二席
「……ポメロ。夕食の用意ができた。父上がお呼びだ。来い」
ドリーを抱えたハルモニアと入れ替わるように現れたのは、アンドレックでした。
かつてポメロの背中で「父上がおんぶをしてくれない」と泣き言を漏らした少年は、今や見事な正装に身を包み、これ以上ないほど偉そうに顎をしゃくってみせました。
ポメロは短く応じ、その小さな背を追いました。
案内された食堂には、目も眩むような銀食器とシャンデリアの光がありましたが、そこに流れる空気は通夜のように冷え切っていました。
「……座るがいい。奏鳴荘の少年よ」
上座に座る領主ゲッティング・ビクターは、かつての鋼の威厳を失い、深く刻まれた眉間の皺に後悔を滲ませていました。
「……私の失策だった。リノを救いたいという一心で、私はあの子に、最も残酷な毒を食らわせてしまった。領主として、そして父として……私は、あの子に合わせる顔がない」
領主自らが平民の少年を前にして父としての後悔を口にする。
その屈辱を凌駕するほどの絶望が、彼の肩を重く沈ませていました。
「あなたに、何ができるというの……?」
隣に座る夫人コネクトーンが、虚ろな瞳でポメロを眺めました。
その表情は、愛する娘を自らの手で壊してしまった母親の、救いのない憔悴に満ちています。
「血の滲むような想いで愛を注いできた私たちでも、あの子を起こせなかった。お前などに、奇跡が起こせるものですか。もう、放っておいて。あの子を、これ以上傷つけないで……」
絶望に染まった母君の言葉が、食堂に冷たく響きます。
沈黙が食卓を支配しました。
その静寂を、カチャリと不遜な音を立ててフォークを置いたアンドレックが切り裂きました。
「お前などにですか? 母上、失礼ですよ。こいつは僕が特別に『ポメロ』と直で呼ぶ栄誉を与えた男だ。国王様に捧げた歌の評判、我ら家族の鎹となった歌。その奇跡を産んだのは、この男です」
アンドレックはゲッティングとコネクトーンを冷徹な一瞥で射抜くと、不敵に鼻を鳴らし、ポメロに向き直りました。
「僕がお前のライブを最も評価していた理由を覚えているか、ポメロ? お前の曲は、一番頭を使わずに聴けるからだ。難しい理屈も、高貴な教養も必要ない。ただ耳に飛び込み、心に突き刺さる。……だからこそ、今の姉様にはお前が必要なのだ」
アンドレックはそう言い放つと、少しだけ瞳の温度を和らげ、リノと過ごした日々のことをポメロに語り始めました。
「リノ姉さんはな、この家でいつも笑っていたよ。……不器用なお茶を淹れてくれたり、僕の勉強を横で応援してくれたり。たまにむくれてそっぽを向いたり、嬉しいと足をぱたぱたさせたりな…… 父上も母上も、姉様を本当に愛していた。僕たちは、本当の家族になろうとしていたんだ」
そして命じます。
「ポメロ、お前は公園で、僕の零した想いを【拾う】と言った。形も重さも持たない想いという概念など拾えぬと機械的に答えた僕の予想を越えて、お前は本当に想いを拾い集めてみせたな。次は姉様の番だ。姉様がこぼしてしまった想いを、お前が拾ってみせろ。これは命令だ」
アンドレックの傲慢な鼓舞。
その裏にある、義姉への純粋な親愛。
ポメロは、自分が心のどこかで抱いていた「リノは不幸な生活を強いられていた」という偏見が、恥ずかしさとなって消えていくのを感じました。
リノは、この家でも愛されていました。
領主を敵として憎むことで、自分を正当化しようとしていた幼い正義感は、今この晩餐で砕け散りました。
「……畏まりました、アンドレック様」
ポメロは静かに席を立ちました。
ゲッティングの悔恨も、夫人の絶望も、アンドレックの信頼も。
すべてがリノを想うがゆえの顕れでした。
「ゲッティング様。コネクトーン様。……僕は、リノを連れ出しに来たんじゃない。皆さんが愛したリノを、もう一度、みんなの元へ呼び戻しに来たんだ」
ポメロは、背負った「高齢童貞」のケースのバンドを強く握りしめます。
家族の想いを背負い、少年は再び、あの沈黙の寝室へと向かいました。
──── ♬ ────
再び戻った寝室は、先ほどよりも一層静まり返っているように感じられました。
ポメロは、横たわるリノの枕元に腰を下ろしました。
白磁のようなその頬を見つめていると、出会ってからの数々の光景が、まるで昨日のことのように脳裏を駆け抜けていきます。
