三席
夜が来た。
領主館の客室に、真夜中の静寂が満ちていた。
テイチクは、彫刻の施された豪奢な椅子に深く腰掛けたまま、小脇に抱えた愛用のギターを見つめていました。
使い込まれ、艶を失ったその木肌だけが、この浮世離れした贅沢な空間において唯一、彼の零落した人生を知っていました。
ここにウイスキーはありません。
ルーティーンに必要な酔いが生まれません。
ですが、浮ついた、落ち着かない気分と。
沈み込んだ、複雑な思考が混ざり合って。
度数の高いウイスキーにも勝る酩酊感を生んでいました。
テイチクがギターをつま弾きます。
まず、低い。
弦を指の腹で撫でるような、重厚な低音のアルペジオが前奏として響き渡ります。
開放弦の残響が空気を重く湿らせ、まるで夜の帳が降りきった瞬間の、寄る辺ない不安と静謐を物理的な振動へと置換していきます。
右ポケットには光の道。
名誉ある奏者の地位へと戻れる、領主からの見分の約束。
尻ポケットには闇の道。
奏者の命を断って音楽の守護者となるための、金襴の招聘状。
弟子のポメロは、師匠が再び光の下で喝采を浴びることを夢見て、そのために己の未来の一部を捧げました。
その献身的な愛情は、テイチクの胸を焼くほどに熱く、重いです。
ですが、ギター仙人の言う「辛酸を経てなお泥を呑む覚悟」もまた、かつて楽壇を飛び出したテイチクの燻り続けていた反骨心を、静かに、しかし力強く揺さぶっていました。
ビィン、という、胸の空洞を直接震わせるような響きが、本編の演奏へと移り変わります。
ウイスキーの琥珀色を思わせる、渋みと甘みが同居したマイナーセブンスの和音が、独り夜を耐える者の孤独を優しく、しかし残酷なほど鮮明に描き出していきます。
(おいらは、どっちの男なんだ───?)
どっちの男でもある。
故に、迷う。
堪えきれず、テイチクの乾いた指に力が宿ります。
爪弾く度に自嘲が漏れます。
今の自分に、このふかふかの絨毯を踏める資格などあるのでしょうか。
王都の隅っこ、貯水塔の下にあるあの空き小屋。
そこは自分の家ですらなく、ただ勝手に住み着いたのを目溢しされているだけのお情けの住処です。
生活資金はとうに底を突き、胃をキリキリと焼くような空腹を、楽曲提供者たちから届くわずかばかりの生活物資で繋いできました。
楽壇から叩きつけられた除名という名の封印。
それは単なる仲間外れなどという生易しいものではありませんでした。
音楽によるあらゆる金銭、報酬の受給を法的に封じられるということ。
パン一つ、水一杯であっても、歌の対価として受け取ればそれは違法な取引として断罪されます。
あの頃の楽壇の支配者どもは、かつての有識者会議は、彼を音楽で一銭も稼げぬ生きた幽霊に仕立て上げることで、音もろとも餓死させ、根絶やしにするつもりだったのです。
♪── ドゥン、ドゥン、ディン、ディラ……
旋律の隙間を埋めるように、喉の奥から絞り出すようなスキャットが重なりました。
言葉を介さぬスキャットは、既存の楽理を超えたグルーヴ感を生み、行き場に迷ったテイチクの鬱屈した感情を、生のままの大気に放流していきます。
惨めでした。
音楽さえ売れれば、売ってよければ、こんな思いはしなくて済みました。
ですが、自分の曲は珠玉です。
安売りなどできるでしょうか。
あの日、楽壇が俺を追放しても、音楽そのものを辞めさせることはできなかったでしょう。
ざまあみやがれ。
そんな反骨心だけで、タダ同然で街に曲を配り、意地を張って生きてきました。
(本当は分かってんだ畜生め。これは負け犬の遠吠えでしかないんだってな)
やがて、そのスキャットは更なる深みを湛え、慟哭にも似た厚みを持って響き渡りました。
肺の奥底から絞り出される倍音の重なりは、夜の底に沈殿する濁りきった空気を震わせ、窓の外に広がる王都の闇と同化してゆきます。
緩やかに、しかし重く、客室の贅沢な装飾を孤独と哀愁の色で塗り潰していきます。
装飾を削ぎ落とし、ただ己の孤独感のみを抽出した音。
ブルーズの魂の結晶。
彼は自分自身という鏡と向き合うように爪弾き続けます。
ポメロが望む金看板を背負った誇り高き自分の姿を思い浮かべます。
それは眩しく、そしてひどく窮屈でした。
一方で、あのギター仙人のように、名前すら捨てて誰かのための盾となる道。
その先に、かつて自分を裏切った音楽界への復讐ではなく、音楽そのものを愛するための明日があるのだとしたら。
(……てやんでえ。金看板の下で背筋を伸ばして座るなんて、おいらの性分じゃねえんだよ)
禿頭を月光に晒し、テイチクは自嘲気味に鼻を鳴らしました。
弟子の愛情は痛いほどに分かります。
ですが、その愛情に応えることが、必ずしも自分自身の誠実であるとは限りません。
彼は一晩中、その曲を奏で続けました。
過去の栄光を、現在の葛藤を、予感される未来を。一音一音、噛み締めるように低音を響かせます。
夜の闇が深まれば深まるほど、演奏の熱量は増していき、やがて窓の外には、薄く、頼りない黎明の光が差し込み始めていました。
テイチクは、弦を押さえていた指をゆっくりと離しました。
♪── ダ、ディビダ、シャドゥバディ。
