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トルバドーれ!  作者: 袴田八峰
第三十四幕『思い出のこちら側』

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一席


 都の夜を焼き尽くさんとした『楽園』の熱狂は、数日が過ぎてもなお、微熱のような余韻を街の路地裏に残していました。

 

 奏鳴荘の食堂は、今や一つの凱旋門と化しています。

 

「ポメロ、フォルテ、よくやった! あんたらの大好きなローストビーフを山盛り用意しといた! 食べたいだけ食べな!」

 

 ドリーが抱えきれないほどの特大ローストビーフをテーブルに叩きつけ、食堂中に肉汁の芳香が爆発しました。

 

「コホン。……若き芽が、大樹となりて、天を衝く。その調べ、神の庭をも、震わさん。伝統を、踏まえし翼、いざ行かん」

 

 エピタフが、いつになく厳かな面持ちで、典礼の作法に則った祝辞の律詩を朗々と詠い上げます。

 

 普段は厳しい彼も、今日ばかりはその髭を誇らしげに揺らしていました。

 

 その熱狂の中心。ポメロの隣を片時も離れないのはエレクトラです。

 

「ポメロ君、喉が渇いていない? これ、特製の果実水よ。ふふっ、おいしい?」

 

 深海から引き揚げられた歌姫は、今は隠そうともしない柔らかな熱を瞳に宿し、甲斐甲斐しくポメロの世話を焼いています。

 

 完全に二人だけの甘い空気ゾーンが出来上がっており、ポメロは顔を真っ赤にしてお酌を受けていました。

 

 ポメロにとってのエレクトラは、未だに自分をからかって愉しむ小悪魔な年上の女性に過ぎませんでしたが、今日の熱の入り様は、からかいにしては少々度が過ぎています。

 

「おーおー、やってるねぇ! 今や都の噂のあの人! ポメロ大先生の凱旋だ!」

 

 入り口の扉に背を預けて、デッカはいつものように快活な声を張り上げました。手には安物の酒瓶があります。

 

「あらデッカ兄さま! わたくしへの言葉はないのかしら? 都を虜にした『楽園』のカスタネットくらいしす。その絶対的センターであるこのわたくしへの、最上級の賛辞は!?」

 

 すかさずフォルテが、ドレスの裾を翻してデッカの前に立ちはだかります。

 

「あぁ、もちろん忘れてないよフォルテちゃん! いやぁ、あのステージのあんたはマジでヤバかった! もうね、女神が降臨して、全人類が膝をついて、俺ちゃんの心臓もバクバクで破裂寸前! 世界一、いや宇宙一可愛かったよ、ホント!」


 現場にいなかったくせに、テキトーぺら回しやがって。

 

 大人は嘘つきだ!

 

「よくってよ、よくってよ! 分かればよろしいのよ! ヤー!」

 

 あまりにも雑で、あまりにも適当な褒め言葉に、フォルテは頬を染めて高笑いします。実にちょろい。

 

「ポメロちゃん、後で俺ちゃんにもその成功の神様をお裾分けプリーズ。ハグ一回、銀貨一枚的な?」

 

 ポメロが照れくさそうに笑い、立ち上がろうとします。

 

 ですが、デッカはその直前で、ひらりと手を振って背を向けました。

 

「おっと、今夜はこれからデートの約束があるんだったわ。悪ィね、主役! 続きははエレクトラさんに頼むわ!」

 

 律儀に銀貨一枚をポメロに弾くと、デッカは陽気なステップで、夜の帳へと滑り出します。

 

 鼻歌まじりに路地裏を抜け、夜風に当たって「さて、どこのネーチャンと遊ぼうかな」と独り言ちたデッカの耳元で、不意に、静かで低い声が響きました。

 

「……デートの相手は、私で構わないかしら」


 ポメロにべったりであったはずの彼女が、なぜかそこにいました。


「ちょ、エレクトラさん。驚かさないでよ、心臓に悪いなぁ?」

 

