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トルバドーれ!  作者: 袴田八峰
第八幕『ねこねここねこ』

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22/58

三席


 四日後の公演に向けて、リノを取り巻く日常は一変しました。


 かつてこの国を訪れた大国の王族が、再びこの地を踏み、国王に直々の願いを伝えたといいます。あの日聴いた【クレオパトラ】の歌を、もう一度だけ聴かせてほしいと。それが発端でした。


 クレオパトラ。かつて三番舞台をどよめかせた伝説のマスクシンガー。歌をひとたび聴いた者たちは彼女の歌が忘れられず、ある者は救いとして、ある者は金の生る木として彼女を追いました。

 

 そんな彼女が姿を消して二年。この音楽の都の片隅で、ただの十四歳の少女として息を潜めていたリノが、今、権力者たちの身勝手な郷愁と政治によって再び担ぎ出されようとしています。


 いえ、担ぎ出されてしまいました。否応なく。


「貴族、王族、金持ち、実力者。リノが恐れる心の持ち主ばかりさ。だからポメロ、お前の同行を認めた。リノの安全弁としてな。お前がいるのといないのとではリノの安定感が段違いだ。だから公演が終わるまで、お前はリノの傍に居ろ」


 ドリーの言葉は重く、まだリノの笑顔以外の何も知らないポメロに、そのすべてを理解することはできません。

 

 けれど、ドリーの瞳の濁りが、この件の危うさを物語っていました。


「わかりました」


 ポメロが短く答えた、その時。


「はなしー、おわったー?」


 天から降ってきたかのような、あるいは地面が爆発したかのような轟音が部屋を震わせました。

 

 物理的な衝撃波を伴ったバリトンボイスに、窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げ、ポメロの鼓膜は一瞬で麻痺します。


「うわああっ!?」


 驚いて入り口を振り返れば、そこには扉の枠を文字通り埋め尽くすほどの巨躯が立っていました。

 

 U字に禿げ上がった頭を天井にぶつけんばかりにし、恰幅のよい腹を揺らすその男──人呼んで「主役を食うバス」「オペラ山脈」「歌声すなわち地震」。

 

 【六歌仙】が一人、【歌唱】を司るマンモスでした。


 彼らはカーネギーの音楽界に君臨する六人の頂点。

 伝統、革新、歌唱、演奏、作詞、編曲の六部門。

 カーネギー音楽界の支配者たる【有識者会議】によって選定される、部門最高位。

 

 選ばれし者である彼らは六歌仙専用のステージである聖域・第一舞台にて唯六つ公演するを許され、音楽界に絶大な影響力を及ぼせる巨星たちなのです。


 その一柱こそ、ドリーの語るジジイ。


 リノを孫の如く可愛がるこの男でした。


 「ははー。びっくりさせちゃったかなー。ぼくさー、ふつうにしゃべってるつもりなんだけどねー」


 マンモスが口を開くたびに、部屋中の空気がびりびりと振動します。彼は決して叫んでいるわけではありません。ですが、その骨格と声帯から発せられる最小音量が、常人の絶叫を遥かに上回っているだけなのです。

 

 その証拠に、マンモスの声には豊かな倍音と、大人の知性が宿っています。


 ♪――


 地響きを聞いたリノが弾かれたようにマンモスに駆け寄ります。


 リノは声を出しません。いや、出せません。

 

 けれど、その全身から溢れ出す歓喜が、春の陽だまりのような柔らかなハミングとなって室内に溶け出しました。

 

 マンモスは丸太のような腕で彼女を軽々と抱え上げると、そのまま高い肩の上に乗せました。


 「リノちゃん、げんきだったかなー。またすこし、おおきくなったねー」


 マンモスの声はどこまでも優しく間延びしていたますが、その一言一言が教会の鐘のように重厚に響きます。

 

 リノは嬉しそうにマンモスの大きな耳を引っ張ったり、薄い頭頂部をぺたぺたと触ったりと、完全に身を預けていました。ドリーが呼んだこの男こそが、リノを欲望の渦から物理的に引き剥がし、盾となって守り抜くための最強の協力者なのです。


 ドリーが、騒音に耳を塞ぐこともせずマンモスを仰ぎ見ます。

 

「手間をかけるね、マンモス。またリノを、あんたの力で匿ってほしいんだ」


 「ははー。いいよー。ぼくのべっそうならー、だれにも邪魔されないよー。ほんばんまではー、そこでゆっくりお昼寝していればいいからねー」


 マンモスはドリーに向かって、静かに──それでいて圧倒的な圧を持って微笑みます。

 

