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トルバドーれ!  作者: 袴田八峰
第六幕「ムカつくアイツの歌」

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二席


 その時、回廊の先から、重々しく、それでいてどこか品性を欠いた靴音が響いてきました。

 

 前方を塞ぐように現れたのは、三人の先客でした。


 中央に立つのは、伝統派のガウンをラフに着崩し、両額を鬼ゾリに決めたアロペリを被る野卑な青年。その隣には、氷細工のような冷たい眼差しを向け、扇子で口元を隠す青い瞳の少女。そして、バイロイトからの留学生であり、古式ゆかしい正装に身を包んだ異国からの留学生。

 

 その顔におしろいを塗りたくった留学生が、優雅に袖を振りました。


「のほほほほ。これはこれは。モトロード先生の「おひざうえ」、エピタフ君ではごじゃりませぬか。わざわざこのような埃っぽい回廊に、野良犬を連れて何のご用でおじゃるかな?」


 不自然におじゃる言葉が回廊に響き渡ります。これは伝統派界の上方、バイロイトのしぐさ。俗に「雅型」と呼ばれる流派です。 ちなみに「おひざうえ」とは、雅型ことばで「依怙贔屓の対象」を表す奥ゆかしい表現です。


 エピタフの肩が、屈辱でぴくりと跳ねました。


「……徒兄様方。ご挨拶が遅れ、失礼いたしました」


 エピタフは兄弟子たちに適切な距離を取るべく、二歩下がりますがその所作が仇となりました。

 

「何いきなりバックして……ぅお!」

 

 立ち止まっていたポメロと衝突。壁に手をつき転倒という無様は免れたものの、小脇に抱えていた革筒を落としてしまいました。留め金に衝撃を受け中身をまき散らす鞄。

 

 野卑な兄弟子の前に、ひらひらと舞い落ちたのは、エピタフが指導の為に師匠から借りていたスコア。


「あ、それは師匠から預かった!」


 野卑な青年はその隙を見逃しませんでした。エピタフが伸ばした指の先にあったスコアを、ひったくるように奪い取ったのです。


「大切なものなのです徒兄上。どうかこの不肖の弟弟子に、師匠の譜面をお返しください」

 

 野卑兄の顔が嗜虐に歪みます。


 「エピタフ、お前この間、エラソーに講釈垂れてたよな? 物を落とすということは、捨てるのと同義。心に隙があるから落とす、だったか?」


 野卑兄は一度拾ったそれを再び足元に落とすと、自慢の革靴でグリグリと踏みつけたのです! このひとでなし!


 「で、おじゃるな。では麻呂ら不肖の兄弟子なれど、俊英殿の導きにしたがって処分しておいてやろうかの、ほほほ」


 ポメロの瞳に、怒りが灯りました。

 

 エピタフはそのスコアを師匠からの預かりものと言っていた。なのにわざわざ踏みにじり、あざ笑う。どんな時でも優雅で上から目線のアイツが下手に出てるのに。

 

 ムカつく!


「ちょっと! 今の絶対わざとやったよね!? 返せよ、それはエピタフが大事にしてるものなんだ! なんでそんなひどいことするのさ!」


 ポメロが怒りに任せて身を乗り出した瞬間、エピタフの冷たい、けれど氷のように硬い手がその肩を掴みました。


 さらに、三歩前へ……ポメロをかばう様にして身を乗り出すと。


「……失礼いたしました。汚れた譜面は私の不徳の致すところ。以後、厳に慎みます」


 ポメロは絶句しました。


 (なん……で)

 

 ポメロにはエピタフが頭を下げる意味がわかりません。

 

 お前は悪くない。悪いのはアイツらだろ。なのに、なぜ。

 

 ムカ。

 

 熱情が胸の奥で身じろいでいるのが感じられます。


 だがそれだけでは溜飲が下がらなかったのか、蛮人の如き兄弟子は。


「おうよ。いいかエピタフ、誠意を見せろ。この場に膝をつき、地べたに額を擦りつけろ……土下座ってやつだ。そうすれば、俺様の不快感も少しは晴れるもしれねえな」


 土下座という概念は伝統派しぐさにはない!


 地べたに膝をつくなど下々の発想!


 お里が知れる!


 にやり。


 エピタフが下げた頭の下で笑みました。


「土下座なる風習は寡聞にして存じ上げません。ですが、謝意の不足を感じておられるのなら」


 エピタフは一度頭を上げました。


 直立。


 一切の無駄を排したその立ち姿は、まるで大聖堂に鎮座するパイプオルガンのように荘厳です。背筋は天を指し、乱れたはずのアロンジュ・ペリュックさえもが、彼の覚悟を彩る王冠のように光を帯びます。


 そうして先輩の目を見ることなく顔を見ると。


 「どうか」


 緩やかに首を垂れました。

 肩より低く。

 背中を丸めるという醜さを見せぬまま、腰を折ってゆきます。


 ラルゴ。


 等速で緩やかに。

 典雅のリズム。

 そして曲げられた腰は……おお、なんということだ、30度を超えてなお下がってゆきます!


 30度は深い謝意を示す角度。

 それを超えて、なお!


 「ちっ……」


 蛮人は舌打ちする!

 品位ナシ!

 養成所の面汚し!


