第155話
「ねぇ」
でろっと濁る瞳で頬杖を突き、心底機嫌が悪いといった様子で低い声を出す。
本日のクロアはいつにもまして、それはもう非常に怒っていた。
放たれているのは紛れもなく殺気。
それも前職が前職だけに、彼女の放つそれはそこらの凡百のものとはわけが違う。直接向けられようものなら、人によっては恐怖で失禁してしまうやも知れない。戦闘を生業としていない一般人ですらはっきり感じ取れる、そういったレベルの殺気だ。
しかしそんな殺気が向かう先もまた、やはりそこらの凡百ではない。
冷たく刺す氷のような気配もなんのその、織羽はちくちくと裁縫に勤しんでいた。
「なんでしょう?」
「なんか、あのゴリラと遊んだって聞いたんだケド?」
ぎくり、と織羽の肩が僅かに震える。
まるで恋人に浮気がバレ、それを問い詰められているかのように。
クロアが詰めているのは、先日の『スパダリ作戦』での一幕についてだ。
凪の婚約者候補として擁立するために、架空の人物『天枷水樹』の活躍を見せる必要があった。その過程で織羽と隆臣は、僅かな時間ながらもいつものじゃれ合いを展開した。とはいえ隆臣扮する襲撃犯を会場外に吹き飛ばした時点で、『分かる者には分かるよう、実力を見せる』という目的は達している。確かに、その後のじゃれ合いは全く必要のないものであった。
「聞いてないんだケド」
「…………」
「別にボクでもよかったよね、その役」
「…………」
つまりクロアはこう言っているのだ。
何故自分を差し置いて、隆臣と手合わせをしているのか、と。
何故と問われれば、織羽としては『ただのついで』としか言いようがない。
隆臣とじゃれ合う事などいつものことで、作戦中にちょっと時間が出来たから、という程度の話だ。
しかしクロアからすれば、到底納得出来る話ではない。
襲撃犯役に必要な条件はひとつ、『会場内に居る探索者を圧倒する事』のみである。顔など覆面なり仮面なりで如何様にも隠せるし、声だって密が現場に来る以上はどうとでもなる。探索者であることなど一目瞭然なのだから、体格や性別などは問題にもならない。おまけに素のガラの悪さは隆臣と同等かそれ以上。強いて言えば凪にバレる確率が少し高くなるくらいか。とはいえ確かに、隆臣ではなくクロアでも問題なく作戦は実行出来たであろう。
であれば、だ。
順番待ちは自分の方が先だった筈だ、と。
つまりクロアはそう言っているのだ。
クロアが迷宮情報調査室のメンバーとして、半ば強制的に加入してからしばらく。
彼女の興味など、つまるところは織羽と戦うことに終始している。元より戦闘狂で、極論戦う事以外には興味のない彼女だ。総会襲撃事件にまつわる様々な任務もそう。日頃の学園生活に於ける織羽のサポートもそう。興味のないそれら全ての事柄に我慢しているのは、偏に織羽と戦うためでしかない。
だというのに、だ。
今回の作戦について、クロアは何も聞かされていなかった。気づけば全ては終わっていて、折角の好機はいつの間にやら掌から溢れ落ちていた。如何に仕事上の話とはいえ、これで納得しろという方が難しい。少なくとも彼女に言わせれば。
「ボクはさぁ」
「はい」
「別にあのまま終わっても良かったんだよ。割と満足してたしね」
「はぁ」
「でもさぁ、まだキミと遊べるって聞いたから、今こうしてるワケ。分かるよね?」
「ほぅ」
クロアの言葉はひどく抽象的で、傍から聞いただけでは何を話しているのかも分からないような、そんな曖昧な内容だった。しかし全てを知っている織羽には、その言葉の意味が全て分かる。そしてもちろん、彼女が何が言いたいのかも。
「死人の前にお肉ぶら下げて、しっかりこき使っておいて、それでコレはないんじゃない?」
「…………いやぁホント、酷いヤツもいるもんですねぇ」
「テメェに言ってんだよ」
「押忍」
のらりくらりと適当な返事をする織羽に対し、流石に口調が荒れ始めるクロア。
これがマジギレの兆候だということを、織羽は既に知っている。普段は無気力気味でふらふらと気ままに動くクロアだが、しかし一皮向けばその下には、狂犬じみた野生が眠っているということを。
「はぁ…………分かりました、分かりましたよ! やればいいんでしょう、やれば!」
事此処に足り、もはや戦いが避けられない事を悟る織羽。
どの道どこかでガス抜きは必要だったのだ。ならばこのあたりで一度処理しておくのも悪くない、と。
「密さんに言って、迷宮情報調査室の地下を使わせてもらいます。それでいいですか?」
渋々といった織羽のその言葉に、クロアの表情がぱっと華やぐ。
静かな怒気をたっぷりと湛えていた先程までの能面から、誰が見ても分かるほどの上機嫌へと色を変えて。
「いいよぉ♡」
* * *
数日後。
授業中にふと、凪がこう言った。
「織羽、貴女怪我してるわよ?」
「えっ、ホントですか?」
「気づいていなかったの? ほら、ここ」
凪が指差す先――――織羽の頬には確かに、小さな切り傷のようなものがあった。織羽が気づいていなかったのも無理はない。血が出ているというわけではなく、小さな薄いスジが一本走っているといった、ほんのかすり傷程度の怪我だった。
「そういえば左腕にも、何日か前から包帯を巻いていたわね」
「う、目敏いですね」
「仕事に支障はなさそうだったから、特に気にしていなかったのだけれど…………本業のほうかしら?」
「ええ、まぁそんなトコです」
少し意外そうな顔をする凪。
この失礼なメイドは、こう見えてバカみたいに強いのだ。白凪館に来てから今日まで、怪我らしい怪我をしているところなど、凪はほとんど見たことがなかった。それこそ総会襲撃事件の際、あの如何わしい魔女との戦いで手傷を負ったくらいだろうか。
「大丈夫なの?」
「ええ。見ての通りただの掠り傷ですから、問題ありませんよ」
一応の心配はしてみるものの、しかしけろりとした織羽の顔を見るに、本当に問題はないのだろう。
そう判断した凪は、この件についての追求をやめることにした。なにぶん授業中でもあったし、なにより『大丈夫』と言っている相手を過剰に心配するのは、それはそれで迷惑になることがあると凪は知っているからだ。
そこで話題を切り替えるため、凪は近頃見ないある人物についての話を振ってみた。
「そういえばあの子――――クロアもここ数日見ないわね」
「えっ、ああ…………そうですね。彼女はもうしばらくお休みのようですよ。理由は知りませんけれど。あはは」
「ふぅん…………」
なんとなく、本当になんとなくでしかないが――――この話題についても、やはり凪は追求しないことにした。




