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トルバドーれ!  作者: 袴田八峰
第三十九席『ナイトカムズダウン』

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119/125

一席

 夜が来た。

 

 明日を迎えることを遮る暗き障害が。

 

 町外れの貯水塔。

 

 その裏手にあるボロ家の中で、テイチクは独り、使い込まれて艶の失われたアコースティックギターを抱えていました。

 

 昼間の喧騒の中であれば、あどけない弟子の献身的な笑顔や、街の工夫たちが自分の書いた三秒のフレーズを鼻歌で口ずさむ光景に、ささやかな充足を感じることもできます。

 

 おいらの音は、この街の日常に溶け込んでいる。それだけで十分じゃねえか、と自分に言い聞かせることもできます。

 

 ですが、夜が来て。

 

 己一人になると。

 

 心は否応なしに凍え始めます。

 

(もし、あの時。おいらがもっと──)

 

 「たられば」という名の毒が、血管を伝って脳を苛みます。

 

 毎晩というわけではありません。

 

 最近は頻度が減ってきているように思います。

 

 ですが、日中に何かチクリと胸を刺す痛みを感じた時。

 

 苦い思い出に期せずして触れてしまった時。

 

 小さな幸せを感じてしまい、夕方にはそれを手放してしまった時。

 

 その晩は、どうしようもなく心が冷えるのです。

 

 凍えるほどではありません。

 

 が、眠りにつけない程度には。

 

 そんな眠れぬ幾百の夜。

 

 彼にはルーティーンがありました。

 

 まず、飲みます。

 

 ウイスキーを原液で、ちびちびと。

 

 舐めるように。

 

 そうしてブルーズの夜を、酒で滲ませながら。

 

 テイチクは、乾いた指を弦に添えます。

 

 ビィン、という、木材が鳴らすどこかメランコリックな響き。

 

 ♪── ドゥン、ドゥン、ディン、ディラ……

 

 かつてウイスキーの醸造元から依頼され、そのまま自分の境遇と重なりすぎて手放せなくなった曲──『ナイトカムズダウン』。

 

 ♪── ディンディアーー…… ダンダーン。

 

 言葉にできぬ想いを、低いハミングに乗せます。

 

 それは旋律というより、魂の軋みに近いです。

 

 装飾を削ぎ落とし、ただ孤独だけを抽出した音。

 

 ある時は口笛で、ある時は溜息のようなスキャットで、彼は自分自身という鏡と向き合うように爪弾きます。

 

 この曲を奏でている時だけが、眠れぬ夜の寒さを僅かに和らげてくれる唯一の時間でした。

 

 その時です。

 

「にゃああああああおう」

 

 不気味なほど生々しい猫の鳴き声が、玄関のすぐ傍から響きました。

 

 己の不幸に心地悪く浸っていたテイチクの意識が、現実に引き戻されます。

 

「……てやんでえ、どこのどら猫だ。街猫条例ってヤツのせいで調子に乗りやがってチクショウめ!」

 

 自分語りの夜を中断させられた苛立ちを紛らわすように、テイチクは乱暴に立ち上がりました。

 

 禿頭を真っ赤に染め、文句の一つでも言ってやろうと玄関の扉を勢いよく開け放ちます。

 

 ですが、そこにいたのは四足歩行の獣ではありませんでした。

 

「夜分にお邪魔致しますよ」

 

 焚き火の煙のような匂いを纏い、猫背で立ち尽くす一人の老人。

 

 丸眼鏡の奥の瞳が、トタン屋根の隙間から漏れる月光を反射して怪しく光っています。

 

 そしてその老人の腕の中には、内臓を剥き出しにしたかのように赤く、奇怪な形状をしたエレキギターが抱えられていました。

 

「おめーさん……生きてたのか? 【変態ギタリスト】なんだろ?」

 

 テイチクの眉間に深い皺が刻まれます。

 

 かつて、楽壇という名の戦場で、己とは別の意味で異彩を放っていた男。

 

 直接言葉を交わす機会こそ少なかったですが、その、楽曲を発表する度に度肝を抜かれる斬新かつ異様な音作りは、嫌というほど記憶に残っています。

 

「ははは。懐かしい二つ名を。今は【ギター仙人】と号しておりますよ、テイチク殿。相変わらず、地を這うような良い低音を響かせておられる」

 

 その笑いに、自嘲の響きはありません。

 

 あまりにナチュラルで、ニュートラル。

 

 深い森そのものの化身が、季節の移ろいを語るような自然さでした。

 

 ギター仙人を名乗る男は、枯れ木のような指をギターの弦に滑らせます。

 

「きゅーん」

 

 鼻を鳴らす子犬のような甘えた音が仙人の指から生じ、夜の静寂に溶け出します。

 

「へん、相変わらず器用なこったな!」

 

 手鼻かみかみギター仙人と対峙するテイチク。

 

 仙人はすっとぼけた顔で、それでいてどこか優しげに微笑むと、懐から封書を取り出しました。

 

 金襴の刺繍が施された、場違いなほど豪華な招待状。

 

「夜会のお誘いにやって参りました」

 

 

──── ♬ ────

 

 

「今更だが、楽曲献上の謝礼を払わねばな」

 

 静謐な空気が流れる領主館、その謁見の間。

 

 現ビクター家当主、ゲッティングは手元の書類から顔を上げ、重厚感のある声でポメロにそう切り出しました。

 

 本来であれば、国王陛下への献上という大業を成し遂げた直後に執り行われるべき報奨の儀でありました。

 

