一席
秋深まりて枯葉舞う頃。
音楽の都カーネギーは、例年になく奇妙な熱気に包まれていました。
中心部に鎮座する【九番舞台】は、【伝統派】がその規律と尊厳を維持するための聖域です。
今日、そこでは一般客や来賓を一切入れぬまま、王宮楽団による王国賛歌の派閥内々に向けた御披露目が行われていました。
ビクター家の神童、アンドレック様がデビュタントにて国王様に献上し、ひとかたならぬご好評を買った楽曲。
本来であれば、長老たちが等速の歩行で迎え、至高の芸術を慈しむ場となるはずでした。
ですが、舞台から流れてくる旋律に、最前列に陣取った伝統派の面々の背筋は、垂直の美学を保ちながらも、氷点下の怒りに凍りついていました。
「……これは、何だ」
一人の長老が、言葉にする価値さえないという絶望的な軽蔑を込め、絶対零度の溜息を鼻腔から抜きました。
舞台上で奏でられているのは、この三年近く、伝統に首を垂れることなく我が物顔で革新の楽曲を次々に発表している、あの田舎少年ポメロが書き上げた賛歌です。
『強いぞ!凄いぞ!カッコイイぞ!』
もう、タイトルだけで伝統派にケンカ売ってます。
ですが、国王さまのご寵愛。
ですが、王家からのご命令。
もちろん、楽団の面々も伝統派の顔を立て、ポメロ特有の泥臭いスキャットや下俗なギターの掻き鳴らしは封印していました。
代わりに、規律を重んじるティンパニと、高貴なるトランペットのファンファーレによって、楽曲は洗練された賛歌として、王国を彩るに相応しい伝統楽曲として再構築されています。
ですが、隠しようがありません。
「ダダッダダッダッ」という、あの心臓を直接掴み、大地を激しく踏み鳴らすような、野蛮なパトスの残滓が、精緻な打鍵と吹奏の隙間から、汚水のように漏れ出していました。
演奏が終わり、会場には伝統派しぐさを紐解くところの「真空の打鍵」が響きました。
熱を一切込めない、事務的な拒絶の拍手。
残響の即時裁断によって静寂が戻ると、長老たちは無言のまま席を立ち、九番舞台の奥にある、冷え切った石造りの会議室へと移動しました。
「屈辱だ」
部屋の重い扉が閉められた瞬間、一人の長老が扇を三段階で開くしぐさを見せ、境界線を作りました。
「我らが聖域で、あのような……あのような、革新の食い零したパン屑を聴かされるとは。来賓を招いての本番は、この街の有力者たちも集まるのだぞ。あそこで、あの田舎者の汚れた足で伝統を踏み躙らせるつもりか」
「お静かに。憤怒を露わにするのは、伝統派しぐさに非ず」
嗜めたのは、別の長老です。彼はカフスの絶対微調整を行いながら、冷徹な瞳で室内を見渡しました。
「だが、本番ではあの少年──ポメロに挨拶をさせることになっている。王家の覚えがめでたいからといって、野放しにはできぬ。祝賀演奏会の主催は、我ら伝統派に一任されているのだ。そうだな、我らの【看板】よ」
控室の隅、折り畳みのパイプ椅子に、机もなく座らされていた男が、肩を震わせました。
モトロードです。
カーネギーの楽壇における最高位【六歌仙】の伝統部門の栄冠を抱く者。
人呼んで「グレートコンポーザー」「音楽の正解」「天才を追い抜いた秀才」。
数々の称賛を伴う二つ名を持ち、作曲のみならずピアニストとして、またコンダクターとして伝統派の実務を牽引する男。
で、あるにも関わらず。彼はこの伝統派という楽壇最大派閥の中にあっては、「新参者にして最下位の幹部」という、小さな実権しか振るえぬ立場に押し留められていました。
しかし、これは差別でもかわいがりでもありません。
徹底した徒弟制度と、年功序列。
伝統派とは、そうした縦割りの身分制度をも伝統として存在してきた組織ゆえに。
モトロードは目上である長老の問いかけに、眉間の縦皺をこれ以上ないほど深く刻み、自らの巨大な筋肉を沈黙させるように背筋を伸ばし、黙考。
しかる後、絞り出すように答えました。
「長老。ポメロは招きます。自らの曲の凱旋を祝う、最高の舞台へと。そこで彼には、伝統派が用意した鍵という名の休符を、骨の髄まで味わっていただく」
「その上で?」
「策を。弄するほかありますまい。ポメロの名声を貶める、策を」
「悪くないぞよ。伝統派の正解を、あの無知な少年に叩き込んでやるのでおじゃる」
のほほと笑う、バイロイトからの客員長老の上方しぐさによって満足を告げられ、会議は終わります。
