一席
アンドレックとコネクトーンを王都へ送り出したゲッティングは、重厚な執務室の椅子に深く身を沈めていました。
本来なら、デビュタントには彼自身が随伴すべきでした。
相手は国王陛下であり、その御前でのお目見えは、貴族の常識に照らせば当主が赴くのが当然の礼法なのです。
不興を買うほどの大失態ではないにせよ、形式を重んじる王宮に対しては、いささか礼を失した振る舞いでした。
ですが、彼には領地を留守にできぬ理由がありました。
否、正確には、この場所を空けてはならない理由がありました。
〽―― 鬼の居ぬ間にィ~、洗濯しよかと手を伸ばしぃ~、
〽―― ア、濡れた袖口ィ、涙雨ェ~
ベベン!
ハルモニアの不謹慎な都々逸を、ゲッティングは完全に無視しました。
感情を一切排した鋼のような瞳を、目の前に佇む愛娘へと向けます。
「リノ」
その呼び声に、リノは言葉を発さず、こくこくと深く頷きました。
「私がこの椅子に座っているということは、父としてではなく領主として相対しているということ。理解しているね?」
こくこく。リノの喉が小さく上下します。
ゲッティングは手元の書類──これまで密かに進めてきた検証の結果──に目を落とし、冷徹に言葉を継ぎました。
「漸く検証を終えることができた。効果は確認され、後遺症は確認されなかった。ここに理論の実証は成ったと考える」
こくこく。リノの顔に、目に見えて緊張が走ります。
ゲッティングの指先が、デスクの木目を叩きました。
この命令は、もしコネクトーンがここにいたら、何をおいても反対したことでしょう。
あの愛情深い妻ならば、確実に義娘の心を守るために盾となり、あらゆる道理を並べて夫を阻んだはずです。
だからこそ、ゲッティングは待ちました。
妻がカーネギーを離れるタイミングを。
リノから目を離す、唯一の空白を。
ゲッティングは父である前に、領主なのです。
「領主として命じる。リノ、六歌仙・歌唱の冠を抱くものよ。己の罪と向き合い──」
ごくり、とリノが息を呑みます。
部屋を支配する重圧が、物理的な質量となって彼女の肩にのしかかりました。
「『ノイジー・リセット』をお披露目せよ」
───── ♬ ─────
ゲッティングが王都の長期滞在貴族へと貸し出しているタウンハウス。
主のいないその建物の冷え冷えとした玄関ホールには、二十余名の市民が集められていました。
職業も年齢も、一見して共通点は見出せません。
ですが、その場に漂う空気は異様でした。
誰もが土気色に痩せ、顔色が悪い。
小刻みに震えている者、脂汗が止まらぬ者、そして必死に動悸を抑えようと胸を押さえる者。
彼らはある一つの事件の被害者でした。
【クレオパトラの惨劇】。
かつて正義感に燃える新聞記者に追い詰められたリノが、恐怖のあまり「恐怖の歌」を撒き散らし、周囲を狂乱に陥れたあの事件。
彼女はあの時、確かに被害者であったが、同時に取り返しのつかない加害者でもあったのです。
例えば、『ねこねここねこ』を浴びてしまったマンモスという男。
彼は重度の猫恐怖症であったにもかかわらず、あの日を境に猫を飼い始め、一年が経過した今でも、その猫を我が子の如く溺愛し続けています。
例えば、『だいじょうぶ』を浴びた奏鳴荘の人々。
彼らは今なお、リノの過酷な生活状況に露ほどの不安も抱かず、彼女の養子入りを手放しで寿ぎ続けています。
ここから導き出される恐るべき答え。
それは「リノの歌の影響は永続する」ということ。
つまり、目の前の市民たちの様子がおかしいのは、あの日から一年間、彼らの怯えが一時も途切れることなく継続しているからに他なりません。
彼らは一年間、終わりのないパニックの中に閉じ込められていたのです。
ベベン!
突如として三弦の音がざわめきを引き裂きました。
招待客の間に、凍りつくような沈黙が走ります。
「大変長らくお待たせいたしました。ただいまより六歌仙・リノ様シークレットライブを開催いたします」
ハルモニアの軽薄な口上に対し、招待客の間に激しい動揺が奔りました。
「聞いてねえぞ……!」
「やめて! 怖い! あの時の歌だけは……!」
「騙された! 助けてくれ!」
「もうダメだぁ。おしまいだぁ、またあの地獄が始まるんだぁ……!」
沸き起こる恐慌。
逃げ出そうとする者、その場にへたり込む者。
ホールは一瞬にして阿鼻叫喚の様相を呈しました。
ベベン!
