三席
次に目を覚ました時、視界に飛び込んできたのは見慣れぬ高い天井と、柔らかな陽光を透かす豪奢なカーテンでした。
「……お目覚めですか、ポメロ君」
枕元には、彫像のように動かず控えていたハルモニアの姿がありました。
ポメロは跳ね起きようとしましたが、鉛のように重い体がそれを拒絶します。
視界がぐらりと揺れる中、彼は縋り付くような声で、喉の奥から絞り出しました。
「……リノ、は……?」
ハルモニアは何も言わず、ただ静かに、左右に首を振りました。
「嘘だ……」
心臓を冷たい手で握りつぶされたような衝撃が走ります。
通じると思っていました。
自分の歌なら。
あの【アンサーソング】なら。
リノを連れ戻せると信じて疑っていませんでした。
自分と彼女の間には、理屈を超えた特別な繋がりがあるのだと。
運命が、僕らを再び引き合わせ、奇跡を起こさせてくれるのだと。
無意識のうちに己を神格化していたのです。
物語の主人公が自分で、ヒロインがリノで。
ここがドラマのクライマックスなのだと。
「なんでだよ……! なんで起きないんだ!」
やり場のない激情が、手前勝手な八つ当たりとなってハルモニアにぶつけられました。
「僕には音楽しかないんだ! その全てを注ぎ込んだんだぞ! 一曲残らず、心を込めて……あいつの好きな歌を、あいつが喜ぶ音を全部出したんだ! リノは歌が大好きだったじゃないか! なのに、なんで……!」
こみ上げる涙で視界が歪みます。
ハルモニアは反論せず、ただその悲しげな眉根をさらに深く歪ませて、消え入るような声で告げました。
「……私も、同じ無力感を覚えました。……ビクター家の皆様も、です。彼らは一ヶ月以上、あらゆる手を尽くし、工夫し、神に祈り、時に喉を枯らして泣き叫び……そして、砕け散ったのです」
ポメロは絶句しました。
自分は、たった一晩。
たった一度の全霊で、リノを救えると思い上がっていました。
ビクター家の人々が、血を吐くような思いで過ごしてきた絶望の月日。
その積み重ねを、自分の特別な絆という安っぽい自信で塗り替えられるなどと信じていた己の浅ましさを突き付けられました。
「僕は……たった一日、だけだったのか……」
情けなさに歯を食いしばります。
けれど、その悔しさは、絶望の淵で小さな、しかし消えない火種となりました。
「まだだ。まだ諦めない。……諦めてたまるもんか!」
──── ♬ ────
──それから、地獄のような日々が始まりました。
ポメロは食事もそこそこに、リノの枕元に座り続けました。
指先が割れ、弦が血で赤く染まっても、漆塗りのアコギを離しませんでした。
声が掠れ、一節歌うごとに肺が焼けるような痛みに襲われても、白地に黄色のエレキギターを鳴らし続けました。
かつて自分が拾い集めた想いを、今度は一滴残らずリノに注ぎ込みます。
夜が明け、月が昇り、再び朝が来ます。
その繰り返しの中で、ポメロの意識は次第に摩耗してゆきました。
肉体と頭脳は疲労してゆきました。
一週間後。
朝の光が差し込む寝室で、力なく弦を弾こうとしたポメロの手から、ピックが滑り落ちました。
「……リノ……聴いてる、か……」
返事はありません。
ポメロの体は糸の切れた人形のように、ゆっくりと冷たい床へと崩れ落ちました。
極度の過労。
限界をとうに超えていた少年の意識は、深い闇の底へと沈んでいきました。
──── ♬ ────
重い瞼を押し上げると、そこは領主館に用意された、あの見慣れた客室のベッドの上でした。
視界が白く霞む中、最初に飛び込んできたのは、ひどく憔悴した顔で自分を覗き込むドリーの顔でした。
「大丈夫かい!?」
ドリーの震える声が鼓膜を打ちます。
ポメロは心配をかけたくなくて、大丈夫、と声をかけようとしました。
