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トルバドーれ!  作者: 袴田八峰
第三十七幕「テルミン」

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112/118

三席

 

 深夜。奏鳴荘の自室。

 

 ポメロの机の上には、月光を反射する無機質な箱──テルミンが鎮座していました。

 

 窓から差し込む青白い光がアンテナの金属光沢をなぞり、それはまるで異世界の生物が脱ぎ捨てた殻のように、静かに、不気味に、指の訪れを待っています。

 

 長い静寂。

 

 ですが、ポメロの胸の奥では、日中に浴びたユーメの圧倒的な質量(臀部)の残像と、誰もが拒絶したあの不気味な音が、ドロドロとした熱い塊となって渦巻いていました。

 

(……くる。また、こいつが)

 

 ドクン、と鼓動が跳ねます。

 

 五線譜を睨みつけるポメロの視界が歪み、現実の壁紙が溶け、床が底なしの深淵へと変貌していきました。

 

 ポメロの意識の底、表現者としての業が沈殿する場所から、意志を持った熱情が這い出してきました。

 

 今回、彼の前に現れたのは、巨大な【天秤】でした。

 

 教会の聖像が掲げるような、静謐で公平な道具ではありません。

 

 天秤は狂っていました。

 

 軸は悲鳴を上げ、左右の皿は激しく上下し、静止することを知りません。

 

 右へ、左へ。

 

 微かな空気の振動にすら敏感に反応し、メトロノームのように、あるいは追い詰められた小動物の鼓動のように、絶えず細かく、激しく揺れ動いています。

 

「……定まらないのか。お前は」

 

 ポメロは、その狂乱の天秤へと一歩踏み出しました。

 

 天秤の右皿には、リノへの澄み渡るような想い。二番舞台を出る時に誓った、あの純粋な初恋。

 

 そして左皿には、今日、網膜に焼き付いたユーメの、あのぱつんぱつんに張り詰めた大地の豊穣。

 

 右が上がれば、

 

「リノに顔向けできないだろ! この不埒者が!」


 という良心がポメロの脳を叩き。

 

 左が上がれば、

 

「いや、この農耕民族としての本能には抗えない!」


 と原始の血が吠えます。

 

 皿が荒れ狂うたびに、机の上のテルミンが共鳴するように「ヒュィィィ……」という不確かな音を響かせました。

 

 音階ドレミという正解の場所に留まろうとしても、もう片方の皿の重みが、劣情が、純情が、それを許しません。

 

 針は中心を指すことを拒み、右へ左へと迷走を繰り返します。

 

 伝統派が尊ぶ秩序の対極にある、制御不能な振動。

 

「黙れ……! どっちかにしろ! 白か黒か、ハッキリさせろよ!」

 

 ポメロは叫び、激しく揺れる天秤の皿を強引に両手で押さえつけようとしました。

 

 ですが、天秤は、まるで「お前はそんなに潔い人間か?」とポメロの偽善を嘲笑うかのように、彼の手をすり抜けてさらに速度を増していきます。

 

(──ああ、そうだよ。僕は潔くなんてない)

 

 ポメロは自嘲しました。

 

 リノを愛していると言いながら、ユーメのお尻に目を奪われ、テルミンの普及に手を貸しています。

 

 六歌仙の階段を上り詰めたいと願いながら、誰もが見向きもしないこのガラクタに、かつてない創造の可能性を感じて震えていました。

 

 どっちか、じゃない。どっちもなのです。

 

 聖なる愛と、卑俗な劣情。

 

 構築された理論と、実体のないノイズ。

 

 その狭間で引き裂かれ、右往左往し、一歩も動けずに震えている無様な自分。

 

 ですが、その震えこそが。

 その、揺らぎこそが。

 

 どちらにも振り切れない迷いそのものが、今、この瞬間を必死に生きている表現者の証明ではありませんか!

 

(揺れていること。迷っていること。定まらずに彷徨い、音と音の間に落ちていくこと。それ自体が、この熱情なんだ!)

