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トルバドーれ!  作者: 袴田八峰
第三十八席「届いて」

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118/124

五席

 

 朝もやが白く煙る、奏鳴荘ソナタ・ハウスのベランダ。

 

 リノの心の最深部に残された、暖かな記憶の箱庭でした。

 

 リノは冷たいパラペットに顎を乗せ、ずーっと待っていました。

 

 一人は淋しいから嫌いなのに、ここで待っていれば誰かが帰ってくると思ったのに、ずっと、誰も、戻ってきてくれません。

 

(みんな、どこにいったのかな……?)

 

 かつてここにあった賑やかな笑い声も、お茶の香りも、今はもやの向こう側に吸い込まれてしまったかのようです。

 

 リノは、玄関へと続く石畳の道をぼーっと眺めていました。

 

 もしもこの道の先から、誰かが帰ってきてくれたなら。

 

 そう願う心さえ、静寂に塗り潰されそうになっていた、その時でした。

 

 静寂を切り裂いて最初に届いたのは、肺を焼くような荒く激しい呼吸音。

 

 タッタッタッ、という軽快な、けれどなりふり構わぬ必死な走行音。

 

 リノははっとなり、身を乗り出すように顔を上げました。

 

 次に見えたのは、待ち人の姿。

 

 ボロボロになりながら、それでも光を追いかけるように駆けてきたポメロが、道の向こう側に立ち止まりました。

 

 ポメロは肩で息をしながら、真っすぐに、ベランダにいるリノを見つめました。


 彼と初めて出会ったときと同じ構図。

 

 けれど、リノは少しだけ、不思議に思いました。

 

 再会したポメロが、すごく複雑な顔をしていたからです。

 

 今まで見たこともないような、ひどく入り組んだ目線。

 

 慈しみ、苦しみ、願い、そして迷い。

 

 そんな多くの色彩が混ざり合った瞳で自分を見てくる彼に、リノは戸惑いました。

 

 ――待っててくれたんだね――


 ポメロは言葉ではなく、気持ちをリノに向けてきました。


 それはリノにとってとても嬉しいこと。

 

 でもリノは、すこしがっかりしました。

 

 リノがポメロに懐いているのは、ポメロが「わかりやすいから」です。

 

 嬉しいときは太陽のように笑うし、悲しいときは子供みたいに泣くし、お昼寝したいときはお昼寝するし、歌いたいときは魂のままに歌う。

 

 鏡のように透明で、嘘のないポメロ。

 

 それがリノの知っている彼だったのに、今のポメロはまるで、リノを遠ざけてきた大人たちの世界のように、何層もの隠し事を抱えているように見えました。

 

 けれど、ポメロは逃げませんでした。

 

 ――リノ、聞いて。僕の歌を。――

 

 彼は震える手でギターを抱え直し、もやの向こうから、今にも泣き出しそうな、それでいて揺るぎない声で叫びました。



 ──『届いて』。──



 ポメロが奏で始めたのは、歌詞のない、剥き出しの旋律でした

 。

 リノが最初に感じたのは、戸惑いにも似た違和感でした。

 

 伝わってくる感覚のベースは、あの日二人で微睡んだ、あのシーツのような優しい三拍子の歌。

 

 けれど、その音の一粒一粒に、今まで知らなかった未知の熱いものがまとわりついているのです。

 

 ポメロの喉から溢れ出す熱いスキャット。

 

 柔らかなハミング。

 

 それは言葉としての意味を持たないはずなのに、リノの心には、色鮮やかな情動として直接流れ込んできました。

 

 ぽかぽか。──(愛してる)。

 

 ふわふわ。──(離したくない)。

 

 いっしょにお昼寝。──(ずっと隣にいたい)。

 

 リノは、幼い情緒を懸命に動かしました。

 

 目の前のポメロは、これまでにないほど必死でした。

 

 複雑で、入り組んでいて、それでも伝えたい。

 

 この未知の熱いものを自分に届けようと、心臓を叩き割らんばかりの勢いで、音に魂を乗せています。

 

(……あ)

 

 リノは気づきました。

 

 それは隠し事ではなく、ポメロがリノを想うがゆえに抱えた、一生懸命な【重さ】なのだと。

 

 それを分かってあげたい。

 

 ポメロがこんなに必死に伝えている何かを、私も分かりたい。

 

 その願いが生まれた瞬間、リノの心の奥底で、固く止まっていた何かが、カチリと音を立てて動き出しました。

 

 それは熱くて、強くて……言葉にはできないけれど、きっと、世界で一番大事な何か。

 

 ――……っ――

 

 リノはベランダの柵を強く握りしめました。

 

 頬を伝い、溢れ出した涙を拭いもせず、彼女は震える喉を、外界に向けて解き放ちました。

 

 かつての六歌仙としての、非の打ち所がない完璧な歌唱ではありません。

 