けれど、喉の奥が焼け付いたように熱く、いくら力を込めてもまともな言葉になりません。
「……ょ……」
出たのは、正体不明の掠れた音だけでした。
喉が完全に潰れていました。
「…ぃ…ぅ……」
大丈夫だと言おうとします。
笑って見せて、ドリーさんを安心させなくてはなりません。
そう思うのに、唇はただ虚しく動くばかりで、音を紡ぐ術を失っていました。
「もういい、もういいんだよ」
ドリーさんが、震える腕でポメロの体を抱きしめます。
温もりが、今のポメロの心には耐え難いほど締め付けてきます。
ドリーの後ろには、腕を組んで不機嫌そうな顔をしたエピタフが立っていました。
「貴様に必要なのは休息だ。しっかり寝ておけ」
いつもの厳しい声でした。
けれどその奥には、結論を出し終えた諦めが混じっていました。
エレクトラも、悲しげな微笑みを浮かべて枕元に寄り添います。
「ポメロくんはずっと走り続けてきたのだもの。少しだけお休みしましょう?」
休息を促す言葉でした。
かつてリノを大丈夫だと笑って見送った時と同じ、優しくて残酷な響きを帯びていました。
その時、壁越しに地震のような重低音が響いてきました。
マンモスのバス。
彼が今、リノの寝室で歌っているのだと悟ります。
「ひとまず試せることはなんでも試そうってなってな。まあバトンタッチだ、お疲れちゃん」
デッカの労りは、あきらめを促す言葉でした。
ポメロが届かなかったのだから、次は他の誰かがやる。
だからお前はもう降りろ。
そういう、無言の宣告でした。
さらに、部屋の隅にはフォルテの姿もありました。
「わたくしの方でも選りすぐりのお医者様を用意いたしましたわ! 金ならある! おかわりもいいぞ!」
彼女は彼女なりに、次を見ている言葉を投げかけます。
けれどその未来の絵図に、ポメロが望む奇跡の形は見当たりませんでした。
「あんたは頑張った。本当にすべてを絞りつくして。……奏鳴荘の誇りだよ」
ドリーが言いました。
セコンドが投げ入れたタオルでした。
「……、ゃれぁす」
奏鳴荘の温かい仲間たち。
彼らは今だって温かいです。
冬の日の暖炉のように、慈愛に満ちた温かいまなざしで僕を見ています。
そして、その優しさで僕を包み込み、引きずり戻そうとしています。
「寝てろって」
「…ぁ! ゃ……ぅ!」
取り込もうとしているのです。
リノを、あの沈黙の底に取り残したまま、彼女を切り捨てて!
(違う……そんなの、ダメだ!)
ポメロは叫ぶために、無理やり体を起こそうとしました。
「急に起きるんじゃないよ!」
ドリーが慌てて抱きとめようとします。
しかし、ポメロは上半身を維持することさえできず、糸が切れたように再びベッドへ倒れ込みました。
「こふっ、こふっ」
力弱い咳が漏れます。
それと同時に、喉に痙攣が襲いかかりました。
「!!」
「こふっ、こふっ、こふっ、こふっ!」
「医者を呼んで来い! フォルテが連れてきたのがいただろ!」
エピタフの怒号が飛びます。
「こふっ、こふっ」
「ポメロ、しっかりして!」
タンが絡んで呼吸ができません。
肺が酸素を拒絶し、目の前がチカチカと明滅します。
「こふっ、こふっ」
「貴様、その呼吸は……デッカさん、力を貸してくれ、一旦ポメロの体制を変えて、気道を確保する!」
「おう!」
デッカの腕がポメロの体を支え、無理やり向きを変えさせます。
視界が激しく回転し、周囲の喧騒が遠のいていきました。
(リノ……リノ……)
誰の名を呼ぶこともできぬまま、ポメロの意識は再び深い闇の底へと溶けていきました。
次に目覚めたのは、それから四日後のことでした。
失われた時間はあまりに重く、残酷でした。
リノは、まだ目覚めていません。
──── ♬ ────




