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トルバドーれ!  作者: 袴田八峰
第三十五幕「強いぞ!凄いぞ!カッコイイぞ!」

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106/113

二席


 王城の片隅に割り振られたゲストルーム。

 

 ポメロが一人、譜面に向き合っていた時だった。


 無造作に扉が開かれ、見知らぬ下級官吏が顎で外を指す。


「そこなトルバドール。楽師長がお呼びだ。今すぐ来い」


 返事をする間も、身支度を整える猶予も与えられない。

 

 ポメロは追い立てられるようにして、石造りの事務棟へと連行されました。


 宮廷楽師長の談話室は、弦楽四重奏を優雅に催せる広さを持ち、豪華な応接セットが荘厳に整えられています。

 

 しかし、窓のない石造りの天井が重くのしかかり、息苦しいほどの圧迫感を醸していました。

 

 そこに流れる空気は冷たく、音楽を愛でる場というよりは、黒曜石の如き法で音を裁く審問所のように思われます。


「遅い」


 豪奢な官服を纏った初老の男が、書類に目を落としたまま座っていました。

 

 ポメロが入室しても、彼は顔を上げることさえしません。

 

 ポメロに着席を促すことすら。

 

 まるで、部屋に風が吹き込んだ程度の認識でした。


 そういう、【しぐさ】なのでしょう。


 伝統に則った。


「──貴様のような革新派の端くれを、いちいち啓蒙してやる時間は私にはない」


 男は机の端に置かれたスコアの何枚かを、まるで不要なゴミを払うような動作で床へ払い落としました。


 なんたる思いあがった行いか!


 カイゼル過ぎるヒゲジジイめ!


 「拾え。……これを演奏せよ。伝統派の様式に則った、完璧な賛歌だ。当日これを披露すれば、作曲者の名は貴様のものにしてやろう。名門ビクター家の晴れ舞台を、貴様の不浄な音で汚させないための配慮だ」


 足元に散らばった紙の束をポメロは見つめました。

 

 黒曜石のように硬く、一切の揺らぎを許さない冷徹な記号の羅列。

 

 ですが、その指が動くことはありませんでした。


「……いえ。それは受け取れません。主であるアンドレック様の耳に入らぬまま、私が勝手に内容を預かることはできません。彼が何を奏でるかは、彼自身の意志であるべきですから」


 楽師長は初めて、しかし不快そうに顔を上げました。

 

 その瞳には、羽虫が羽音を立てたことへの純粋な嫌悪が宿っています。


「相談だと? 主君の意志などと、革新派の犬の分際で分かったような口を……。私が直接与えると言っているものを、一介の随行員が『保留』にするというのか」


 楽師長はポメロから視線を外し、近くにいた部下へ短く命じます。


「出せ。目障りだ。……ああ、この件はコネクトーン様にも伝えておく。彼女も、連れてきた犬の躾がなっていないことに驚かれるだろう」


 背中越しに放たれた冷ややかな宣告。

 

 ポメロは、床に散らばったままの慈悲の紙片を一度も振り返ることなく、衛兵によって廊下へと押し出されました。



───── ♬ ─────



 王宮の【白亜の談話室】を支配しているのは、暖炉の爆ぜる音でもなければ、少年たちの快活な笑い声でもありませんでした。

 

 そこにあるのは、磨き上げられた大理石の床に反響する、微かな衣擦れの音と、氷の彫刻を削り合うような冷徹な【視線の交差】だけです。


 アンドレック・ビクターは、用意された豪奢な長椅子の端に、背筋を垂直に保って座っていました。

 

 彼の周囲には、王都の名門家から集められた同年代の少年たちが数名。

 

 まるでチェスの駒のように正確な位置取りで配置されています。


「──それで、カーネギーの冬は、王都に比べていかがですかな。空気が少々……野生味に溢れていると伺っておりますけれど」


 口を開いたのは、公爵家の三男だという少年でした。

 

 彼は言葉を終えると同時に、手にした銀のティースプーンを置き、これ見よがしに「カフスの絶対微調整」を行いました。

 

 彼の視線はアンドレックの瞳を捉えることはなく、ただ自分の袖口の対称性が完璧であることだけを、陶酔したように確認しています。


(……始まった)


 アンドレックは、喉まで出かかった溜息を、伝統派特有の「音を立てぬ呼気」として飲み込みました。

 

 彼らにとって、会話は情報の交換ではなく、相手がどれだけあるべき規律から逸脱しているかを暴き出すための検閲でした。


 隣に座る伯爵家の嫡男が、アンドレックの足元へ、音もなく視線を落としました。

 

 それは執拗な「三点測量」でした。

 

 まずアンドレックの靴の光沢、次に膝の左右対称性、そして最後に、わずかに揺れた瞳。

 

 少年は一拍ずつ時間をかけ、まるで汚物を検品するかのようにそれらをなぞると、最後に小さく鼻を鳴らして視線を外しました。


「解像度が、低いのですね」


 少年が零したその一言は、アンドレックの存在そのものが、王都の緻密な様式美に比べて「粗末で、ボヤけている」という残酷な断罪でした。


 アンドレックは激昂することなく、あえて「垂直の静止」を保ちました。

 

 相手が言葉を終えた後、即座に反応せず、数ミリだけ首の付け根を引き伸ばすようにして、石像のように動きを止めます。

 

