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トルバドーれ!  作者: 袴田八峰
第七幕『Ombre sans Visage』

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19/58

二席


 春の足は存外速いもので、十八時ともなると夜の帳は降りきっていました。高級ナイトクラブ【ノフラージェ】目覚めの時間です。


 と、同時に、ポメロは二階の埃臭い照明室に放り込まれました。お客様にこの田舎者はお見せできない。ラグジュアリーな雰囲気が損なわれる。この気配り。これが【高級】。これが【おもてなし】。


「いい、ポメロ君。あんたはそこから一歩も出ちゃだめだよ。そこは特等席さ。光を操る者だけが、この店の真実を覗き見ることができるんだからね」


 チーママの言葉は、半分は方便で、半分は警告だったのでしょう。


 照明室の小さなスリットからは、昼間の静寂が嘘のような、熱を帯びた夜の社交場が見下ろせました。

 

 最初にお出しされたのは、テーブルを回る手品師による極上の指先芸と、舞台を跳ねる男装の麗人たちのタップダンス。

 

 続いて披露された「ポールダンス──ノワール」は、肉体の限界を誇示するのではなく、重力から解き放たれた影の揺らぎを見せるような、あえて演出を抑えた引き算の美学に貫かれていました。

 

 最後を締めくくるジャズ・セッションに至るまで、供されるのは全てが一点の曇りもない一流の技芸。

 

 ポメロは、暗い小部屋で静かな感動と興奮に震え、思わず「ブラボー!」と喝采を叫びかけては、チーママとの約束を思い出して慌ててお口をチャックします。


 一方で、もてなされている紳士淑女の皆様は、この程度の一流など、とっくに慣れたもの。喝采必須の超絶技巧を目の当たりにしても、拍手一つ送ることなく、静かに琥珀色の酒を喉に流し込んだり、隣席の高級仲間と穏やかに談笑を続けたり。

 

 全てを嗜む程度に止め、パフォーマンスに決して集中しすぎない。それこそが、この場所における紳士淑女しぐさなのでした。


「皆さま、本日最後の舞台となります。当店の誇ります【深海の歌姫】。ディーバ・エレクトラ、シャンソンショー」


 しかし、エレクトラが舞台へと進み出ると、店内の空気は奇妙な二分を呈します。


 客たちの八割は、それまでと変わらず談笑の手を止めず、酒の香りに身を委ねるそのままの態度を崩しません。しかし、舞台に近い一等席を陣取る残りの二割──彼らは、まるで深淵に引き寄せられるかのように、一斉に舞台へとその視線を吸い寄せられていきました。

 

 無関心を装う圧倒的多数派と、魂を奪われんとする熱烈な少数派。八対二の比率で構成された歪な均衡が、フロアにひりつくような緊張感を醸成していきます。


 やがて、客席のざわめきが潮が引くように収まっていきました。


 フロアの中央、一段低いあの【水槽】に、一筋のスポットライトが落ちます。


 そこに立っていたのは、昼間にポメロの首筋に吐息を吹きかけたあの女性ではありませんでした。あるいは、奏鳴荘で不機嫌そうに廊下を歩くあの女性でもありません。


 光を吸い込み、闇を吐き出すような、暗い青のマーメイドドレスを纏った彫像。


 エレクトラが、その『顔のない影』を衆目に晒そうとしていました。


 アップライトピアノに伴奏者が腰掛ける間に、エレクトラは、二階にある暗い照明室のポメロを見上げました。


 視線が、重なります。


 彼女の紅い唇が、音を出さない言葉をゆっくりと紡ぎました。照明のスリット越しにそれを見たポメロには、彼女がなんと言ったのか正確にはわかりません。

 

 ですが、その目を見ればわかりました。光を撥ねつけ、無限の広がりを持つ虚空を湛えたその瞳。星すら呑み込むような、底知れぬ暗闇。


 『夜を見せてあげるわ』


 彼女は確かに、そう言ったのです。


 ピアノが鳴りました。一音聞いただけで、それが一流の楽器であり、弾き手が並外れた技巧を持っていることがわかる、完璧な調律と打鍵。

 

 けれど、今のポメロにとって、その旋律はただの添え物に過ぎませんでした。一流の奏者も、最高級のピアノも、今はただの臣下。夜の女王に傅く、顔のない従者たち。


 ♪――


 彼女が声を放った瞬間、この「ノフラージェ」は深海へと沈んでいきました。


 憂鬱、孤独、悔恨。


 光の届かない水の底で、エレクトラはどこまでも深く潜っていきます。重厚な旋律が水圧となって、ポメロの細身の体を押し潰しにきます。


「怖い」


 ポメロは身震いしました。


「寒い」


 歯の根が合わぬほど、少年の震えは止まりません。それは寒冷によるものではなく、魂の震えでした。

 

