三席
深夜、王都のベランダは刺すような冷気に支配されていました。
ポメロは一人、手摺りに身を預け、暗い庭園を見下ろしていました。
眼下に広がる夜の庭園は、王城の威容に相応しく広大に整えられていました。
しかし、月光に照らされた噴水の風情や芝生の配置には、サイズ感こそ違えど、どことなくカーネギーの公園を思い出させる風情があります。
その既視感が、余計にポメロの郷愁と孤独を深く抉っていました。
コネクトーン夫人の言葉が、鉛のように胃の底に溜まっています。
六歌仙という頂に至るためには、ここで失敗するわけにはいきません。
ですが、すでに自分はコネクトーン夫人の信頼を損ね、危うい均衡の上に立たされています。
これ以上の不興、これ以上の失点は、自身の未来、そしていつかリノと大手を振って会える日を迎えるために致命的となります。
伝統という名の巨大な壁に、無理やり頭を下げてでも従うべきではないでしょうか。
作曲に対する熱情は、この胸の奥で、出口を求めて激しくのたうっています。
剥き出しの衝動を叫びに変えてしまいたい。
でも。
この衝動を抑えてでも。僕は──。
「……情けない顔だな、ポメロ」
背後からかけられた声に振り返ると、そこには寝衣の上に薄いガウンを羽織ったアンドレックが立っていました。
昼間の神童の面影はなく、その瞳には苛立ちと、隠しきれない熱が宿っています。
「アンドレック様。まだ起きていたのですか」
「あの完璧な母上の笑顔に監視……見守られて、安眠できるわけがないだろう。おい、こっちへ来い」
アンドレックは不機嫌そうにポメロの傍らに立つと、唐突にその背中を叩きました。
「膝をつけ。僕をおんぶする名誉を、もう一度だけくれてやる」
「なんて?」
「忘れたとは言わせないぞ。あの家出の夜、貴様の背中で僕はこぼした。父母の愛が感じられぬと。噴水の前で僕は叫んだ。『僕が愛されないなんて許されるわけがない』とな」
呆気にとられるポメロを、アンドレックは射抜くような視線で煽り立てます。
「あの傲慢で、子供じみた、最低のわがままだけが、姉様を受け入れるのに必死な両親に、僕はここにいるのだと振り向かせることができたんだ。格好なんてつけてどうする。綺麗にまとまった音など、掃いて捨てるほど転がっている」
ぐい、と顎をしゃくり、月明かりに照らされた噴水を指し示します。
その様は、まさに主が従者に新たな戦場を命ずるかのようでした。
「あの庭園の噴水前まで行こう。かつての再現だ。借りてきた言葉で満足するような腰抜けに、僕の歌を託したつもりはないぞ。──今度は、僕が貴様の叫びを聞いてやる」
───── ♬ ─────
パレスの来客棟、その廊下。等間隔に配置された三連トーチが揺らめいています。
ポメロは、アンドレックを背負い、静まり返った石造りの廊下を歩んでいました。
規則正しく並ぶ彫像の視線が、場違いな闖入者を咎めるように冷たく感じられます。
「──ポメロ。この静かな廊下を歩いて、何を感じる」
「息苦しいです、アンドレック様。型に嵌められ、正解を押し付けられ、俺の音が死んでいくのが耐えられない」
そのまま、二人は大理石の階段を下りていきます。
一歩ごとに、王宮の重圧が足の裏から伝わってくるようでした。
「僕もだ。ビクター家の神童という皮を被らされて、心臓が干からびそうだよ。──玄関を出たら、何が見える」
「闇です。でも、誰かの顔色を窺うための音なんて書きたくない。そんな偽物の音で、この先の景色を掴んだって……俺には、何の価値もないんだ」
重厚な玄関扉の隙間から、冷ややかな夜気が流れ込みます。
外へと踏み出すと、そこには月光に濡れた広大な庭園が横たわっていました。芝生を踏みしめる音が、次第に速くなります。
「甘いぞポメロ! 僕は僕の歌が歌いたい、僕だけの歌を! お前がその喜びを僕に教えた! それを母上の、王都の、退屈な連中の顔を映すだけの鏡にするなんて死んでも御免だ!」
「わかるよアンドレック様! 僕の心臓は、もっと自由な音でしか跳ねない! 伝統なんて鎖で、この熱まで縛らせてたまるか!」
ポメロはやがて走りだしました。
背負った少年の重みは、もはや重荷ではなく、共に戦う同志の熱量そのものでした。
噴水の水音が鼓動のように高まり、視界が開けます。
「いいぞ! だったらその鎖を武器に変えてやれ! 跪くふりをして、喉元に僕たちのわがままを突き立ててやるんだ!」
「やってやりましょう! もう一度! 気に入らない現実に抗うために!」