「二人で、少し『深い』話をしましょう。……デッカは私に、借りがあるでしょう?」


「っす」


 借り、と口に出させたなら。


 デッカに否やはありませんでした。



───── ♬ ─────



 そこは静かな半地下の、大人の為の落ち着いたバーでした。


 デッカが愛顧している騒がしくもにぎやかな労働者憩いの場、【銀の弦亭】とはほど遠く、むしろ引っ掛けた女をムードと酒に酔わせてドン! のコースで利用する店でした。


 尤もエレクトラをドンする予定はデッカにはありません。こわいですからね。本当にこわいです。デッカはその怖さを良く知っていました。


 デッカは慣れた手つきでグラスの氷を転がし、カラン、と涼しげな音を響かせます。

 

「いやぁ、あの頃はよかったよねぇ。ステージの後の酒は今よりずっと美味かったし」


 デッカは懐かしそうに目を細め、饒舌に思い出を語ります。

 

「本当、あのまま続けてりゃ、今頃は俺ちゃんも大富豪だったかもなぁ!」

 

 デッカがグラスを傾け、氷をまた一つ鳴らした瞬間でした。

 

「いい事より辛いことの方が多かったけど」

 

 ぴしゃり、と。

 

 冷たい水が、熱を帯びた回想を凍りつかせました。

 

「はは……。エレ姉、酔いすぎだって. マスター、お勘定!」

 

 デッカは椅子を蹴るようにして立ち上がろうとします。

 

 ──マスター、シットアップ!

 

「マスター、まだ飲むわ」

 

 エレクトラの静かな一言です。

 

 ──マスター、シットダウン!

 

「おいおいお姉さん……」

 

 苦笑いを浮かべたデッカの左手の上に、エレクトラの白く細い右手がそっと重ねられました。

 

「たまには真面目な話もしましょう」

 

 今のエレクトラは、紫煙のベールに包まれていた頃のようなミステリアスな女ではありません。

 

 人を惑わせるあいまいな言葉や翻弄する含み笑いも、今の彼女からはもう浮かび上がってきませんでした。

 

(……やりにきーな)

 

 デッカのへらへらした渡世術が噛み合いません。

 

 彼にとって「へらへら」とは「浅さ」を意味する言葉でした。

 

 人の心の深い場所には近づかず、近づかせない。それが彼の生存戦略だったのです。

 

「私は立ち止まっていたの。あの深海の底で、誰かが私を見つけてくれるのを待って、ただ動けずにいた。……でもポメロ君にそれを見透かされて、指弾されて。私は自分で歩くことに決めたわ」

 

 エレクトラがポメロに救われたことは感じていました。


 そーなんだろーな、程度には。

 

 ですが、その内容や手法を、デッカは知ろうとしませんでした。

 

 他人の深淵に触れることは、自分の深淵を晒すことと同義ですから。

 

 ですが、今、直感します。

 

 自らの深い場所を、あるいは恥部を、自ら晒してここまで歩いてきた女の強さを。


 自分を緩やかに制しているこの白い手は、デッカがひた隠しにしてきた「深いところ」まで手を伸ばし、引きずり出すという宣言なのだと。


「デッカ。思い出話、楽しかった。いい仲間だったよね、私たち」


「マジ青春のメモリー。俺ちゃん、あの頃に戻れるなら、銀貨百枚くらい喜んで払っちゃうね」


「でも──あんたは逃げ出した」


 核心です。

 

 エレクトラの手は、重ねられた手のひらを通じて、一気にデッカの心臓を握りしめました。



───── ♬ ─────



 最初は、ただ純粋に楽しかったのです。


 安酒場の片隅で、デッカが刻む陽気なリズムに乗ってエレクトラが歌います。

 

 素人が初めて作ったオリジナル曲、『思い出のこちら側』。

 

 デッカはそれがどんな歌詞だったか、もう忘れてしましたが、リズムは今も指先が覚えています。

 

 観客はわずか数人でしたが、二人の間には間違いなく、青春という名の無敵なグルーヴが流れていました。

 

 共に笑い、共に明日を語り、音楽さえあればどこまででも行ける気がしていました。


 異変は、彼女の才能が世に見つかり始めた頃から、少しずつ、確実に忍び寄ってきました。


 エレクトラは笑わなくなりました。

 

 代わりに従事したのは、音楽という名の底なしの淵を覗き込むような、狂気的なまでの自己研鑽です。


(なんか最近つまんねーな)


 そんなある夜、デッカは見てしまいました。

 

 興行を握る有力者に一晩身を委ね、明け方の冷たい廊下を無機質な顔で歩いてくるエレクトラの姿を。

 