 そして驚くべきことに、ついにエピタフの腰は到達点に至りました。

 60度。

 しぐさの紐解くところによる最大級の謝辞!


 その無理の有る姿勢に震えることなく、かかとを浮かすことなく、膝を曲げることなく、エピタフは静止しています。


 筋トレの知識があるものならばわかるでしょう。この姿勢は、エレクタースピネとハムストリングスを鍛えぬかねば維持できぬものであると。


 おそらくは氷女や麻呂では安定した60度到達すら無理。蛮人の見せ筋でも姿勢の10秒キープ程度が限界でしょう。


 これが謝罪の極致!


 そう思わざるを得ないほどの、圧力を持った様式美の洗練がそこにはありました。


 「どうか」


 ですがエピタフはまだ頭を上げません。

 赦しの言葉を受けていないからです。


 「……」


 氷女はエピタフの60度の腰を数秒凝視し、満足したかのように瞬きを一度。たをやめぶった沈黙の赦し───無色の一瞥!


 「麻呂は許すでおじゃる! これほどの60度はバイロイトでも見たことがないでおじゃる! くるしゅうないでおじゃる!」


 麻呂が扇子を叩き、感極まったようにおじゃる声を上げました。


 エピタフは動きません。

 直角二等辺の完璧な角度。

 もう一人いるからです。


 「なにとぞ」


 怜悧な圧力。


 「なにとぞ」


 不動のリズム。


 「くっ……」


 養成所にふさわしくないイキリ野郎が、ついに。


 「……貴様とその友の無礼を許す」


 蛮人が投了を宣言して去りました。

 遠巻きに見ていた先輩たちもまた。


 ポメロにはこのやり取りの意味がわからな……すこしだけ分かったと感じました。これは勝負で、エピタフは勝者なのだと。


 もう余人は誰もいないというのに、エピタフは下げた時と等速で頭を上げ切ると、ポメロに向かって言いました。


 「手間をかけさせやがって」


 「は?」


 お前の為に怒ってやったのに!

 ポメロの第五のムカつきは、熱情を激しく身悶えさせました。



───── ♬ ─────



 エピタフが何故、伝統派に属しその思想に共鳴しているのか。

 それを説明するには彼の生い立ちを紐解かねばなりません。


 『エピタフのやつ、また癇癪を起しやがった!』

 『うるさいうるさいって、聞こえない音でも聞こえてるんじゃないの?』


 これはまだ七歳だった彼に向けられた両親の言葉です。

 音楽が聞こえる度に癇癪を起す。とても育てにくい子供だったのです。


 『父上も母上もどうしてこの嫌な音が聞こえないの? 脳みそがかき回されないの?』


 彼にとって、この街に溢れる音楽は、脳を引っ掻き回す蚊の羽音と同じでした。絶対音感などという便利なものはありません。ただ、不完全な旋律や、ピッチのズレた和音、リズムの揺らぎといった「ズレ」を、生理的な苛立ちとして受信してしまうのです。


 音楽を聴く、苛立ちを覚える。

 それは音が狂っている証拠だ。


 音楽を聴く、苛立たない。

 それは音が正しいという証拠だ。


 この苛立ちのレーダーこそがポメロの揶揄した【音叉脳】の正体でした。


 ですが、ここは二十四時間音楽が絶えない都カーネギー。どこへ行こうと、路地裏からも、窓越しからも、不協なズレが刃となって彼を刺しにかかります。かつて癇癪持ちと忌避され、身内にすら腫れ物扱いされた彼にとって、唯一の鎮静剤が、狂いなき「正解」を尊ぶ伝統派の音楽だったのです。


 しかし、救いであるはずのその場所もまた、彼にとってはもう一つの戦場でした。


 伝統派は、師匠の免許皆伝なしには音楽家を名乗ることさえ許されぬ、血と掟の徒弟制度。モトロードの愛弟子として優遇されるエピタフは、兄弟子たちからすれば嫉妬と憎悪の標的に過ぎません。

 

 【伝統派しぐさ】を隠れ蓑にした陰湿な無視や訓練の妨害。かわいがり。


 エピタフは、この巨大な組織の檻の中で、多忙な師匠に負担をかけることもできず、ずっと一人で耐えてきました。


(……なのに)


 ポメロ。

 

 音楽的には論外で、言動はムカつく。けれど、このアホ犬だけは、エピタフの尊大な言葉のすべてに、真正面からダイレクトな反応を返してきました。プライドとしぐさの壁に引きこもっていた彼を、ポメロだけは一人の人間として引っ張り出そうとしてきます。


 あの能天気な田舎者にそんな気はもちろんないでしょう。でも、エピタフにとっては。


 それは、伝統派の凍りついた階級社会の中では決して得られなかった、眩しいほどの光源でした。


 『返せよ、それはエピタフが大事にしてるものなんだ!』


 さっきの叫びが、まだ耳の奥で、心地よい余韻として鳴り続けています。


 最後の一枚を拾い終え、エピタフは譜面の泥を丁寧にはたき落とすと、それを革筒へと慎重に納めました。


 そうして立ち上がり、一度だけ深く息を吐いて、自らの装いを厳格に整え直すと。


「……社会見学はもう終了だ。帰るぞ、アホ犬」


 ポメロの顔を見ることなく、エピタフは重い革筒を抱え、迷宮の出口に向かって歩き出しました。

 

 

 


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