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トルバドーれ!  作者: 袴田八峰
第三十八席「届いて」

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114/119

一席

 最近、噂を聞かないなとは思っていました。

 

 ライブもしばらく行っていないとは聞いていました。

 

 ですが、まさか。

 

 『六歌仙・リノ、陥落』

 

 その衝撃的なニュースは、音楽の都カーネギーの隅々にまで行き渡っていました。

 

 かつてリノが身を寄せていた奏鳴荘の住人たちも、その報せを耳にしていました。

 

 ですが、彼らの反応は世間の喧騒とはかけ離れた、異様なほどに穏やかなものでした。

 

「リノは相変わらず無欲なようだね。ビクター家の立派なお嬢様になっても、そういう所は変わってない。嬉しいことだねぇ」

 

「自分よりも相応しい人がいるなんて思ったんじゃね? だいじょうぶ、リノちゃんはどこにいてもリノちゃんだからな」

 

「ヤー!(リノと面識がない)」

 

 ドリーは穏やかな顔で洗濯物を畳み、デッカもエピタフも、どこか遠い国の出来事を聞くような、他人事の笑顔を浮かべていました。

 

 あの日、リノが彼らに贈った歌──『だいじょうぶ』。

 

 その、聴く者の不安を根こそぎ奪い去る祝福は、彼女が養女として奏鳴荘を去った後も、彼らの精神を強固に縛り続けていました。

 

 彼らにとって、リノは永遠に「だいじょうぶ」でなければなりませんし、「だいじょうぶ」でしかありません。

 

 何の不安もない奏鳴荘の面々の話題が、次に移ります。

 

 そのタイミングで、奏鳴荘の玄関が、力なく、しかし重々しく開けられました。

 

「皆さま、御在宅で?」

 

 現れたのは領主お抱えの楽師ハルモニアでした。


 そして、今話題になっていた会話できぬリノの【代弁人】でもあります。


 ですが、いつものように三弦を鳴らしてベベン!と道化を演じる余裕など、微塵も感じられません。

 

 その顔は、ただ果てしない困惑と疲労に塗り潰されていました。


 いつも漂わせている「お疲れ」の雰囲気ではありません。


 これまで見せたことが無い、胃の腑を重くするような疲労感でした。

 

「……ハルモニア? あんたが単独でやってくるとは珍しいね。また何か面倒ごとを持ち込むつもりじゃないだろうね?」

 

 ドリーは、前科のある彼女に対しては塩対応。

 

「……困りました。本当に、本当に困ってしまったのです」

 

 ハルモニアの声は、震えていました。

 

 彼女は泣きません。

 

 涙など、とっくに枯れ果てています。

 

 ただ、ただ、どうしようもなく「困り果てた」顔で、力なく首を振りました。

 

「だいじょうぶでは、ないのです。お嬢様はひと月あまりの間、眠りについたままなのです。私が何をしても、ご当主様があらゆる手を尽くされても、目覚めないのです」

 

 ハルモニアは膝を突き、床に崩れ落ちました。

 

 諜報部実働部隊隊長としての冷徹な仮面はどこにもありません。

 

 そこにあるのは、奉仕対象を救えぬ己の無力さに、ただただ途方に暮れた一人の女の姿でした。

 

「お願い申し上げます、奏鳴荘の皆さん。どうか、リノお嬢様をお助けください。あの方の家族であった皆様なら、あるいは……あるいは……」

 

 しかし、その必死の懇願に対して返ってきたのは、乾いた笑い声でした。

 

「ハルモニアさん、冗談キツいっスね。リノちゃんがそんな目に遭うわけねーじゃん?」

 

「ふふっ。リノちゃんは大丈夫。だって大丈夫なんだから」

 

 奏鳴荘に響く笑い声は、どこか空疎で、ひどく歪でした。

 

 ハルモニアがどれほど困り果てた顔を晒しても、彼らの認識は「リノは幸せなお姫様」という固定概念から一歩も動きません。

 

 彼女がかけた『だいじょうぶ』という魔法は、それほどまでに完璧でした。

 

「……僕は、行きたい」

 

 ですが、その笑いの輪から、一人の少年が静かに抜け出しました。


「あら、ポメロ君」


 ポメロでした。

 

 彼は笑っていませんでした。

 

 それどころか、その瞳には焦燥と、今まで無理やり蓋をしてきた届かない寂しさが、濁流となって溢れ出していました。

 

「ポメロ落ち着け。リノはだいじょうぶに決まって──」

 

「だいじょうぶだろうと、だいじょうぶじゃなかろうと!」

 

 エピタフの言葉を、ポメロの剣幕が叩き割りました。

 

「笑ってようが、泣いてようが、そんなの僕には関係ない! 僕はただ……リノに会いたいんだ! あの日からずっと、あいつの隣でお昼寝したいって、それだけを考えて生きてきたんだよ!」

 

 それは、恋する男の子の、あまりに身勝手であまりに純粋な熱情でした。

 

 理屈でも、魔法による安心でもありません。

 

 ただ会いたいという思慕に根ざした衝動が彼を突き動かしていたのです。

 

「……ポメロ」

 

 その時、洗濯物を抱えたまま立ち尽くしていたドリーが、小さく声を漏らしました。

 

 彼女の目にも、笑い声とは裏腹な、熱い光が灯っていました。

 

 『だいじょうぶ』。リノはそう歌いました。

 

 だから信じていました。

 

 けれど、ポメロの叫びを聞いた瞬間、彼女の胸の奥で、手放した義理の孫娘への想いが、ギりりと音を立てて軋んだのです。

 

「……そうだね。リノが幸せなら、それでいいって思ってた。でも、アタシャしばらくあの子の顔を見てないからね。幸せになった顔の一度くらい見てもいいじゃないのさ」

 