「……なんで、あんなことしたんだよ」

 

 問い詰めるデッカに、彼女は感情の失せた声で答えました。

 

「歌いたいから」

 

「歌うだけなら、そこらのストリートでだってできるだろ」

 

「……より遠くに届けたいから。そのためなら、私なんていくらでも切り売りするわ」

 

 その日を境に、デッカは彼女の目を見られなくなりました。

 

 恋に敗れたからではありません。

 

 彼女にある、音楽のためなら己の全てを投げ出す覚悟が、あまりに恐ろしかったのです。

 

 デッカには、そこまでの覚悟はありませんでした。

 

 彼女の覚悟に当てられるたび、デッカのリズムには致命的な歪みが生まれ始めました。

 

 指先のブルーズが必要のないグルーヴを刻み、コンガの軸が少しずつ、ですが決定的にズレていきます。

 

 このまま彼女の隣に居続ければ、自分は、あるいは彼女の音楽そのものがおかしくなる。

 

 そう予見した瞬間、デッカの心は折れました。


「俺ちゃんさあ。日常をもっと楽しんで生きたいのね? 若いうちに遊び倒しておきたいのよ。だから──」


 必死で紡いだ浅い決別の言葉。

 

 エレクトラの返答は簡潔でした。

 

 無機質な顔で。

 

 デッカに目を合わせることもなく。


「そう」


 二人の二年は終わりました。


 逃げるしかありませんでした。


 あの日、雨の裏通りへ逃げ込んだデッカは、腰に下げたコンガだけは捨てられませんでした。

 

 翌朝から「ラテンの兄貴」という薄っぺらな仮面を被り、そのコンガで陽気なリズムを叩き始めます。

 

 深淵から目を逸らし、何事もなかったかのように浅瀬でへらへらと笑い飛ばす。

 

 それが、彼が自分を守るために選んだ、唯一の渡世術だったのです。


 事実は、残酷でした。

 

 あの日、深淵を覗くのをやめて手に入れた「その日を楽しむために、その日を生きる」というラテンなライフスタイルは、驚くほどデッカにマッチしました。

 

 今をへらへらと生きる姿勢に、血を吐くような努力も、身を削る苦悩もありません。

 

 適当にリズムを刻み、適当に女を口説き、適当に酒を飲む。

 

 そんな浅瀬のぬるま湯は彼にとってこの上なく心地よく、そして正解だったのです。

 

 ですが、それだけではありませんでした。

 

 そんな空っぽな充足の影で、熾火のように腹の底にわだかまる「何か」の存在に、彼は気づいていました。

 

 見ないふりをし、目を逸らし、へらへらという笑い声でその爆ぜる音をかき消してきた正体不明の熱があります。



───── ♬ ─────



「私は立ち止まった人。デッカは逃げる人」

 

 熾火を、エレクトラの白い手が、今、握りました。

 

「……すまねーとは思う。エレクトラさんを一人にしたこと、今でも夢に見るくらいには」

 

 デッカは視線をグラスの底に落とし、独り言のように漏らしました。

 

「でも、あの選択に後悔はしてねえんだ。……俺ちゃん、分かっちまったのよ。【あっち側】と【こっち側】は、交われねーのよ。お前らの業は、重過ぎんだわ。背負っちまったら、俺ちゃんはその重さにひっくり返っちまう。亀みてーに手足をバタつかせたまま、乾いて死んじまう……だから、逃げるのが正解なのよ」

 

「デッカ」

 

 エレクトラは、デッカの手の甲を包み込むように指を絡めました。


「私は歩き出した。怖いことも迷うことも一杯。ポメロくんに背中を押されて。でも、今、確かに自分の力で歩いてる」

 

 ポメロだ。やはりポメロの影響だ。


 デッカの腹の熾火が、ごろごろと不快な音を立てて転がり、内臓壁に熱傷を刻んでいきます。その熱さに耐えかねるように、デッカはグラスの酒を一気に干しました。

 

 苦い酒。喉を焼くアルコールすら、腹の熱を冷ますには至りません。

 

 ですが、エレクトラの言葉には続きがありました。

 

「今度は私が背中を押す番。逃げるなデッカ。私はデッカが自分で歩き出す姿が見たい」

 

 かつての相棒の発破に煽られて、デッカの熾火が赤々と燃えました。



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