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トルバドーれ!  作者: 袴田八峰
第三十八席「届いて」

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117/124

四席

 

 真っ暗な闇の中で、ポメロは目覚めました。

 

 視界を塞ぐ重い闇。

 

 けれど、体を覆う布団の感触は、いつの間にか馴染んでしまった領主館の客室のものでした。

 

「ん゛、ん゛~~……」

 

 喉を鳴らしてみます。

 

 焼けるような痛みは引き、幾分か回復していました。

 

 周囲には誰もいません。

 

 ドリー婆さんの心配そうな顔も、ハルモニアの静かな気配も、仲間たちの喧騒も、今はどこにもありませんでした。

 

 ただ、死のように深い静寂が部屋を支配しています。

 

「リノ゛……」

 

 掠れた声でその名を呼びます。

 

 ポメロは這い出すようにベッドを抜け出すと、吸い寄せられるように総漆塗りのアコースティックギターを背負いました。

 

 足取りはまだ覚束ないものでした。

 

 しかし心臓の奥でくすぶる火種が、彼を動かさずにはいられませんでした。

 

 夜の静寂を縫って、ポメロはリノの寝室へと向かいます。

 

 重い扉を押し開けた先、変わらぬリノが、変わらず眠っていました。

 

 枕元に置かれたランタンが、少女の横顔をほの白く照らし出しています。

 

 茨姫か、あるいは白雪姫か。

 

 横たわる彼女の顔色は決して良くはありませんが、頬が痩せこけていないのは、医者たちが懸命に繋ぎ止めてくれている証でしょう。

 

 ポメロはリノの顔を見つめながら、椅子に腰を下ろしました。

 

 これまでの日々を、最初から。挑戦を始めたあの日と同じように、順を追って思い返していきます。

 

 ベランダでの、あの唐突な出会い。

 

 言葉も通じないのに心を通わせた、仲良しの象徴のダンス。

 

 奏鳴荘の仲間たちに温かく迎えられた、あの歓迎会の夜。

 

 意気揚々と初めての歌を披露し、都会の壁の高さを思い知らされた、苦い記憶。

 

 プレッシャーに押し潰され、ギターが握れなくなったあの日──。

 

 ふと、思考の海に小さな波紋が広がりました。

 

(……何かが、おかしい)

 

 今思い出すと顔から火が出るほど赤面物の、デビュー作『おのぼりさん、北へ』。

 

 音楽的には稚拙で、洗練とは程遠かったあの曲。

 

 他の住人達が評価をためらうほどの不出来物。


 それをリノは何故、終始にこにこしながら聴いていたのでしょう?


 あんなに歌の上手なリノが。


(それだけじゃない)

 

 『ヤダ!』を必死に作っていた時。

 

 リノが怯えていたのだと、あとからドリーに聞きました。

 

 ポメロが歌を歌っていない時間……

 

 ただ苦悩し、沈黙していた時間すら、近づかなかったと?

 

 違和感。

 

 そして、震えるような直感。

 

(探れ)

 

 ポメロは自らの魂に命じました。

 

 お前はずっと、楽曲を紡ぐ時に探ってきたはずだ。

 熱情の正体を。

 ブルーズの水たまりの深さを。

 

 ――他者の心の奥底を。

 

(そうだ)

 

 他者の気持ちを想い抜き。

 観察し抜き。

 聞き取り抜いて。

 

 その魂の形を浮き彫りにしてきたのが自分ではないか。

 

 『目を閉じて私を見て』──あの深海の歌姫が、実は途方に暮れて立ち尽くす一人の少女だったことを見抜いた。

 

 『僕が愛されないなんて許されるわけがない』──お利口な貴族の少年が、自分にわかる形で愛してほしいと親に叫んでいたその渇望を暴いた。

 

 『葬送歌』──あのサイレンが「過去」という重荷を下ろした一瞬の安堵を、見逃さなかった。

 

 劇中の端役、リンフォとプレッシの空白の旅路だって、ポメロは思い描くことができました。

 

(僕が、リノを……)

 

 リノの本当の気持ちを。

 彼女の魂が描く、真実の形を。

 

 探れないわけがない。

 見通せぬわけがない。

 

 ポメロの瞳に、過労の影を焼き払うような鋭い光が宿ります。

 

「見てろよ、リノ。……必ず、暴いてやる」

 

 暗闇の中で、作曲家としてのポメロが、かつてない集中力で少女の深淵へと手を伸ばしました。

 

 

──── ♬ ────

 

 

 ポメロは、暗闇の中で一点を見つめていました。

 

 脳内では、リノとの出会いから今日までの記憶が、まるで巨大な五線譜の上に並べ替えられるように再構築されていきます。

 

 なぜ、彼女は僕の歌を選んだのか。

 

 なぜ、王都の最高峰の歌い手たちが揃うビクター家でも、彼女は目を覚まさないのか。

 