 ドリーは洗濯物をカゴに放り投げると、迷いのない足取りでハルモニアの元へ歩み寄りました。

 

 魔法が解けたわけではありません。

 

 心配しているのではありません。

 

 孫の顔を見たいというポメロに似た情が、彼女を動かしたのです。

 

「ハルモニアさん。案内してよ。……リノのところへ。今日は邪魔しないんでしょ?」

 

 床に崩れ落ちていたハルモニアが、ゆっくりと顔を上げました。

 

 そのハの字の眉は、依然として困り果てたままでしたが、その瞳の奥には、ほんの僅かな希望の灯火が揺れていました。

 

「ああ、良かったです。本当に……。さあ、行きましょう。馬車を辻のところに止めています」

 

 ハルモニアはよろよろと立ち上がり、二人を促しました。

 

 ポメロは背中に、使い古されたギターケースを背負い直しました。

 

「おう、愛しのお姫さまに会ってこい」

 

「相手は貴族令嬢なのだからな。気安く接しすぎるな。貴族しぐさを忘れずにな」

 

「そうね。たまには顔を出してって言っておいて」

 

「ヤー!(よくわかってない)」

 

 魔法に縛られたまま笑い続ける奏鳴荘を背に、三人は闇の中へと足を踏み出しました。



──── ♬ ────



 領主館の別邸、その最上階にある一室でした。

 

 豪奢な装飾に彩られた扉が開かれると、そこには月の光さえも拒絶するような、重苦しい沈黙が淀んでいました。

 

「リノ……?」

 

 ドリーが、絞り出すような声でその名を呼びました。

 

 部屋の中央、真っ白なシーツに埋もれるようにして、リノは横たわっていました。

 

 微かな呼吸の音だけが、彼女が辛うじてこの世界に繋ぎ止められていることを示しています。

 

 ポメロとドリーは、吸い寄せられるようにベッドの傍らへ駆け寄りました。

 

「リノ! お昼寝はもう十分したろ? おはようの挨拶をしようよ」

 

 ポメロがその肩を掴み、何度も揺すります。

 

 しかし、リノの瞼は固く閉ざされたままです。

 

 その顔色は陶器のように白く、触れた肌は凍えるほどに冷たくありました。

 

「……お声がけは無駄なのです。目覚めぬだけでなく、届いてもいないのでしょう」

 

 背後で、ハルモニアが感情の枯れ果てた声で告げました。

 

「あんたら……またリノに何かしたのかい?」

 

 声色を低くしたドリーの言葉を受け、ハルモニアは、ここに至るまでの凄惨な経緯を淡々と語り始めました。

 

 『ノイジー・リセット』。

 

 かつてリノの【魔法】にて恐怖心を固定された被害者たち。

 

 その前で、リノが再び加害者として立たされた地獄の光景。

 

 自分の歌が人々を狂わせ、壊していく様を目の当たりにしたリノが、どれほどの絶望を抱いたのか。

 

「お嬢様は、ご自分の歌をあってはならぬものだと定義されたのでしょう。あるいは単に逃げ出したかっただけなのかも。どうあれお嬢様は醒めぬ眠りへと落ちてしまわれました」

 

 ハルモニアの言葉が、ナイフのようにポメロとドリーの胸を抉ります。

 

(リノは、苦しんでいる。リノは、助けを求めている。リノは、全然、だいじょうぶじゃない──!)

 

 その事実を脳が認識した瞬間、二人を凄まじい衝撃が襲いました。

 

 心の中に居座る『だいじょうぶ』という名の呪い。

 

 それが、目の前の凄惨な現実を猛烈な勢いで拒絶し、書き換えようと暴れ出したのです。

 

「う、っあ……あぁ……っ!」

 

 ポメロは頭を抱えて蹲りました。

 

 脳を直接万力で締め上げられるような、耐え難い不協和音。


 脈動の度に滲む視界。

 

 『だいじょうぶ』という光り輝く偽りと、『だいじょうぶじゃない』という目の前の現実。

 

 その二つが、互いの存在を消し去るために脳内で激しく衝突し、精神を内側から引き裂いていきます。

 

「リノは……幸せで……でも、こんな……あ、あぁ……」

 

 ドリーの喉から、掠れた嗚嗚が漏れました。

 

 高齢の彼女にとって、その精神的負荷はあまりに大きすぎました。

 

 激しい眩暈と頭痛に襲われた彼女の体は、枯れ葉のように床へ崩れ落ちます。

 

「ドリーおばさん!」

 

「大丈夫じゃないのに大丈夫なんだ。こんなリノの姿を見ても悲しむことも怒ることもできない。はいといいえが頭の中でぐるぐる回って他になにも考えられない」

 

 ドリーは、震える手でポメロの腕を必死に掴みました。

 

 彼女の瞳からは、魔法の呪縛を突き破った本当の涙が、堰を切ったように溢れ出していました。

 

「アタシじゃ無理だ。何もできない。だからこの子を……リノを、目覚めさせて……。アタシたちが……あの時、あんな風に、笑って見送ったりしなければ……こんな、こんなことには……」

 

 後悔の言葉を吐き出しながら、ドリーの意識は混濁していきます。

 

 彼女の体力は限界でした。

 

 ハルモニアが静かに歩み寄り、衰弱しきったドリーの体をそっと抱き上げました。

 

「……ドリー様は、私が別室でお休ませします。……ポメロ君、あのお方を救えるのは、もう、あなたしかいない。あなたをずっと【最優先警戒対象】として監視していた私には、そう思えるのです」

 

 ハルモニアがドリーを連れて退出しました。

 

 部屋には深い沈黙と、ポメロの荒い呼吸だけが残されました。



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