 彼はこの街の英雄であり、大規模音楽の殿堂である第二舞台の不動のスター。

 カーネギーオペラ界のナンバーワン・バス。


 彼がその権限と巨体を使って門を閉ざせば、いかなる追跡者もリノに指先たりとて触れることはできません。少なくともドリーはそう信じています。


「それと、このボウズもセットだ。リノが離さないんだよ」


「ははー。もちろん。リノちゃんのおともだちなら、ぼくも歓迎するよー」


 マンモスは、驚愕で固まったままのポメロを見下ろしました。その瞳は驚くほど穏やかで、すべてを見透かすような慈愛に満ちています。


「ポメロくん。だったかなー。よろしくねー」


「はい、こちらこそ」


 マンモスが差し出した手のひらは──ポメロの顔面を覆い尽くすほど大きいのでした。



───── ♬ ─────



 三日後、マンモスの別荘。

 

 灯りはなく、暖炉の火のみ。聞こえるのは時折ぱちぱちと薪が小さく爆ぜる音。有意な静寂。


 その仄暗い光の中に、安らかに眠るリノの寝顔がありました。彼女を包む柔らかな毛布を、暖炉の橙色が優しく撫でています。傍らには、体格の全く異なる二人の男が、ただ黙って火をぼーっと見つめていました。

 

 二人は視線を合わせようとはしません。ただ、ゆらゆらと形を変える焔の行方だけを焦点を合わせることも無く眺めているだけでした。


「おつかれかなー?」


「だいじょぶです」


「ぼくはけっこう疲れちゃったよー」


「嘘つきました。僕も疲れてます」


 獲物の臭いに敏感なハイエナどもは、伝説のクレオパトラが再び歌うらしい、という噂に色めき立ち、その姿を追いました。

 

 彼女がどこに潜んでいたのか、奏鳴荘の名も、リノの正体も、連中はまだ行き当りません。そこは領主の手の者が配慮してくれました。

 

 ただ、【六歌仙】のマンモスが何者かを匿い、共に行動しているという情報だけが、連中の耳に届いていました。


 マンモスの巨大な影響力と、いかなる権威をも遮断する別荘の門なくば、連中の手はリノという真実にまで到達していたでしょう。ポメロは、自分の隣に座る巨躯が、どれほど強大な城壁であるかを痛感しました。


 ポメロは膝を抱え、爆ぜる火花に目を凝らします。マンモスもまた、巨大な身体を揺らすことなく、暖炉の奥をじっと見つめていました。

 

 室内には、再び薪が爆ぜる音だけが響きます。二人は顔を合わせず、独り言をつぶやくように語り合い始めました。


「……リノちゃんはねー、ただのー、おんなの子なんだよーー」


 マンモスの声は抑えられていました。

 独り言をつぶやくように。


「ええ。僕も、そう思います」


 ポメロもまた、炎を見つめたまま言葉を返しました。

 独り言をつぶやくように。


「時々振り回されますけど、優しい子です」


「そうなんだよねー。リノちゃんはさー、おいしいパンを食べてー、ひなたぼっこをしてー、ねこみたいにー、ごろごろ喉をならしてー、いきていければー、それだけでしあわせな子なんだよー」


 マンモスは、丸太のような指先を暖炉の火にかざした。


「それなのにねー。かのじょのなかの才能がー、あまりにも大きすぎたんだよー。かのじょ自身がのぞまなくてもー、その声がー、まわりの大人たちを狂わせてしまうんだー。……残酷なことだよねー」


「才能が、大人を狂わせる……」


 焔の揺らめきが、ポメロの瞳をオレンジ色に焼きます。


「そうだよー。みんなー、かのじょという器のなかの歌だけをほしがってー、リノちゃん自身のこころなんてー、だれも見てやしないんだー」

 

 ポメロが隣の巨漢に目をやることはありません。

 

 ただ、その声の重みだけを胸に留め置くのです。


「楽壇のろんりや政治のつごうでー、こどもを消費すべきではないんだよー。させてはいけないんだよー」


 マンモスは、ゆっくりと首を横に振りますが、その顔は依然、正面の闇を見つめたまま。瞳に宿るのは深い悲しみの色。


「ぼくはねー。かのじょにー、ただの女の子としてー、わらっていてほしいんだよー」


 ポメロは、眠るリノの横顔を感じながら、火を見つめ続けます。彼女がなぜ奏鳴荘で過ごしていたのか。その愛に満ちた憐憫の理由を、ポメロは少しずつ理解し始めていました。


「でも…… リノは歌なしで笑うことができるんでしょうか……」


 そう、リノは言葉を話せない。


 コミュニケーションは何時だって歌と音楽。


「歌うことも、リノの幸せの一つじゃないんでしょうか……」


 ポメロの問いに、マンモスは答えませんでした。


 公演は、明日。この国の王族も随伴するといいます。


 二人はいつまでも炎の揺らめきをぼーっと見つめていました。



───── ♬ ─────



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