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トルバドーれ!  作者: 袴田八峰
第八幕『ねこねここねこ』

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20/57

一席


 湯気の向こう側で、ドリー婆さんが苦笑いを浮かべていました。


「ほう、伝統派の巣窟はそんなだったかい。完璧主義も行き過ぎると、逆に見ていて滑稽だったろう?」


 ポメロが差し出された茶を啜ると、喉を焼くような渋みが広がりました。

 

 カーネギーの路地裏、奏鳴荘の寮母の部屋。伝統派の総本山で浴びた、あの一音の狂いも許さぬ静寂に比べれば、この煤けた部屋の空気は、不規則な生活の匂いがしてひどく落ち着きを覚えます。


「で、エレクトラの方はどうだったい? 高級ナイトクラブなんて知らないことだらけだったろう?」


 ポメロの唇に感触がよみがえります。それは初めて異性と接触した、青い喜びを伴ってはいません。言葉は悪いですが、呪われた、憑りつかれた、そういうぞっとする感覚を伴ってよみがえったのです。


「あー、エレクトラさんは、その……怖かったです」


「怖かった」


「大人過ぎて、自分にはまだ早いと」


「まあ、そういうものかね。この婆からすりゃ、ボウズもエレクトラも大して変わらんがね」


 ドリー婆さんからの追撃がなくてほっとしていたポメロでしたが。


 むー!と。


 隣に座っていたリノが、柄にもない不機嫌な気配を漂わせて、立ち上がってポメロの腕を掴みました。


「あはは、リノ? どうしたんだい」


 リノは何も言わず、むくれた顔でポメロの手を掴むと、そのまま上下に激しくぶんぶんと振り回します。小さな体からは想像もつかない必死さが、その細い指先から伝わってきます。


「……あー、こりゃわがまま言ってるのさね」


 ドリーが茶柱を眺めながら、他人事のように鼻を鳴らしました。


「『社会見学』してあげたがってるんだよ。いっちょ前に先輩ぶって、あんたにいいとこ見せたいのさ」


「えっ、リノも? でも、ドリーさんが見学する意味がないって」


 リノは頬をこれでもかと膨らませます。ポメロの手を離さないまま、じろりとドリーを睨みつけて。ドリーも負けじと睨み返します。

 

 メンチの切り合い、しばし。

 先に目を逸らしたのは───


「……分かったよ、負けだ。ポメロ、リノの遊びに付き合っておやり」


 ドリーが折れると同時に、リノの表情がぱあっと晴れ、満開の笑顔が咲きました。



───── ♬ ─────



 案内役を自称したリノの足取りは、驚くほどに迷いがありませんでした。

 

 奏鳴荘を出てすぐ、彼女は迷わず舗装もされていない脇道へと潜り込みます。そこは、地図にすら載っていないような、人が一人通るのがやっとの細い路地でした。


「結構冒険するのね」


 古い民家の石壁が迫り、頭上では洗濯物が旗のようにひるがえっています。日光はほとんど届かず、ひんやりとした湿った空気が肌を撫でます。そんな場所を、リノはまるでお気に入りの庭を散歩するかのように、軽やかなステップで進んでいきます。


 その先で待っていたのは、路地の真ん中にどっかと居座る、見上げるほどに立派な──というより、ふてぶてしく太ったデブ猫でした。主のような顔でのっしのっしと歩き出すその猫の後を、リノは楽しげについていきます。ポメロはその後ろを、泥はねを気にしながらついてゆきます。


 あまりにも長閑すぎる時間に、だんだんポメロの知能指数が下がってきています。

 

「あらたな なかまが くわわった!」


 時折、デブ猫が「ふん」と鼻を鳴らすように振り返ります。するとリノは、嬉しそうに何度も手を振り返します。鳴きもせず、ただ視線と気配だけで通じ合っているような二人の奇妙な追走劇。何が楽しいのか、ポメロにはさっぱり分かりません。

 

 けれど、リノの弾むような背中を見ていると、自然と口角が緩んでしまいます。ドリーの言った通りです。リノは今、自分が見ている最高の世界を、ポメロに【社会見学】させようとしているのです。


「敵影見えずであります! マム!」


 路地の行き止まり、古びた板塀の隙間から、一筋の温かな光が差し込んでいました。そこには小さな陽だまりがあり、デブ猫はそこで大きくあくびをすると、柄にもない香箱座りで目を閉じました。日向ぼっこの開始です。

 

 リノもその隣にしゃがみ込み、目を丸くして観察を始めます。


 すると、物陰から「なー、なー」と細い声が響き、二匹の子猫が転がるように現れました。子猫たちは迷わずデブ猫の腹に顔を潜らせ、一心不乱に乳を飲み始めます。

 

 デブ猫だと思っていたその猫は、子供たちを育てるお母さんだったのです。やがて満腹になった子猫たちが、母猫の腕の中でとろけるように眠りにつきました。


「いいもの見せてもらったよ、リノ」


 ポメロが囁くと、リノはこれ以上ないほどのドヤ顔で胸を張りました。


 その後、二人は街角のパン屋へと向かいます。

 

「お、リノちゃん。今日はおともだちと一緒なんだ。仲がいいね」


 なじみの店主から手渡されたのは、香ばしく焼き上がったパンの耳。売り物にならない端っこですが、噛みしめると小麦の力強い味が広がります。

 

 二人はそれを分け合い、公園の芝生へと向かいます。


 柔らかな風が吹き抜ける中、リノは道端のタンポポを摘み取ると、ポメロの顔に向けて「ふーっ」と綿毛を吹き飛ばします。くすぐったそうに顔をしかめるポメロを見て、リノは鈴を転がすような声で笑い、そのまま大の字に寝転びます。


 ポメロもその隣に横たわり、青い空を見上げます。


 思い返すのはこれまでの社会見学。どの記憶も鮮烈にして刺激的。

 

 スピード勝負の人身セリ市、14番。歌待ち女子と町の夜。伝統という名の監禁。友情。あいつ凄いわ。やっぱムカつくわ。一流のおもてなし。深淵の歌姫と闇の歌。奪われた純情。


 ここ数日で触れた過剰なまでの刺激が、ポメロの頭を熱暴走寸前にさせていました。キャパオーバー。パンクしそうな思考。

 

 けれど、リノの穏やかな寝息と芝生の匂い、そして口の中に残るパンの耳の甘みが、その熱を静かに冷ましていきます。


 リノは、いつの間にかポメロの脇にすり寄るようにして、深い眠りに落ちていました。その無防備な姿は、先ほど見た猫の親子と同じ、ただ生きていることの祝福に満ちています。

 

 ポメロもまた、重たくなる瞼に逆らわず、この宝石のような微睡みの中へと溶けていくのでした。



───── ♬ ─────



 おひるねから目覚めたのは夕方でした。体は冷え始めていたけど、心はぽかぽかしたまま。

 

 夕闇に伸びる影を追いながら、二人は満ち足りた気分で帰途に就きました。

 

 満ち足りていたのです。二人の心は。けれども。


 その穏やかな充足は、鋭い三弦のバチ捌きによって破られました。

 

 ベベン!

  

 続いて奏鳴荘の石壁を震わせるような、ドリーさんの怒鳴り声によって粉々に砕かれました。


「二度とその面を見せるなって言ったはずだよハルモニア! 耳まで腐っちまったのかい、ええ!?」



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