 その思考の連鎖が、一つの答えを導き出した。

 

 リノが拙い歌でも楽しんでいたのは、ポメロが楽しい歌、嬉しい歌、心地よい歌を歌っていた時でした。

  

 出会いの路地で、拙いながらもこんにちわと願った時。


 冷え切った食堂で、みんなに笑われるためにうっかり者になり切った時。


 肩に力が入ってたドリーさんを労うべく奏でたティーブレイクの時。


 二番舞台のロージェで新作フォークダンスを披露した時。

 

 リノはポメロに引っ付いていました。

 

 反面、エレクトラさんの歌がいかに透明感溢れようとも。


 伝統派の歌い手がどれほど完璧に喉を震わせようと。


 ネオが街中にその不遜セクシーなボイスを響かせようと。


 リノは無関心でした。


 上手下手では判断しないのです。

 

 リノは上手すぎて、自分以外は誰の歌を聞いてもどんぐりの背比べ。

 

 技術の多寡を競う世界において、彼女だけが隔絶された場所にいる、孤高の歌い手。

 

 これらからポメロはリノは歌に乗った人の心が読めるのではないかと推測しました。

 

(心が、読める……?)

 

 発見が、静寂に波紋を広げます。

 

 しかし、その言葉にすら違和感を感じるポメロ。

 

 「読める」。

 

 (──そうか?)

 

 リノは喋れない。

 

 あの子の歌はいつだってイメージだけ。

 

 歌が言葉の形を伴って伝わってきたことはない。

 

 もし読めるということが、僕たちが本を読むように記号を解釈することだとしたら、それは決定的に違うはずだ。

 

 リノは、言葉という体系を介して世界を理解していないのではないか?

 

 もしかして。

 

 歌についている言葉(歌詞)は、リノにとってはノイズなのでは?

 

 ポメロは背筋が凍るような戦慄を覚えました。

 

 これまで誰もが感動的な歌詞や救いの言葉を旋律に乗せて彼女にぶつけてきました。

 

 だが、それがすべて障害となっていたのだとしたら?

 

 ハートトゥハートな交流しかしていないリノにとって、言葉とはすんなり心に届くものではないのでしょう。

 

 おそらくは、聞き取り、読み取り、意味を咀嚼して、イメージ化処理を施さないと理解できないのではないでしょうか? 

 

 今、眠りについているリノの頭の中では、そんな高度な処理はできないのではないでしょうか?

 

 言葉が持つ意味、文脈、裏に潜む皮肉やダブルミーニング。

 

 それらすべてを【翻訳】しなければならないとしたら、歌を聴くという行為は、彼女にとって喜びではなく、果てしない重労働に成り下がってしまいます。

 

 ましてや情緒が幼い彼女のこと。

 

 把握しきれぬ大人の複雑な感情が入り混じってしまえば、きっとあの子では処理しきれません。

 

  意味を理解しようとするたびに、彼女の魂は疲弊し、情報の荒波に飲まれていったのではないでしょうか。

 

 ビクター家の人々が捧げた愛の言葉さえ、彼女にとっては、解析しきれない濁流のようなデータの塊だったのかもしれません。

 

 「愛している」という言葉に含まれる、家族としての義務、失うことへの恐怖、救えないことへの絶望。

 

 そうした付随する意味のすべてが、純粋な音の輝きを覆い隠すノイズとなって、彼女の心の耳を塞がせてしまったのだとしたら。

 

 合っているかもしれません。

 勘違いかもしれません。

 

 これまでのポメロなら、確証が持てないまま踏み出すことを躊躇しただろう。だが、今の彼には、一週間の地獄を潜り抜けてなお消えない確信がありました。

 

 でもこのアプローチをした者は他にいないはずです。

 

 ビクター家の人間も、王室の楽師も、その自分自身も。

 

 言葉の力に頼りすぎていました。

 

 理屈で救おうとし、意味で連れ戻そうとし、結果として彼女をさらに深い沈黙の殻へと追いやってしまったのです。

 

 『貴様の歌は頭を使わなくても心に届く』

 

 アンドレック様の分析は既に核心を掠めていたものでした。

 

 リノが求めているのは、定義された愛の言葉ではありません。

 

 ただ、そこに在るだけの、嘘のない魂の振動です。


 たぶんそうだと。

 

 そんな気がすると。


 まずはそれで行っちゃえと!

 

 ポメロは、背中のアコースティックギターを静かに抱え直しました。

 

 心を込めて歌おう。

 言語外の。

 

 リノがいつもやっているような。

 スキャットとハミングだけで。

 

 意味を剥ぎ取り、論理を捨て去る。

 

 言葉という文明の道具をすべて手放し、ただ「君に会いたい」という震えだけを音の粒子に乗せます。

 

 ポメロの指が、弦に触れました。

 

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