 しかし『ノイジー・リセット』失敗での混乱、および義娘リノが醒めぬ眠りにつき、【六歌仙・歌唱】を引退せざるを得ないという政治的失態の収集に時間を取られ、支払いは先延ばしにされていたのです。

 

「度重なる不測の事態で、随分と待たせてしまった。だがポメロ、そなたの功績は一点の曇りもなく輝いている」

 

 領主の言葉に、ポメロは深く頭を下げました。

 

 かつての彼であれば、この場での報奨を、喉から手が出るほど欲していたでしょう。

 

 何より六歌仙の椅子を、その権威を、リノという名の少女に近づくための唯一の手段として渇望していたはずです。

 

 しかし、今の彼の心境は以前とは異なっていました。

 

 『届いて』。

 

 言語を排したラブソングにてリノを目覚めさせた功を以て、ポメロはなし崩し的にではありますがリノとの再会を果たし、直接彼女に面会する権利を手に入れていました。

 

 もはや会うための手段としての六歌仙就任に、焦りはありません。

 

(それでも、僕はあそこを目指す。彼女に会うためじゃなく、彼女の隣に相応しい自分であるために)

 

 平民と貴族。

 

 共に歩むためには身分と実権が必要。

 

 曲を書き、歌い奏でることにしか能の無いポメロに出来る立身とは、楽壇の最高位たる六歌仙を措いて他にはありませんでした。

 

 そんなポメロの決意をよそに、隣に座るリノは不思議そうに小さな首を傾げました。

 

「?」

 

 彼女の透明な瞳が、ポメロの横顔をじっと見つめます。

 

 【歌】は、確かにあの日、音に乗って彼女へ届きました。

 

 だから果て無き夢からリノは目覚めました。

 

 それは間違いありません。

 

 ですが、音に込められた【想い】を、彼女の幼い情動では理解できませんでした。

 

 恋慕や情愛といった感情が彼女の心に生まれ、育まれるには、まだ長い時間が必要なのでしょう。

 

 彼女の情緒がゆっくりと育つのを、冬の終わりを待つように気長に待つしかありません。

 

 ポメロはそんな待つ身の自分をすら、どこか可笑しくそれ故に愛おしく感じていました。

 

「さて。此度の功績、並大抵の報奨では釣り合うまい。金貨か、我がビクター家の御墨付きか、あるいは新たな工房か。そなたの望むものを言ってみよ。ビクター家の名に懸けて、可能な限り叶えてやろう」

 

 領主の問いかけに、ポメロは意識を現実へと戻しました。

 

 彼が望むものは、既に決まっています。

 

 己の立身出世でも、リノとの婚姻の許可でもありません。

 

「一つだけ、願えるのであれば。僕の師匠、テイチクの楽壇除名を解除して頂きたいのです。彼が持つ技術、および音楽への真摯な姿勢は、決して今の汚名のまま埋もれさせて良いものではありません。どうか、師の名誉を回復させては頂けないでしょうか」

 

 広間に、凍りついたような静寂が走りました。

 

 周囲に控える役人たちは、耳を疑いました。

 

 国王への献上という一生に一度の功労を、世間から忘れ去られた過去の幽霊のために使うというのでしょうか。

 

「……テイチク、だと」

 

 ゲッティングが、微かに眉を寄せて記憶を辿ります。

 

 彼が知るその名は、楽壇の古い記録に残る不敬の象徴でしかありません。

 

 先々代の領主の御前で、六歌仙の金看板を投げ捨て、豪快に手鼻をかんで去ったという無礼千万な男。

 

 ゲッティングがまだ赤子だった頃の、もはや伝説に近い悪名の主です。

 

 今やその男がどこで何をしていようと、現領主であるゲッティングには関心のない話でした。

 

 ですが、その過去の遺物の薫陶を受けたのが、公私に渡りビクター家に大きな恩を売ったこの若者なのであれば、願いを叶えるのに否やはありません。

 

 精々、先々代の頑迷だった当主の評判が一枚落ちる程度のこと。

 

「よかろう。先々代の時代に起きた不実、もはや私には預かり知らぬことだ。そなたがそこまで言うのであれば、その男への──」

 

 受諾の言葉が紡がれようとした、その刹那。

 

 ベベンッ!

 

 乾いた三弦の音が、冷徹に空気を弾きました。

 

 ゲッティングは、はっとして言葉を飲み込みました。

 

 音の主──背後に控えるハルモニアに視線を向けます。

 

 彼女の乾いた唇は結ばれたままですが、その瞳には、主君の軽率な判断を諫める鋭い光が宿っていました。

 

 ゲッティングにハルモニアの制止の意味は分かりません。

 

 ですが諜報員としての彼女の能力や情報には信頼を置いています。

 

 故に。

 

 「……ふん。一度は楽壇の看板を投げ捨てた男だ。ただ処遇を戻すだけというわけにもいくまい。明日、そのテイチク殿を連れて再びここへ参れ。名誉の回復はここに約そう。だが、楽壇に相応しい男かどうかは、私自らが見分してやる」

 

 ゲッティングの返答は、前向きな保留。

 

 ポメロの顔に一瞬、落胆の表情が浮かびましたが、彼は何も言わずに目を伏せました。

 

 ハルモニアは、主が自身の意図を汲み取り、決定を保留にしたことを確認すると、感情の籠もらない動作で三弦を引きました。

 

 ベン。

 

 「では、下がれ」

 

 ポメロは再び深く頭を下げ、謁見の間を後にしました。



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