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トルバドーれ!  作者: 袴田八峰
第七幕『Ombre sans Visage』

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18/58

一席


「あんた小さいナリして結構タフね」


「先月まで農民してましたから!」


 メインストリートから二本裏手へ回った場所にある高級ナイトクラブ【ノフラージェ】。正式名称はもう少し長く、意味は【石畳の遭難者】。

 

 そこはエリート楽士や着飾った貴族たちが集う、紹介状が必要な会員制の店でした。上澄みの大人たちだけが許される隠れ家的名店。オープンは18時、クローズは22時ですが、今はまだ正午を過ぎたばかりです。


 本日、エレクトラの職場に社会見学へ来たポメロ。山出しで農民上がりの小僧っ子など、本来ならば門前払いで「ぽいー」されてしかるべき格式高い店です。


 しかし、そこはそれ、トップディーバの紹介とあって、一日タダ働きを条件に入場を許されたのでした。


 昨晩の夢の跡――貴族たちの吸い殻を拾い、最高級のベルベットを磨き上げるポメロ。農村で培った足腰は、華やかな世界の裏側を支える重労働にも、へこたれることはありませんでした。


 「次はそっちのワインの箱だ。落としたらあんたを奴隷にしても賄いきれないよ?」


 「ぴぇえ」


 指示するチーママの目は笑っていますが、冗談でも何でもありません。奏鳴荘の全員を身売りしてトントンなくらいの金額が、ここでは一晩で消費されてしまうのです。高級クラブの名は伊達ではありませんでした。


 「おばさん運搬完了。次は次は?」


 「よく働いてくれたね。パフォーマーたちが出揃うまでやることもないから、長めのおやつタイムにしようかね。こんなおばさん相手じゃ詰まんないだろうけどさ」


 「おやつがおいしければオールOKですよ!」



───── ♬ ─────



 ノフラージェの店内には、窓一つ存在しません。外の世界と隔絶された地下の伽藍には、昼夜を問わず重厚な静寂が沈殿していました。磨き抜かれた床は深い琥珀色の光を反射し、壁を飾るダークオークの彫刻が、控えめなガス灯の火影に揺れています。


 フロアの中央に鎮座するのは、漆黒の光沢を放つグランドピアノ。その傍らには、客席からわずか一段分だけ低く設えられた、正方形の舞台が静かに横たわっていました。物理的な距離よりも心理的な深淵を感じさせるその段差は、選ばれし演奏者だけが踏み入ることを許される聖域です。


 ベルベットのカーテンが吸い込む音の粒子が、まだ見ぬ夜の狂騒を予感させ、しっとりと冷ややかな空気がポメロの肌を撫でました。


 「先にごめんなさいと言っておくけれど」


 チーママはキャビアを乗せたクラッカーを無造作に口に運びながらポメロに言いました。


 「あんたはよく働いてくれそうだし、気立てもいい。雇ってあげるのは構わないけれど、下働きの給金はそこらの飲み屋の皿洗いと大して変わらないわ」


 「わわ、なんか誤解があるっぽいんだけど、僕はエレクトラさんが働く環境と歌う姿を見に来たんであって、ここに雇ってもらおうなんて思ってないんです」


「あら、そうなの?」


「うん、そうなんですよ」


 ポメロはチーママに答えました。零れ落ちんばかりのキャビアを乗せたクラッカーを無造作に口に運びながら。


 ポメロはそれを「なんかしょっぱいけど苦みもある変なツブツブ」としか思っていません。キャビアがなんであるのか、その中でも高級キャビアがいくらくらいするのか知らないからできる狂気の蛮行!もしポメロが金額を知ったらクラッカーに一粒乗せるのにも震えが抑えきれなくなるでしょう。


 ギイ、とバーテーブルの下から音が鳴って、入り口のドアが開かれました。

 

 この高級ぶった店が、軋む扉の音を放置しているとはなんたる手落ち!?