 ただ、一人の少女として、目の前の少年の熱に応えるための、精いっぱいの意志。

 

 彼女は、心の底からポメロに伝えました。

 

 喉を震わせ、短いフレーズにすべての想いをのせて。



 ♪── おかえり。



 奇跡のように零れ落ちた、その一小節。

 

 それは、ポメロが抱えていた複雑な恋心への、情緒的な正解ではなかったかもしれません。

 

 けれど、二人の間に流れる言葉ならぬ言葉が、ついに一つの場所へたどり着いた瞬間でした。

 

 もやが晴れていきます。

 

 ポメロのギターが、最後の一音を優しく、慈しむように響かせました。

 

 冬の朝焼けが、リノの涙とポメロの笑顔を、等しく金色に染め上げていきました。

 

 

──── ♬ ────

 

 

 ゲッティングが王都の長期滞在貴族へと貸し出しているタウンハウス。

 

 主のいないその建物の冷え冷えとした玄関ホールには、二十余名の市民が集められていました。


 職業も年齢も、一見して共通点は見出せません。

 

 ですが、その場に漂う空気は異様でした。

 

 誰もが土気色に痩せ、顔色が悪い。

 

 小刻みに震えている者、脂汗が止まらぬ者、そして必死に動悸を抑えようと胸を押さえる者。

 

 彼らはある一つの事件の被害者でした。


 【クレオパトラの惨劇】。


 かつて正義感に燃える新聞記者に追い詰められたリノが、恐怖のあまり「恐怖の歌」を撒き散らし、周囲を狂乱に陥れたあの事件。

 

 彼女はあの時、確かに被害者であったが、同時に取り返しのつかない加害者でもあったのです。

 

 その贖罪に挑み、失敗し、彼らに更なる心痛を与えてしまい。

 

 結果、リノは内にこもり、目覚めぬ眠りにつきました。

 

 ですが、彼女は再び起きました。

 

 今日この場所で、再び挑みます。

 

 彼女はもう怯えすくむことはありません。

 

 失敗することすらありません。

 

 今の彼女の周りには、だいじなひとたちがたくさんいます。

 

 奏鳴荘のみんな、ビクターという新しい家族、マンモスおじいちゃん、ハルモニア姉さん。

 

 みんないます。


 最初のおともだちで、特別なおともだちも。

 

「……リノ」

 

 ポメロが静かに名を呼びました。

 

 リノは力強く頷きます。

 

 背中を押してくれる皆の視線が、今の彼女には何よりの守護となります。

 

 既に前座として披露された『ねこねここねこ』と『このまちだいすき!』によって、被害者たちの心は穏やかに凪いでいました。

 

 刺々しかった空気は霧散し、場には柔らかな光が満ちています。

 

 そして、今。

 

「さあさ皆さまお待たせしました! あなたがたの為だけの新曲。『ノイジー・リセット』。お聞きください。……少々耳障りですけどね」

 

 ハルモニアが不敵に微笑み、三味線を力強く振り下ろしました。

 

 ベベン!

 

 鋭い音色が場を引き締めました。

 

 ねこかわいくてこのまちだいすきになっている被害者の面々に、もはや不安は一切ありません。

 

 そこに、響きました。


 ♪―― ■■■■■、■■■!

 

 金属を引っ掻いたような耳障りな歌声!

 

 ガラスを叩き割ったような癇に障る歌声!

 

 あえて意味を解さぬ言葉を用いて、喉を潰さんばかりに放った衝撃波!

 

 言葉自体には、実はたいした意味はありません。

 

 大事なのはリノのノイジーな肉声でメロディーを歌うという行為そのもの。

 

 かつて彼女が植え付けた恐怖という名のデバフも、先ほど施した多幸感という名のバフも、その強烈な音圧の前に等しく霧散していきます。

 

 リノの歌の影響が、この瞬間、オールリセットされることになったのです。

 

「うっそだろ、おい。怖くない、怖くないぞ!」

 

「もう私の背後にはなにもいないのね? ああ、体が軽い……!」

 

「恐ろしい夢を見てたぜ……」

 

「……やっぱり俺は犬派だな。ねこかわいいなんて勘違いだったんだ」

 

 強制的な感情の操作から解き放たれ、人々は本来の自分自身を取り戻していきます。

 

 ホールに、割れんばかりの拍手が巻き起こります。

 

 見守る「たいせつなひとたち」からの、最大級の賛辞。

 

 リノは、頬を赤らめて恥ずかしそうに笑いました。

 

 そして、真っ直ぐに歩み寄ると、ポメロの正面でその小さな頭を差し出します。

 

(なでて。がんばったでしょ?)

 

 声にならぬ甘やかな要求に、ポメロは堪えきれず吹き出して。

 

 優しく、慈しむようにその髪を撫でました。



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