 農村の青い空の下で育ったポメロには、彼女の歌が孕んでいる複雑で陰鬱な感情が何であるのか、理解することはできません。

 

 けれど、それが【知ってはいけないもの】であることだけは、本能の震えによって把握することができました。


(まだ僕には早い。これに触れれば、この歌を心に響かせてしまったら。自分の内側にある何かが崩れてしまう。【僕の歌】が変質してしまう)


 けれど、エレクトラから目を逸らすことはできませんでした。喉元を差し出し、吸血鬼の牙を自ら受け入れる処女の気持ちとは、きっとこのような陶酔と恐怖の混濁なのでしょう。

 

 網膜に焼き付く彼女の残像が、心臓を直接掴み、絞り上げるような快楽さえ伴ってポメロを侵食していきます。


「Ombre sans Visage」


 歌い終わった夜の魔女は、聞き慣れない異国の言葉を呪文のように残して、舞台を悠々と歩み去りました。


 拍手はありませんでした。喝采もありませんでした。


 彼女をただの背景、あるいは上等な調度品として見ていた八割の客たちは、もともとそういう不文律の【しぐさ】の中にいました。

 

 しかし、聞き入っていた二割の紳士は、淑女は。


 揃って、涙を流していました。


 嗚咽も、叫びもなく、ただ声もなく静かに。隣に座る誰ともその感情を共有することなく、各々が自分自身の暗い記憶の為に、あるいは失った何かの為に泣いていました。


 完璧なまでの静寂。それは、この店で最も贅沢で、最も過酷な【おもてなし】の結果なのでした。



───── ♬ ─────



 深夜22:30。街灯がまばらな道は、昼間の喧騒を忘れ去り、冷ややかな空気に支配されていました。

 

 ステージを終え、いつもの質素な服に着替えたエレクトラとポメロは、並んで奏鳴荘への道を歩いていました。


「どうだったポメロ君? 私の歌は」


 ポメロはしばらく沈黙し、それから震える声を絞り出しました。


「凄かった。でも、わかんない。自分にはまだ早かった。見てはいけないものを見てしまった気がする。でもすごかったんだ、わかんないけど、ほんとに!」


 ポメロの必死な、それでいて戸惑いの隠せない告白を聞くと、エレクトラは足を止めました。


「ふふっ……うふふっ……アハハハ!」


 夜の静寂を切り裂くような高笑い。


「わかんない、そう、わかんない! なんて素直で無垢な感想かしら。私、とっても嬉しいの。こんな大声で笑ったのっていつぶりかしら?」


 無邪気に笑い転げる彼女に、ポメロは気圧されます。しかし、彼女の笑みは不意に消え、熱を帯びた瞳が少年を射抜きました。


「そうね、君はとても健全…… 私とは正反対。だから【わかんない】。陽の光は眩しすぎて、影の奥まで覗き込めない」  


 深海の歌姫、水槽、シャンソン。

 エレクトラの言葉には、ポメロの恐れた音楽に近しい響き。


「でもねポメロ君。私は君に分かって欲しい。闇の濃さを。海の深さを。だからごめんなさいね。あなたに傷をつけさせてもらうわ」


「えっ? エレクトラさん、顔が近―――」


 抗う間もありませんでした。突然のキス。肺の空気を奪い去るような強引な口づけに、ポメロは驚きすぎて抵抗することもできません。


「ぴぇえ」


「ふふっ、怯えちゃって……可愛い子ね。初めてだったの?」


驚きを通り越して怯えているポメロに、エレクトラは微笑みかけます。顔のない笑顔で。


「きっとあなたは今日のことを思い出すわ。なんども。なんども。その度に君の心に淀みが生まれるの。とても素敵なことね?」


 エレクトラはポメロの耳元で、甘く残酷な予言を囁きました。


「だから。今日は分からなくても、いつかわかるようになるわ。今日の舞台の意味も、私の歌を聞きに来る客たちが求めているものも。ふふっ、待っているわ。君が堕ちてくる日を。海の底で。ずっと」


 怖い。さっき見た歌う彼女の怖さとはまた違う、冷たい熱情をねっとりと纏わせた、ハスキーな甘い声で、エレクトラは。


「私はね。いつか君が紡いだ「夜の歌」が聞きたいの」


 麝香の香りを残して、彼女は再び歩き出しました。取り残された少年の唇には、夜の苦みと、消えない傷跡のような熱だけが刻まれていました。

 


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