噴水の前へ到達すると同時に、ポメロはアンドレックをその場に下ろしました。
少年は乱れた礼装のまま、夜空を仰いで不敵に叫びます。
「一杯食わせるぞ、ポメロ! 母上も、あの楽師長も、脳みその足りんガキ共も、王都の連中全てもだ!」
「裏のテーマは……熱情の名は……【伝統への一撃】!」
その瞬間、時計塔の鐘の音に呼応するかのように、噴水の中央から勢いよく水柱がしゅぱ──っと吹き上がりました。
舞い散る冷たい水しぶきが、高揚した二人の顔を濡らします。
「「最高だ!!」」
二人は弾かれたように笑い声を上げ、その場に崩れ落ちるようにへたり込みました。
濡れた髪を拭うこともせず、ポメロは肩で息をしながら、これから挑む戦場の条件を頭の中で整理し始めます。
「……アンドレック様。条件を確認しましょう。デビュタントの席、大ホールで衆目の下、国王陛下に直接捧げるオリジナルソングの献上。宮廷楽師長率いるあの集団、居並ぶ子息令嬢、その親や従者たち……王都の権威すべてが僕たちの音を審判する。逃げ場はありません」
「ああ、テーマは【王国賛歌】。王家や王都、国家の歴史、あるいは王そのものを称える歌だ。絶対的な審判を下すのは陛下ご本人。……だが、そこに付け入る隙がある」
「「陛下に届きさえすればいい」」
二人の声が重なりました。
既存の価値観に縛られた周囲の雑音など、最高権力者の肯定一つで無価値な塵に変わります。
「だが、後の風評というものも無視できぬな」
アンドレックは不敵な笑みを浮かべたまま、冷徹な視線で王城を睨みました。
「王都が格式に支配されている、これは間違いない。あまりに伝統派のセオリーから外れ、批判の声が大きくなると、カーネギーの伝統派にまで伝播しかねん。そうなれば、僕たちの故郷の音楽が面倒なことになる」
「形式を、幾分か伝統側に寄せないとね。文句言いたいけど、言いにくい程度に」
「そこは貴様の腕だろう、ポメロ。王の心臓を掴み、かつ伝統派の重鎮どもの喉を詰まらせる……そんな猛毒を、様式美という砂糖菓子で包んでみせろ」
「ええ。僕が伴奏とコーラスで支えます。必要なのは発想の転換」
ポメロは思い出します。
リノと自分を引き裂いた元凶。
正体を見せぬ権力の中枢【有識者会議】。
奴らへの宣戦布告をどう誓ったか。
表立てずにどう中指を立てたか。
そうだ、戯画化だ。矮小化だ。
光のストゥペンドというヒーローに対する、闇の秘密結社モルト・ペサンテ。
あの方向性。
「ストゥペンドがんばえ──」「負けるな僕のヒーロー!」
あの無垢な子供たちの応援。
あれを、王宮の様式美へと昇華させる。
「アンドレック様。これは、あなた様に道化を演じてもらう必要がある案なのですが……」
「よい、許す。貴様は僕の戦友だからな」
そこからが想像を絶する加工の苦しみでした。
王家に認められ、かつ、伝統派に決定的な文句をつけられない──その針の穴を通すような落着地点が、あまりにも遠いのです。
月明かりの下、二人は狂ったように譜面を書き換えていきます。
表面上は、慈悲深い王を「絶対的な正義のヒーロー」として無邪気に、かつ完璧な伝統旋律で讃える賛歌。
ですがその実態は、王家すらも自分たちの遊びの中の配役に引きずり込む、最高に不敬で痛快な戯画でした。
夜が明ける頃、そこには一筋縄ではいかない劇物が完成していました。
翌朝、その譜面を見たコネクトーン夫人は、絶句しました。
ポメロたちが提示したのは、伝統的な旋律と和音に寸分の狂いもなく則りながら、歌詞と構成において「王家への全肯定」を、あまりにも純粋に、あまりにも真正面から突きつける歌でした。
「……ここまで真正面から賛美している歌を、否とは言えませんね」
夫人は困惑したように、しかしどこか毒気を抜かれたように苦笑しました。
「楽曲の構成も……ええ、伝統派の旋律、和音に則っています。これなら、楽師長も文句は言えないでしょう。王族の琴線をつま弾くどころか、あの方々の心臓に直接突き刺さるような……そんな真っすぐな敬意があります。……音楽の都を束ねるビクターの妻として、認めざるを得ませんね。これで行きましょう。楽師長には、私から話をつけておきます」
ポメロは内心で、かつての恩師たちへ深い感謝を捧げました。鉄壁の包囲網を、完璧な正論(賛美)という名のカウンターで突破した瞬間でした。
(まあ、歌詞は本番で変えるんだがな。コーラスも)
(大意は変わんないんだからオッケー!)