 

 ポメロは、激しく振動し、もはや輪郭すら霞む天秤の軸へと真っ向から指を伸ばしました。

 

 制御するのではありません。

 無理やり固定して正解を捏造するのではありません。

 

 その揺れの周期の中に、己の醜さも尊さも、全てを投げ出します。

 

 噴水広場の子供たちは波形に怯えて去りました。

 十一番舞台の楽師たちは制御に固執して敗れました。

 サロンの好事家たちは定義を求めて本質を見失いました。

 

 ポメロは違います。

 

 不確かな空中マージンにこそ、真実の響きがあると確信しました。

 

 ドとレの間にある、名前の付かない無数の階調。

 愛と欲の間にある、説明のつかない感情の揺らぎ。

 それらを切り捨てずに、そのまま音にします。

 

 脳内に、不気味だったはずのテルミンの音が、震える心臓の音として鳴り響きました。

 

 グリッサンド──糸を引くように繋がる、不純な音の線。

 

 それは、迷い、悩み、震える指先が描く、美しきなまの軌跡です!

 

 ポメロは、猛り狂う天秤の支柱を、自らの業として力強く、折れるほどに抱きしめました。

 

 純情の頭上、発情の奥底にある熱情が、幼き恋情を肯定し、種の保存の欲求を飲み込み、表現者としての咆哮へと転化されていきます。

 

 「逃がさないぞ……! お前の正体は、もう、僕の目からは隠しようがない!」

 

 深淵の闇の中で、天秤が最後の、拒絶の痙攣を起こしました。

 

 ポメロは、その震えの芯を、研ぎ澄まされた言葉の刃で一気に撃ち抜きました。

 

 「汝の名は──【揺れ動く心】!」

 

 その名を喝破した瞬間、狂ったように揺れていた巨大な天秤は、砕け散るガラスのような音を立てて弾けました。

 

 破片は眩い光の粒子となってポメロの全身を貫き、胸元へと吸い込まれていきました。

 

 昇華された熱情が、ポメロの血管を駆け巡ります。

 

 迷いは消えません。

 

 ですが、迷いそのものが旋律の燃料に変わります。

 

 ポメロは憑かれたようにペンをひっつかみ、五線譜へと躍りかかりました。

 

 ペン先が紙を削る音が、静まり返った深夜の部屋に響きます。

 

 並べられるギターの楽譜は、伝統的な楽典を内包する静謐な、それでいて内省的なマイナーコード。

 

 対するテルミンの楽譜は、揺らぎを最大限に生かすための、長い長いグリッサンドの指示。

 

 それは、聴く者の心を不安定に揺さぶり、不安を煽り、けれどその震えこそが人間らしさであると肯定するような、歪な譜面となりました。

 

 リノへの愛を歌い。

 

 ユーメの尻への渇望を嘆き。

 

 その間で苦悩している自分を描きます。

 

 「……はぁ、……はぁ、……できた」

 

 最後の一音を書き殴り、ポメロは力尽きたように机に突っ伏しました。

 

 窓の外では、夜の重みが解け始め、淡い東の空が白み始めています。

 

 机の上には、まだインクの乾かぬ楽譜。

 

 そして、その傍らで沈黙するテルミンのアンテナ。

 

 熱情は去りました。

 劣情も、創作の嵐と共に使い果たされました。

 純情は、未だ枯れず。

 

 「……これでいいんだ。これしか、書けなかったんだから」

 

 ポメロは、完成した楽譜を大事に丸めました。

 

 リノという大空とユーメという大地が生んだ、純粋で不純な、彼自身の【揺れ動く心】の記録。

 

 この音が、世界にどう響くのか。

 

 テルミンの知名度上昇は成るのか。

 

 それ以前にユーメに受け入れられる仕上がりなのか。

 

 ポメロはまばらになる意識の中で、益体も無く考えていました。



─── ♬ ───




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