ポメロは、背負っていた総漆塗りのアコースティックギターを静かに膝に置きました。
「……リノ。覚えてる? 僕がカーネギーに来て、初めて歌ったあの曲のこと」
ポメロの指が、優しく弦を爪弾きます。
『おのぼりさん、北へ』。
故郷を捨てて飛び出してきた少年の、虚勢と期待が混ざり合った拙い歌。
「あの頃の僕は、自分でも何を歌いたいのか分かってなかった。誰も感想すら言ってくれなくて……みんな気を遣って、そそくさと部屋を出ていくのが、たまらなくいたたまれなかったんだよ。……でもさ、君だけは、あんな歌を本当に喜んで聴いてくれたよね」
ポメロは、苦笑混じりにメロディを紡ぎます。
「『ヤダ!』は……あはは、君、本当に嫌がってたな。前奏が聞こえた途端に、ぴゅーって逃げてさ。あんなに分かりやすく拒絶されたのは、後にも先ほどにも君だけだよ」
語りかける声は、どこまでも穏やかでした。
「『ムカつくあいつの歌』なんてどうだい? ABパートだとにぎぎーって眉根を寄せるのに、Cパートに入ると急にニコニコしだして.……知ってるか、リノ。僕、今、あの『ムカつくあいつ』と同じ師匠に学んで、共同作曲とかしてるんだよ? 相変わらず喧嘩ばっかりだけどさ」
ポメロは、リノの小さな手に触れました。
ピクリとも動かないその指先に、自分のこれまでの歩みを染み込ませるように言葉を重ねます。
「『ここらで一杯、茶が欲しい』……君が一番好きなのは、これかな。いつも美味しくもないお茶を淹れてくれて、本当にありがとう。……『恋とか恋とかそんなのばっか』を初めて聴かせた時は、きょとんとしてたよね。業界への批判なんて、君には難しすぎたかな。……でも、そんな世俗に囚われずに、ふわふわと生きてきた君だから、僕は救われていたんだ」
ポメロは一度、ギターを置きました。
もう一本の相棒──稲妻を模した白地に黄色のエレキギターを手に取ります。
アンプを通さない生音の、剥き出しの響き。
「『俺で塗れ!』……これは、君にはまだ聴かせてなかったね。野心とか、欲望とか、君が嫌いそうなものばっかり詰め込んだ歌だ。……でもさ、僕、本当は根っこの部分で、こんなこと考えてたんだ」
ポメロの瞳に、熱いものがこみ上げます。
「あれからね……リノがいなくなってからも、僕はたくさん曲を作ったよ。今やランキングの常連だし、この前は王様に曲を献上したりしたんだ。……すごいだろ? 褒めてくれよ、リノ」
そこから、ポメロは持てる限りの歌を捧げました。
リノに聴かせたことのない最新曲。
未完成の習作。
仲間に提供した旋律。
世間を沸かせた渾身の一作。
喉が枯れ果てるほどに、言葉を紡ぎ続けました。
指先の感覚が無くなるほどに、ギターを奏で続けました。
けれど、リノは目覚めません。
睫毛すら震わせず、ただ穏やかな死のように沈黙を守り続けています。
「…………」
ポメロは、再び漆塗りのアコースティックギターに持ち替えました。
最後に残った、たった一曲。
「……前にこの歌を歌った時も、君は眠っていたね。あの時の僕は、まだ自分の気持ちに気づいてなくて、この歌もちゃんと気持ちを込めて歌えなかったけど」
ポメロはゆっくりと、リノとの記憶をなぞるように弦を弾き始めました。
それは、彼女の『おひるねがしたいうた』と同じメロディ。
陽だまりのような温もりを持つ、ゆるやかな三拍子。
「今度は最初から、僕の全部を込めて歌うから。……聴いてくれる?」
『あなたとお昼寝がしたい』。
気負うことのない、ただ優しく語りかけるような歌声。
♪── ほんとうにあなたは、こねこみたいだね。
眠りの魔法を解こうとする焦りも、自分を誇示する野心もありません。
♪── 疲れたらすぐにおやすみをして。
ただ、かつての奏鳴荘のベランダで、二人が並んで微睡んでいたあの時間を、もう一度だけ取り戻したいという、静かで真っ直ぐなアンサーソング。
♪── あなたの寝顔を見ているだけで、僕は幸せな気分になれる。
リノのメロディに、ポメロの純粋な会いたいという言葉が、パズルのピースのようにぴたりとはまっていきます。
♪── あなたとお昼寝がしたい。
ポメロは、最後の一節をそっと囁くように歌い終えました。
(一緒にお昼寝を始める為に、今は目覚めて!)
静寂が、部屋を支配します。
リノは、目覚めませんでした。
──── ♬ ────




