第34話 守るべき相手
岡崎千尋は、
一度だけ空いている席を見た。
相馬公平は三組にいる。
戻ってきたら聞く。
そう決めた。
だから今、
そのことを考え続けても仕方がない。
けれど。
聞ける相手なら、もう一人いる。
岡崎は教室の中央へ目を向けた。
田所は手元の資料を眺めていた。
その横では水野が別の記録に目を通し、
桐島は椅子に座ったまま前方を見ている。
少し離れたところでは、
御影が交換日誌へ視線を落としていた。
瀬戸もいる。
岡崎は席を立った。
「田所」
田所が顔を上げる。
「あ、うん。何?」
いつもの調子だった。
岡崎は田所の近くまで行く。
「ちょっと確認したいことがあるんだけど」
「俺に?」
「うん」
田所は何度か頷いた。
「いいよ。何?」
岡崎は一度だけ言葉を選んだ。
責めるためじゃない。
聞かなかったままにしないためだ。
「あの状況確認のとき」
田所の表情は変わらない。
「相馬のこと、最初は『廊下で見た』って言ったよね」
「うん」
「そのあと、『見ただけじゃない。一緒にいた』って言った」
田所が瞬きをした。
「……うん」
「どういう意味だったの?」
短い沈黙。
田所は、
困ったように少し眉を下げた。
「どういうって」
それから、
思い出すように視線を上へ向ける。
「最初に聞かれたのって、見かけた人がいるか、だったよな?」
「そう」
「だから、相馬を廊下で見たって答えた」
田所は頷く。
一度。
それから、
もう一度。
「で、そのあと聞かれたのは、見ただけなのか、一緒にいた時間があるのか、って話だっただろ」
岡崎は答えなかった。
田所が続ける。
「だから、一緒にいたって答えた。一応、俺の中では言ってること変えてないんだけど」
岡崎は、
田所の言葉を頭の中で並べた。
最初の質問。
見かけた人物はいるか。
次の質問。
見かけただけなのか。
一緒にいた時間があるのか。
確かに違う。
最初の問いに、
相馬を見た。
と答える。
次の問いに、
相馬と一緒にいた時間がある。
と答える。
二つは両立する。
「……そういうことか」
岡崎が言うと、
田所は少し安心したように笑った。
「うん。たぶん、そういうこと」
「たぶん?」
「いや、質問の言い回しまでは全部覚えてないけど」
田所は慌てて手を振った。
「でも、意味はそうだったと思う。一応」
横から声が入った。
「それなら、別に矛盾はしない」
瀬戸だった。
いつから聞いていたのか。
たぶん、
最初からだ。
田所が瀬戸を見る。
「だよな?」
「質問が違うなら、答える範囲が変わることはある」
瀬戸はそれだけ言った。
岡崎も頷く。
「うん。私も、今の説明なら分かる」
胸の中にあった引っかかりが、
少しだけ形を変えた。
田所の二つの答え。
その違いだけなら、
説明はつく。
嘘だったとは言えない。
やはり自分は、
言葉の変化を大きく考えすぎていたのかもしれない。
そう思いかけた時。
「だからさ」
田所が言った。
岡崎は顔を上げる。
「これ、相馬を疑うような話じゃないと思うんだよ」
一瞬。
岡崎は返事が遅れた。
田所は続ける。
「いや、岡崎が疑ってるって言ってるわけじゃないよ」
早口ではない。
けれど、
さっきより言葉が続く。
「ただ最近、三浦のことも黒田のこともあるだろ。みんな色々考えるのは分かるけど」
田所は一度、
空いている相馬の席を見る。
「相馬の名前が出たからって、それだけで変に見るのは違うと思う」
「田所」
岡崎が呼ぶ。
「私、相馬が何かしたって言ってないよ」
「うん。分かってる」
田所はすぐに頷いた。
「分かってるんだけど」
そこで止まる。
数秒だけ。
「俺、一緒にいた時間があるのは本当だから」
岡崎は田所を見た。
さっき聞いた説明と、
内容そのものは変わっていない。
具体的な時間は言わない。
場所を増やしたわけでもない。
相馬の行動全部を知っているとも言っていない。
ただ。
田所は、
相馬の話だけを終わらせようとしていなかった。
むしろ、
言葉を足している。
「だから、あの答え方だけで相馬のことまで疑われるのは、ちょっと違うかなって」
瀬戸が田所を見る。
「誰もそこまで言ってない」
田所の口が止まった。
「あ」
それから、
小さく笑う。
「……そうだよな」
一度頷く。
「ごめん。ちょっと深く考えすぎた」
瀬戸は何も返さなかった。
水野が手元から顔を上げて、
田所と岡崎を見た。
桐島もこちらへ視線だけを向けている。
教室の空気が険しくなったわけではない。
誰かが田所を責めているわけでもない。
御影が静かに口を開いた。
「少なくとも」
全員の視線が向く。
「今あるのは、田所さんの二つの答えだけですよね」
「うん」
岡崎が答える。
御影は続けた。
「質問が違っていたなら、二つが両立する説明もできる」
「……そうだね」
「それ以上は、今の材料だけでは分からないと思います」
短い言葉だった。
田所は御影にも頷いた。
「そう。そうなんだよ」
少し早かった。
「だから、今の話だけで相馬をどうこうっていうのは――」
「田所」
今度は瀬戸だった。
田所が止まる。
瀬戸は淡々と言う。
「御影も、相馬をどうこうするって言ってない」
「……ああ」
田所が口を閉じた。
少しだけ気まずそうに笑う。
「ごめん」
岡崎は、
その様子を黙って見ていた。
最初にあった疑問には、
一応の答えが出た。
田所の説明は、筋が通っている。
それだけなら、
疑う理由にはならない。
なのに。
別のものが残っている。
誰も相馬を責めていない。
誰も相馬を告発しようとしていない。
そもそも、
今ある材料だけで誰かを告発できるような話でもない。
それなのに。
田所は、
相馬を守るための言葉を先に出した。
岡崎は、
そのことを口にはしなかった。
代わりに言う。
「田所。ありがとう」
「え?」
「聞きたかったことは分かった」
田所は、
少しだけ表情を緩めた。
「そっか。ならよかった」
「でも」
その顔が止まる。
岡崎は空いている席を見る。
「相馬にも聞くよ」
田所は何も言わなかった。
ほんの短い間だった。
それから、
何度か頷く。
「うん」
声はいつもと変わらない。
「それは、いいと思う」
岡崎が田所を見る。
田所は続けた。
「本人に聞いた方が早いし」
「うん」
「相馬なら、多分ちゃんと答えると思う」
また一つ。
言葉が増えた。
岡崎は、
今度はそれを聞き流さなかった。
だからといって、
何かが分かったわけでもない。
田所が嘘をついたとは言えない。
相馬が何かを隠しているとも言えない。
ただ。
田所が相馬をどう見ているのか。
その輪郭だけが、
さっきより少しはっきりした。
岡崎は自分の席へ戻る。
後ろでは、
田所も手元へ視線を戻していた。
水野が再び記録を読み始める。
桐島も前を向く。
御影は交換日誌へ戻り、
瀬戸は何も言わない。
教室はまた、
第三時限の時間へ戻っていく。
相馬はまだ三組にいる。
本人には、
まだ聞いていない。
田所の説明は通った。
だからこそ。
岡崎の中には、
別の問いが残った。
誰もまだ、
相馬を責めてはいない。
それなのに。
田所はもう、
相馬を守ろうとしていた。