 沈黙が重く、長く部屋に満ちていきました。

 

 相手が痺れを切らして言い訳を始めるかのように、再び皮肉を重ねるまで、アンドレックはまばたき一つせず、虚空を見つめ続けました。


(幼稚だ。あまりに、幼なすぎる。僕が求めているのは、こんな死んだ形式の押し付け合いではないのに)


 彼らの振る舞いは、すべて親や家庭教師から叩き込まれた正解のなぞり。

 

 そこにはポメロが背負わせてくれた、あの泥臭い体温も、震えるような叫びも、一音たりとも存在しません。


 やがて、少年たちの一人が、自身の権威を示すために、アンドレックに向かって扇子を垂直に立てました。

 

 「扇子による結界」。

 

 これ以上、自分たちの領域に、カーネギーの不浄な空気を持ち込ませないという意思表示です。


 アンドレックは、引かれた線を冷ややかに見つめました。

 

 反論の言葉はいくらでも浮かびましたが、それすらもこの墓場の空気を汚す、無駄なエネルギーの消費に思えたのです。

 

 彼はわずかに頭を垂れ、伝統派が敗者に強いる型通りの、一切の熱を含まない会釈を返しました。


「……失礼。私の不勉強が、皆様の時間を汚したようです」

 

 その「一歩引いた」態度は、少年たちの間では、カーネギーの神童が王都の規律に屈した敗北と映ったことでしょう。

 

 彼らは満足げに一斉に「懐中時計」を取り出し、パチン、パチンと蓋を閉じる音を部屋に響かせました。

 

 「貴方との時間は終わった」という、集団による一斉宣告です。


 アンドレックは、彼らが作り出した「空間の裁断」を乱さぬよう、音もなく立ち上がり、談話室を後にしました。


 廊下に出た瞬間、彼は重い肺の空気をすべて吐き出しました。


王都という巨大な墓場。


 そこには、規律という名のカビ臭いヴェールに包まれた、音楽の死体しか転がっていませんでした。


(今後、こんなやつらと友誼を築いてゆかねばならんのか……)



───── ♬ ─────



 夕食前のゲストルームに、重い扉が開く音が響きました。


 戻ってきたアンドレックは、王都の夜会で着せられた窮屈な礼装を、苛立たしげに毟り取ります。

 

 その顔は、社交場で振りまいていた「早熟な神童」の輝きなど微塵もなく、死人のように青ざめていました。


「──ポメロ、水だ。ああいう幼稚で虚栄心の高い子供と付き合うのは些か疲れる」


 ポメロが差し出したグラスを飲み干すと、アンドレックはソファに倒れ込みます。


「実は僕にもこのようなことが――」


 ポメロは、楽師長との一連の出来事を伝えました。

 

 不当な扱いを受けたこと、そしてスコアを受け取らずに帰ってきたことを。


 彼の主たるアンドレックの判断を仰ぐために。


 それがポメロが想像する主従の在り方だったために。


 しかし、アンドレックの見立てでは。


「──そうか。その楽師長という男を、正面から怒らせたのか。いいよ、ポメロ。僕もさっきまで、あの大広間で応酬されていた、形骸化されたしぐさの応酬には辟易していたんだ」


「……怒っていたのは分かったけど。正面、って?」


 ポメロが首を傾げると、アンドレックは自嘲気味に口角を上げます。


「宮廷では、拒絶よりも保留の方が重罪なのだ。格下が格上の決定を【預かる】なんて、存在そのものの否定に等しい。──君は無自覚に、王都の権威という顔面を真っ向から殴りつけたのだ。最高の気分だね」


 二人が、自分たちを縛り付ける虚像への吐き気を共有し、共に苦笑い。


 そこに響く優雅なノックの音。

 

 部屋の空気が一変します。


「あら、二人ともいたのですね」


 コネクトーン夫人が、夕刻の柔らかな光を背負って入室してきました。

 

 慈愛以外の、背筋の凍る何かを内包した微笑みは、夜の闇を予感させるように深く、逃げ場のない圧を孕んでいます。


「ポメロ。楽師長からの申し出を、アンドレックの判断を仰ぐという名目で保留にしたそうね。──おまえがどれほど恐ろしいことをしたか分かっているのかしら?」


 彼女はアンドレックの隣に座り、その冷たい手をそっと包み込みます。


 「王都を、王家を知らぬあなた達に、王族の琴線をつま弾く歌なんて無理なのよ。あの方々の耳は、私たちが想像する以上に肥えているわ。生半通な賛美は聞き流されるどころか、退屈を強いたとして不興を買い、機嫌を損ねてしまいかねない──。だからこそ、伝統派が磨き上げた正解が必要なの」


 「……母上」


 「アンドレック、あなたがビクター家の誇りであるために、不必要な摩擦は毒でしかないの。ポメロ、お前もです。アンドレックの将来を本当に案じているなら、明日の朝一番で楽師長のもとへ行き、その譜面を跪いて受け取ってきなさい。一介の書き手が、宮廷の判断を保留するなど二度と許しません」


 逃げ場のない正論。

 

 そして「愛」という名の絶対的な服従の要求。

 

 二人は、侯爵令嬢の完璧な微笑みの前で、ただ沈黙するしかありませんでした。



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