二席
翌日、王都の陽光は不自然なほどに明るく、石畳を白く焼き出していました。
ポメロに連れられ、場違いなほど豪奢な領主館の門を潜ったテイチクは、終始、居心地悪そうに禿頭を掻きむしっていました。
借りてきた猫のように肩をすぼめ、慣れない絹の裏地の感触に、何度も「てやんでえ」と小さく毒づきます。
謁見の間で二人を待っていたのは、昨日と同じく、威厳と理性を湛えた領主ゲッティングでした。
「面を上げよ、テイチク」
ゲッティングの声が、高い天井に反響します。
テイチクが顔を上げると、領主は皮肉めいた微笑を浮かべることもなく、ただ静かに一通の書状を机に置きました。
「先々代の頃の不作法、今更蒸し返すつもりはなかった。そなたが育てたこのポメロの音が、我が領地の誇りとなった事実は重い。その功徳に免じ、ビクター家がそなたに被った侮辱を、ここに許す」
四十年の時を経て与えられた名誉の回復です。
テイチクは再び平伏し、慈悲ある決定を受け入れました。
傍らにあるポメロはそわそわした態度を隠そうともせず、領主とテイチクとを交互に見やります。
ゲッティングは苦笑すると、テイチクに向かってもう一つ、言葉をかけました。
「さらに一つ。私はそなたの楽壇除名を正式に解除してもよいと約そう」
傍らで控えていたポメロの顔が、ぱあっと明るく輝きました。
「師匠! やりましたね!」
「……あ、ああ。勿体ねえお言葉で」
テイチクは、湿った手のひらを膝で拭いました。
弟子の、邪気のない、純粋なまでの敬愛が突き刺さります。
自分のために、この少年がどれほどの熱量で頭を下げたのか。どれほどの褒美引き換えに、この無理筋な権利を勝ち取ったのか。
その献身を想うと、胸の奥が熱い塊で塞がれるようでした。
「明日、大々的に楽壇除名解除の儀を執り行うことも可能だ。今宵は館でゆっくりと、身の振り方を考えるがいい」
ポメロは、領主の言葉に潜む迂遠な気遣いが分かりません。
ただ師匠の名誉が戻るのだと信じ、無邪気に喜びを噛み締めています。
ですが、テイチクには伝わりました。
「解除してもよい」という言い回し。
そして「身の振り方を考えろ」という一言。
謁見の裏に仄見える政治の気配。
復帰を選ぶか否かの自由を、暗に突きつけられたのです。
領主は、テイチクにもう一つの選択肢があることを知っているのです。
テイチクは借り物の燕尾服の尻ポケットに手をやりました。
そこには、数日前から居座り続けているあの招待状の感触がありました。
「……は、はあ。ありがてえことで」
下がるよう促され、テイチクは何度も頭を下げながら広間を後にしました。
──── ♬ ────
案内された客室は、テイチクの住む貯水塔のボロ家が丸ごと数軒入りそうなほど広大でした。
ふかふかの絨毯、磨き上げられた調度品、窓の外に広がる王都の夜景。
しかし、その贅を尽くした空間が、今のテイチクには、逃げ場のない檻のように感じられました。
「……参ったね、こりゃあ」
独り、豪奢な椅子に深く腰を下ろすと、テイチクは尻ポケットから一通の封筒を取り出しました。
昨夜、あのギター仙人から手渡された、金襴の刺繍が施された重い封筒。
その中身を思い、彼は激しい葛藤に襲われていました。
明日、楽壇員としての権利を取り戻せば、自分は再び奏者として表舞台に立てます。
弟子の願いを叶え、光の下で音を紡ぐことができます。
楽曲を金銭で取引できます。
ですが、それは同時に、この招待状が示す別の道を閉ざすことを意味していました。
(ポメロの野郎……。あんなに喜んじまって。おいらが金看板に戻るのが、あいつにとっての正義なんだろうが……)
テイチクは窓の外、静かに闇に包まれていく王都を見つめました。
夜の静寂が、彼の心象風景を容赦なく剥き出しにしていきます。
「ここまでおいらの選択肢を否応なしに奪っておいて、ジジイになってからこれかよ」
誰に聞かせるでもない独り言が、冷たい空気の中に消えていきました。
──── ♬ ────
それは、いつかの夜。
「夜会のお誘いにやって参りました」
ギター仙人が差し出した金襴の便箋。
テイチクは訝しげに、ですが抗いようのない予感と共に受け取りました。
震える指で封を切り、中に納められた厚手の羊皮紙を月光に晒します。
そこに記されていたのは、【有識者会議】の連名による議員への招聘。
「……議員だと? おいらに、あの古臭い円卓に座れってのか。冗談じゃねえ、おいらは音楽の側にいたいんだよ。政治の道具にされるのは御免だぜ畜生め!」
テイチクは茹蛸のように赤くなり、今にも羊皮紙を引き千切らんばかりに声を荒らげました。
ですが、枯れ木のような老人は動じません。
ギター仙人。
この老人の名は、楽壇の公的な記録には残っていません。
かつて演奏の六歌仙・演奏候補にその名が挙がったのを機に、彼はギター以外の全てを捨てて失踪したからです。
失踪から十数年後、片田舎を驢馬で放浪し、日銭を稼ぐ生活をしていた彼を、一人の議員が探し当てました。
『私は風向きを変えたいのだ。バガボンドスタイルの君であればこそ、一穴を開ける決め手となる。どうか音楽界の為に協力して欲しい』
金襴の招待状を手に頭を下げたその議員の言葉を信じ、仙人は名を捨て、議員となって。
カーネギー周辺の浅い森を衛星のごとく周回する奇妙な生活に身を投じました。
あれから十年──
仙人を勧誘した議員は世を去りました。
その穴を埋めるべき実力ある無頼漢として、仙人はテイチクに白羽の矢を立て、改革派の議員の推薦を得たのです。
「テイチク殿。これは支配のための席ではありませぬ。……『後進の健やかな音楽活動のために、中から変えてみませんか』。差出人の一人は、そう書き添えておりますよ」
「中から……変えるだと?」
「左様。今の楽壇の歪な構造を、あの少年──ポメロ殿のような者が踏みにじられぬ場所に作り替える。彼は実に業が深い少年ですよ。相棒の死すら旋律の燃料にする、冷酷なまでの表現者の魂を持っております。ですが、表現者としては図抜けておりますな。私が秘蔵のギターを譲ったのは、そのひとでなしの覚悟を、誰よりも買っているからに他なりませぬ」
仙人の丸眼鏡が、月光を反射して怪しく光ります。
「彼のような才能を守れるのは、辛酸を嘗め尽くしてなお、泥を呑む覚悟のある者だけでしょうな。……私は、自ら風穴を開けました。次は、共にその穴を広げる者が必要なのです」
「…………」
テイチクは言葉を失い、ただ手の中の封筒を凝視しました。
この時、ギター仙人は知る由もありませんでした。
数日後、ポメロが師匠の名誉回復のために領主へ頭を下げ、皮肉にも【議員】とは真逆の道である【楽壇復帰】の切符をもぎ取ってくることなど。
有識者会議の議員は、楽壇登録者ではなれぬのです。
テイチクもまた、予感すらしていませんでした。
自分がこの後、弟子の献身によって【奏者】か【権威】かという、幸せで残酷な二者択一の淵に立たされることになるなどとは。
「……夜は、残酷だ」
テイチクの絞り出すような呟きに対し、ギター仙人はそれ以上何も言わず、ただ夜の闇に溶け込むように背を向けました。
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