三席
深夜。奏鳴荘の自室。
ポメロの机の上には、月光を反射する無機質な箱──テルミンが鎮座していました。
窓から差し込む青白い光がアンテナの金属光沢をなぞり、それはまるで異世界の生物が脱ぎ捨てた殻のように、静かに、不気味に、指の訪れを待っています。
長い静寂。
ですが、ポメロの胸の奥では、日中に浴びたユーメの圧倒的な質量(臀部)の残像と、誰もが拒絶したあの不気味な音が、ドロドロとした熱い塊となって渦巻いていました。
(……くる。また、こいつが)
ドクン、と鼓動が跳ねます。
五線譜を睨みつけるポメロの視界が歪み、現実の壁紙が溶け、床が底なしの深淵へと変貌していきました。
ポメロの意識の底、表現者としての業が沈殿する場所から、意志を持った熱情が這い出してきました。
今回、彼の前に現れたのは、巨大な【天秤】でした。
教会の聖像が掲げるような、静謐で公平な道具ではありません。
天秤は狂っていました。
軸は悲鳴を上げ、左右の皿は激しく上下し、静止することを知りません。
右へ、左へ。
微かな空気の振動にすら敏感に反応し、メトロノームのように、あるいは追い詰められた小動物の鼓動のように、絶えず細かく、激しく揺れ動いています。
「……定まらないのか。お前は」
ポメロは、その狂乱の天秤へと一歩踏み出しました。
天秤の右皿には、リノへの澄み渡るような想い。二番舞台を出る時に誓った、あの純粋な初恋。
そして左皿には、今日、網膜に焼き付いたユーメの、あのぱつんぱつんに張り詰めた大地の豊穣。
右が上がれば、
「リノに顔向けできないだろ! この不埒者が!」
という良心がポメロの脳を叩き。
左が上がれば、
「いや、この農耕民族としての本能には抗えない!」
と原始の血が吠えます。
皿が荒れ狂うたびに、机の上のテルミンが共鳴するように「ヒュィィィ……」という不確かな音を響かせました。
音階という正解の場所に留まろうとしても、もう片方の皿の重みが、劣情が、純情が、それを許しません。
針は中心を指すことを拒み、右へ左へと迷走を繰り返します。
伝統派が尊ぶ秩序の対極にある、制御不能な振動。
「黙れ……! どっちかにしろ! 白か黒か、ハッキリさせろよ!」
ポメロは叫び、激しく揺れる天秤の皿を強引に両手で押さえつけようとしました。
ですが、天秤は、まるで「お前はそんなに潔い人間か?」とポメロの偽善を嘲笑うかのように、彼の手をすり抜けてさらに速度を増していきます。
(──ああ、そうだよ。僕は潔くなんてない)
ポメロは自嘲しました。
リノを愛していると言いながら、ユーメのお尻に目を奪われ、テルミンの普及に手を貸しています。
六歌仙の階段を上り詰めたいと願いながら、誰もが見向きもしないこのガラクタに、かつてない創造の可能性を感じて震えていました。
どっちか、じゃない。どっちもなのです。
聖なる愛と、卑俗な劣情。
構築された理論と、実体のないノイズ。
その狭間で引き裂かれ、右往左往し、一歩も動けずに震えている無様な自分。
ですが、その震えこそが。
その、揺らぎこそが。
どちらにも振り切れない迷いそのものが、今、この瞬間を必死に生きている表現者の証明ではありませんか!
(揺れていること。迷っていること。定まらずに彷徨い、音と音の間に落ちていくこと。それ自体が、この熱情なんだ!)
ポメロは、激しく振動し、もはや輪郭すら霞む天秤の軸へと真っ向から指を伸ばしました。
制御するのではありません。
無理やり固定して正解を捏造するのではありません。
その揺れの周期の中に、己の醜さも尊さも、全てを投げ出します。
噴水広場の子供たちは波形に怯えて去りました。
十一番舞台の楽師たちは制御に固執して敗れました。
サロンの好事家たちは定義を求めて本質を見失いました。
ポメロは違います。
不確かな空中にこそ、真実の響きがあると確信しました。
ドとレの間にある、名前の付かない無数の階調。
愛と欲の間にある、説明のつかない感情の揺らぎ。
それらを切り捨てずに、そのまま音にします。
脳内に、不気味だったはずのテルミンの音が、震える心臓の音として鳴り響きました。
グリッサンド──糸を引くように繋がる、不純な音の線。
それは、迷い、悩み、震える指先が描く、美しき生の軌跡です!
ポメロは、猛り狂う天秤の支柱を、自らの業として力強く、折れるほどに抱きしめました。
純情の頭上、発情の奥底にある熱情が、幼き恋情を肯定し、種の保存の欲求を飲み込み、表現者としての咆哮へと転化されていきます。
「逃がさないぞ……! お前の正体は、もう、僕の目からは隠しようがない!」
深淵の闇の中で、天秤が最後の、拒絶の痙攣を起こしました。
ポメロは、その震えの芯を、研ぎ澄まされた言葉の刃で一気に撃ち抜きました。
「汝の名は──【揺れ動く心】!」
その名を喝破した瞬間、狂ったように揺れていた巨大な天秤は、砕け散るガラスのような音を立てて弾けました。
破片は眩い光の粒子となってポメロの全身を貫き、胸元へと吸い込まれていきました。
昇華された熱情が、ポメロの血管を駆け巡ります。
迷いは消えません。
ですが、迷いそのものが旋律の燃料に変わります。
ポメロは憑かれたようにペンをひっつかみ、五線譜へと躍りかかりました。
ペン先が紙を削る音が、静まり返った深夜の部屋に響きます。
並べられるギターの楽譜は、伝統的な楽典を内包する静謐な、それでいて内省的なマイナーコード。
対するテルミンの楽譜は、揺らぎを最大限に生かすための、長い長いグリッサンドの指示。
それは、聴く者の心を不安定に揺さぶり、不安を煽り、けれどその震えこそが人間らしさであると肯定するような、歪な譜面となりました。
リノへの愛を歌い。
ユーメの尻への渇望を嘆き。
その間で苦悩している自分を描きます。
「……はぁ、……はぁ、……できた」
最後の一音を書き殴り、ポメロは力尽きたように机に突っ伏しました。
窓の外では、夜の重みが解け始め、淡い東の空が白み始めています。
机の上には、まだインクの乾かぬ楽譜。
そして、その傍らで沈黙するテルミンのアンテナ。
熱情は去りました。
劣情も、創作の嵐と共に使い果たされました。
純情は、未だ枯れず。
「……これでいいんだ。これしか、書けなかったんだから」
ポメロは、完成した楽譜を大事に丸めました。
リノという大空とユーメという大地が生んだ、純粋で不純な、彼自身の【揺れ動く心】の記録。
この音が、世界にどう響くのか。
テルミンの知名度上昇は成るのか。
それ以前にユーメに受け入れられる仕上がりなのか。
ポメロはまばらになる意識の中で、益体も無く考えていました。
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