘でプーとして過ごしています。
それは、単に社会不適合な子猫性を持っているためではなく、疲れ果てた心のリハビリの為であったと、ポメロは初めて知ったのです。
───── ♬ ─────
「流石に詰め込みすぎたかい?」
「心で覚えました!」
「どう覚えたんだい?」
「リノにはいろいろ辛いことがあったから、今が大事!」
「ボウズなら……まぁ、こんなもんか」
ポメロは、自分の腕を巻き取って笑うリノの横顔を見つめます。
(この笑顔が…… いつだって嬉しいと楽しいを伝えてくれる笑顔が…… 曇っていたのか)
この街に来て、まだ二週間。
音楽の都の仕組みも、三番舞台の真実も、ポメロはまだ何も知りません。
今ドリーから聞いた断片的で恐ろしい過去が、楽壇から見て残酷な話なのか、当たり前の話なのか、どうかすら。
世間知らずの足りない頭で、乏しい経験を総動員して、ポメロは必死にリノの受けた傷を推測します。
今日、一緒にパンの耳を分け合い、綿毛を吹いて笑ったあの時間が、どれほど奇跡的な平穏の上に成り立っていたのか。
足りない想像力の限りを尽くしても、目の前の少女が背負わされてきた闇の深さに、ポメロは眩暈がするような感覚を覚えました。
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