微かに震える指先に残る鈍い痛み。
テイチクは心を決めました。
───── ♬ ─────
翌朝、領主館の会見室には、昨日とは打って変わった重苦しい沈黙が流れていました。
テイチクは、ポメロがどこからか工面してきた、肩の凝るような安物の燕尾服に身を包んでいました。
袖丈は足りず、生地はガサガサと安っぽい音を立てます。
その滑稽な姿は、彼がいかに光の下に不似合いな男であるかを残酷に示していました。
「……返事を聞こうか、テイチク」
領主ゲッティングの声が静かに響きます。
卓上には【楽壇除名解除】の公文書が用意されていました。
これに署名し、今日の儀式に臨めば、彼は再び王都が認める正統な奏者へと返り咲きます。
テイチクは一度だけ、愛弟子の無垢な瞳を見ました。
それから、ゆっくりと首を横に振りました。
「……もったいねえお話ですがね、ご領主様。おいらには、その立派な看板はちいとばかり重すぎまさあ。こんなフカフカしたとこで綺麗な音を奏でてちゃ、おいらの指が腐っちまう」
「師匠……? 何を言ってるんですか!」
ポメロの驚愕の叫びを遮るように、テイチクは尻ポケットから金襴の封筒を引き抜き、ゲッティングの机に無造作に放り投げました。
「その封筒は、あの森の仙人のヤツに返しといていただけねぇですか? 穴を広げるのは、おいらの役目じゃねえ。……勝手に穴から漏れ出すのが、おいらの音だ。そう、しわがれたタコ入道がそう言ってたってな」
茹蛸のように禿頭を真っ赤に染め、テイチクは慣れない燕尾服のボタンをブチブチと引きちぎるように脱ぎ捨てました。
剥き出しになったランニングシャツ姿で、彼は領主を真っ直ぐに見据えます。
「領主様、おめーさんは誠実な男だ。唾は吐かねぇでおいてやる」
「……左様か。ならば、もはや引き止めはせぬ。去るがいい」
ゲッティングは、落胆するでもなく、ただ深く一度だけ頷きました。
「じゃあなポメロ。おいらはまた、雑踏の中でしか響かねえ音を探してくるぜ。秒で綴れる曲を、いつもの場所でな。フレーズを探してる時に邪魔したらまたインクをぶっかけてやるからな。タオルは忘れずに持ってきやがれ」
背を向け、大股で歩き出すテイチク。
追いかけようとするポメロを、領主の静かな制止が止めました。
一度も振り返ることなく門へと向かう彼の唇からは、いつしか軽快な口笛が漏れ出していました。
それは昨夜の重苦しいハミングとは打って変わり、朝の光に踊るような、自由そのものの『ナイトカムズダウン』の一節でした。
♪── ヒュッ、ヒュッ、ピッピロ、ピリラレ
♪── ピュレーエー、 ピュッピーロー……
彼はそのまま生きた幽霊として、朝日が照らす街の雑踏へと消えていきました。
名誉も、権威も、そして愛弟子の庇護すらも捨て去って。
彼は再び、無数の孤独が渦巻く街の喧騒へと帰ります。
朝日を浴びる彼の禿頭が、光に照らされていました。
───── ♬ ─────
それからどのくらいの時が経ったのでしょうか。
あるいは季節が巡ってすらいないのでしょうか。
カーネギーの外縁、街壁の補修工事に従事する日雇い労働者たちが集う、名もなきパブがありました。
長年の手垢と酒に磨かれた重厚な木製カウンターは、鈍い光を湛えて労働者たちの肘を受け止めています。
琥珀色の照明は、低く吊るされたランプシェードの陰に煤けながらも、棚に並ぶ安酒の瓶をぼんやりと浮かび上がらせていました。
酔客が声を荒らげることはなく、ただグラスが触れ合う微かな音と、一日の重労働を終えた男たちの深い吐息だけが、静謐な店内に沈殿しています。
壁に染み付いた石灰の粉塵と、パブ特有の湿った酵母の匂いが混じり合い、この場所が彼らにとっての唯一の休息地であることを静かに主張していました。
夕闇が迫る店内には、土埃にまみれた男たちが、安酒のハーフパイントを傾けていました。
薄暗い店内の隅に置かれた、調律の狂った古いピアノ。
一人の奏者が、指先で静かに旋律を紡ぎ始めます。
どこかで聴いたことがあるような、しかし、どこで聴いたのかも思い出せない、孤独な夜を掬い上げるような調べ。
カウンターの端で、一人の男が注文したウイスキーのグラスを揺らし、その旋律に耳を澄ませました。
「……いい曲だな。沁みるよ」
「そのモルトの醸造元が広めてる曲ですよ」
店主は顔を上げず、手元のグラスを布巾で拭きながら、事務的な声で応えました。
カラ、カラ。
グラスの中で、氷が泳ぐ乾いた音が響きます。
やがてピアノの音色に、奏者の唇から漏れる低いスキャットが重なりました。
♪── ドゥン、ドゥン、ディン、ディラ……
それは哀愁と孤独を深く湛えながらも、同時に、行き場のない心を静かに肯定し、赦しを与えるような、ひっそりとした温もりを宿していました。
夜の底に沈む者たちの隣に、ただ無言で座り込むようなその音は、店内の淀んだ空気を優しく震わせていきます。
♪── ダ、ディビダ、シャドゥバディ。
今日を戦い抜いた男たちにはもはや言葉もなく、ただ静かに目を閉じ、その音に酔い痴れていました。
「なんてタイトルなんだい?」
「それは――」
夜が来た。
変わらぬ明日を生きねばならない者たちへ、休息を与える為に。