長老たちは話を終えた後、背筋を数ミリ引き伸ばすようにして「垂直の静止」を行い、互いの意思に揺らぎがないことを宣告し合うと、音もなく部屋を去っていきました。
一人残されたモトロードは、自らの震える指先を、もう片方の手で力任せに押さえつけました。その瞳には、伝統への忠誠と、名状しがたい嫌悪が、激しく渦巻いていました。
──── ♬ ────
石造りの廊下に、等速の足音が響きます。
一歩を一拍として刻まれるそのリズムは、周囲の喧騒を寄せ付けない「四分の四拍子の歩行」でした。
モトロードは自身の呼吸さえも規律に従わせながら、自室へと向かっていました。
部屋に入ると、そこには弟子のエピタフが待っていました。
かつてのエピタフは、伝統の枠組みをなぞるだけの、いわば規律の化石のような少年でした。彼の資質とはそのようなものでしたし、モトロードもまたそのように育てました。これまでは。
ですが、今の彼は違います。譜面に向かう背中からは、隠しきれない熱情が、静かな蒸気のように立ち上っています。
「……師匠、お戻りですか」
「母指球筋の緊張が解けていませんね。エピタフ、集中しなさい」
「申し訳ありません」
エピタフが鍵盤を叩きます。
その打鍵は正確無比であり、リズムの刻みに毛ほどの狂いもありません。
伝統派の理想とする揺るぎない正解そのものです。
ですが、モトロードはその響きの奥に、伝統派が禁忌とする「表現の越境」を感じ取っていました。
音は変わらず揺るぎません。
しかし、音色が色彩を帯びすぎています。
厳格なモノクロームであるべき伝統の旋律に、エピタフは無意識のうちに、豊かな情感という名の影を落としていました。
革新派からは光と呼ばれるであろう影を。
モトロードは知っています。
この弟子が、師の目を盗んで独創的な編曲活動に耽っていることを。
偽名を用いてそれを世に放っていることを。
本来なら、その瞬間に破門、あるいは「角度による処刑」を以てその才能を葬るのが、伝統派の師匠としての責任です。
ですが、モトロードはそれをしませんでした。
弟子の未熟な、しかし生命力に満ちた譜面を、彼は人知れず握りつぶしていました。
証拠は全て、自らの書斎の奥底に、秘密の装束と共に隠し続けています。
(この才能を、枯らしてはならない)
それは、伝統派の重鎮としては許されざる背信でした。
モトロードは窓辺に立ち、視線を前方十五度の角度に固定したまま、先ほど九番舞台で聴いたポメロの楽曲を反芻していました。
『強いぞ!凄いぞ!カッコイイぞ!』
ずつうがいたくなってしまいそうなIQの低いタイトルです。
長老たちはこの楽曲を聞いたうえで、野蛮なノイズと切り捨てました。
しかし、モトロードの耳には、別の可能性が届いていました。
あの楽曲の底流には、伝統という堅牢な根があります。
ポメロは、伝統派が積み上げてきた形式を壊すのではなく、それを土壌にして、見たこともない自由な枝を伸ばしていたのです。
そこには、伝統への畏敬と、歩み寄りがありました。
「ほどよい」バランス。
規律を重んじながらも、魂の飢えを癒やすことのできる新しい音楽の形を、あの少年は無意識のうちに体現してしまっていました。
「エピタフ。君は、ポメロ氏と親交があるそうですが」
「……! はい。彼は、僕にはないものを持っています。恐ろしいほどに。アホ犬ですが」
弟子の瞳に宿る純粋な憧憬を、モトロードは直視できませんでした。
長老たちの包囲網は、刻一刻と狭まっています。
伝統の秩序を維持するためには、ポメロという不純物を排除しなければなりません。
そうしなければ、ポメロに毒されたエピタフまでもが、長老たちの【検閲】によって音楽家としての生命を絶たれることになるでしょう。
弟子の未来を守るために、あの少年を贄として捧げるべきか。
それとも、自分が「ほどよく」あるために積み上げてきた全ての虚飾を捨て、弟子とその友人の未来の為の捨て石となるか。
「師匠? 顔色が優れないようですが……」
「何でもありませんよ、我が弟子エピタフ、練習を続けなさい。今はただ、自身の構築物を磨き上げることです」
モトロードは腕を組み、自らの上腕二頭筋がはち切れんばかりに膨らむのを感じながら、深く目を閉じました。
規律と情動、伝統と革新。
壁面に懸けられた天狗とオカメなる伝統的な仮面に見下ろされる彼の精神は、爆発を待つ火薬のようにきしんでいました。
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