 いいえ、そうではありません。

 

 無音のドアが動くたび、地下を這う鋼糸が振動を運び、バーテーブルの足元で『ギイ』という警告音に変える仕掛けが施されているのです。

 

 なんとも迂遠で無駄の多い機構。しかしこれが【高級】これが【おもてなし】。あらゆるお客様に今、私は贅沢をしている、と満足させるためにはどんな細部にだって気を配るのです。


 閑話休題。


「あら、今日は随分と早いじゃないのさ」


「可愛い後輩が折角聞きに来てくれたんだもの、少しくらい張り切るわ」


「は? 何を真人間の真似事してるんだいエレクトラ。あんたが他人を可愛がるなんて有るわけないじゃないか」


「ふふっ──ひどい言いぐさね」


 エレクトラにはこういうところがあります。強い言葉をかけられると、ふふっ──と意味深な含み笑いをして、相手の熱意を【いなす】のです。ポメロにも何度かその経験があります。

 

 目の前にいるのにそこにいないような──会話をしているのに独り言を言っているような──そういう不思議な体温の低さ、儚さを、いつも纏っています。あるいは従えています。


「私のこの恰好が気になるのね?」


「それは……はい」


 ポメロがここまで沈黙していたのは、初めて正装した彼女の姿を見たからでした。


 奏鳴荘での彼女は、いつも黒一色の装飾も何もない、ラフな芋ジャージ仕様ネグリジェで過ごしています。化粧気のないすっぴんの顔で、気だるげに廊下を歩くお姉さんが、ポメロの知っているエレクトラの姿。


 それでもポメロは、彼女のことをとんでもない美人だと常々思っていました。飾らずとも隠しきれない刃物のような美しさが、そこにはあったからです。


 けれど、今そこに立っていたのは、下宿での奔放な姿とは似ても似つかぬ、深い夜の底を思わせる暗い青のマーメイドドレスを纏う貴婦人でした。


「ふふっ。流石にステージに立つときは、私でも正装くらいするわ」


 曲線美を際立たせるその装いは、まるで月光を織り上げたような神秘的な光沢を放ち、露わになった肩先は陶器のように白く、首筋を伝う一筋の影さえもが計算し尽くされた芸術のようです。

 

 白磁の喉元を飾るのは、零れ落ちた涙が凍りついたかのような大粒の真珠のネックレス。深紅の唇は毒を含んだ花の如く、伏せられた睫毛の先に宿る寂寥が、見る者の心臓を鷲掴みにします。


「………………」


 美しすぎるその外見は、凡庸な言葉を拒絶し、少年から呼吸を奪い去るのに十分な威容を誇っていました。


「ポメロ君は」


 唐突にエレクトラはポメロに向き直り、ゆっくりと近づいてきました。


 煙草の香り。それに混じってポメロの知らない、野生の香り。麝香。それがくらくらとポメロを酩酊させます。どうにもむずむずとして落ち着きません。いえ、落ち着けません。


「聞いてる、ポメロ君?」


「はい聞いてません!」


 素直か!


「ふふっ── それで正解。だって私、まだ何も言ってないから」


「間に合ってよかったです」


「可愛い子ね」


 エレクトラはポメロの隣に腰掛けます。彼に膝を向けて。体を傾げて。距離が近い。首筋に吐息がかかる。


「あわわわわ」


「……ふふっ」


「あんた、そんなに青少年をイジめんじゃないわよ。性癖歪めちゃうわよ?」


「歪んでません。ぼくはお尻一筋です」


「可愛い子ね」


「可愛い要素あった?」


 エレクトラはそうしてしばらくドギマギするポメロの純情をもてあそんでから、つやつやした顔でチーママに尋ねた。


「どう? ポメロ君の働きぶりは」


「ああ、元気によく働いてくれたし、ハキハキしてるのもいい。今日限りってのが残念なくらいさ」


「そっか、ポメロ君の影日向のなさは、海千のチーママも絆しちゃうんだ」


「最近だらけ気味だった自分に喝を入れられた気持ちだよ」


「ふふっ……………」


 エレクトラの表情は変わらぬ微笑。

 エレクトラの姿勢は変わらぬ媚態。


 だから誰も拾えませんでした。彼女の呟きを。







 「…………可愛くない子」



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