それを制圧するかのように、三弦が再びスラップされます。
「皆様におかれましては、投石や罵声などの攻撃的行為をお控えいただけますよう、心よりお願い申し上げます」
ダブル・ステアケース(左右対称の階段)の上からどよめく被害者たちを見下ろし、リノは大きく震えました。
怖い。
しかし誰よりもリノ自身が分かっているのです。
一年前の自分の、あまりにも軽率な、そして制御不能な感情の爆発が、目の前で痩せ衰えた被害者たちを産んでしまったのだということを。
心の中で、いつも自分を守ってくれた愛しい人たちの名を呼びかけます。
ですが、すぐにリノは唇を噛んでその声を飲み込みました。
彼女はもう、守られるだけの可哀想な子供ではない。
ゲッティングの養女、貴族令嬢として、自らが招いたこの事態に立ち向かわねばならない。
領主令嬢は必死に心を奮い立たせます。
一段、また一段と階段を降り、踊り場へと進みました。
その姿を認めた途端、ホールには凄まじい怒号が轟きました。
「殺せ! あの悪魔の娘を!」
「よくも俺たちの人生をめちゃくちゃにしてくれたな!」
「いくらゲッティング様に逆らうことになろうとも、あいつは許しちゃおけねえ!」
彼らの怒りは、限界を超えた恐れを突き抜けて爆発していました。
リノはあまりの殺気に腰を抜かしそうになりますが、震える手で必死に手すりにもたれ掛かり、辛うじて踏みとどまります。
「静粛に!」
ベベン!
三度響く三弦の警告。
しかし、もはや狂乱した彼らに聞く耳はありません。
数人の男たちが、血走った目でリノへと詰め寄ろうと駆け出します。
(――っ!)
その手がリノに届く前に、影が走りました。
「いつの間に……?」
「なんだこいつらは!?」
気づけば、リノを盾のように守る二人の影。
出入口を完全に封鎖する二人の影。
そして室内へと通じる全ての廊下を塞ぐ一人の影。
計五人の男たちが、獲物を狙う獣のような鋭さで被害者たちを囲い込んでいました。
領主ゲッティングが抱え、ハルモニアが指揮する、隠密たちでした。
包囲されたことに気づき、被害者たちは一転して凍り付いたように静まり返りました。
新たに走る、死の予感を孕んだ怯え。
重なり合う怯えが、ホールを爆発寸前の危険な真空状態へと変えていきます。
「お嬢様」
ハルモニアが短くリノを促しました。
リノは立ち上がり、溢れそうになる涙を必死にこらえて歌い出しました。
『おひるねがしたいうた』
被害者たちの心を、まずは落ち着かせねばなりません。
リノは歌います。震える声を絞り出して。
ぽかぽか。ふわふわ。お昼寝したい。
ですが、イメージが湧きません。
目の前の地獄のような光景を前に、安らぎの情景など描けるはずがないのです。
リノは歌います。涙を堪えて。
ですが、イメージはますます混濁していきます。
被害者たちはもはや恐慌状態でした。
泡を吹いてその場に気絶する者、狂乱して叫び声を上げ、隠密の者に力ずくで取り押さえられる者。
リノは歌う。
リノは歌う!
安らぎの歌を、安らげぬ心で!
故に、その旋律は誰の心にも届かず、ただ空しく響くだけでした。
「止めよ」
階段の上から、重厚な声が響きました。
ゲッティングでした。
「此度のお披露目は中止だ。被害者たちには手厚い看護と、不自由ない生活を約束せよ。速やかに連れて行け」
実働隊によって人々が運び出されていく中、リノは声なき声で泣きました。
階段を降りてきたゲッティングは、震えるリノを強く抱きしめました。
「済まなかった、リノ。時期尚早だった。お前を苦しめる気はなかったのだ」
ゲッティングの目からも、一筋の涙が流れました。
「『ノイジー・リセット』の成功に、あまりに気が逸ってしまった。お前の抱える憂いを、罪の意識を、少しでも早く解いてやりたかったのだ……」
リノは泣きながら、ゲッティングに抱きしめられるがままになっていました。
その表情には、虚無が宿っています。
「ごめんなぁ、リノ。不甲斐ないお父さんで……本当に、ごめんなぁ」
冷徹な領主の仮面を脱ぎ捨てた一人の父親として、ゲッティングは娘の胸に顔を埋めて謝り続けました。
───── ♬ ─────
二月後。
音楽の都カーネギーは、二つの衝撃的なニュースにどよめきました。
一つは、奇跡の紡ぎ手・リノの【六歌仙】歌唱の座からの陥落でした。
在籍一年という、不名誉な最短記録を更新しました。
もう一つ。
空位となったその最高位、あらたに歌唱の座を手にしたのは。
「私の王子様」・ネオ。
――被害者が救われるのは、今しばらく先の話になります。




