第一大隊厳戒態勢――妻の後輩につき――
王国軍第一大隊本部には、近頃、隊員たちの間でひとつの共通認識が形成されていた。
第一大隊長アルベルト・クロフォードの妻、リリア・クロフォードが姿を現した場合、何らかの事件が発生する。
愛妻弁当を届けに来れば第一種警戒態勢が発令され、少し家出をすれば王都全域が封鎖され、三年間にわたって秘匿されていた結婚が母親に発覚すれば、最終的には第一大隊八十名を巻き込んだ結婚式へと発展する。
もはや偶然とは言えない。
奥方様が動けば、事件が起きる。
※
「隊長」
午前十時十三分。
執務室へ入ってきた副官は、見るからに気の進まない表情を浮かべていた。扉を閉める動作まで妙に慎重で、まるでその向こうに危険物が待ち構えているかのようである。
アルベルトは手元の書類から顔を上げる。
「何だ」
「正門に、隊長のご自宅を訪ねてきたという少年が来ております」
「自宅を?」
「はい。奥方様に会いたいとのことです」
その時点では、アルベルトもさほど気に留めなかった。
リリアは、本人が自覚している以上に顔が広い。
孤児院の関係者、王宮の密偵、市場の店主、露店商、果ては巡回中の兵士に至るまで、本人が意識しないまま知り合いを増やしていく。本人に悪気はない。むしろ、相手が勝手に懐いてくるのだ。
「名は」
「ユリウス、と名乗っております」
ペン先が止まった。
副官は、さらに言葉を続ける。
「それと……」
「何だ」
「《白猫》の後輩だと」
沈黙が落ちた。
窓の外では、訓練場から兵士たちの掛け声が聞こえている。だが、執務室の中だけは、急に音が遠のいたようだった。
アルベルトは、静かにペンを置いた。
「連れてこい」
「こちらへ、ですか?」
「ああ」
「ご自宅ではなく?」
「絶対に家へ通すな」
声が一段低くなる。
副官は即座に姿勢を正した。
「了解しました」
第一大隊は、すでに学習している。
隊長がこの声を出したとき、余計な質問をしてはならない。
※
応接室へ通された少年を見た瞬間、アルベルトはわずかに眉を寄せた。
若い。
年齢は十七、八歳といったところだろうか。
淡い金髪は柔らかく整えられ、長い睫毛が中性的な顔立ちをいっそう際立たせている。薄い水色の瞳は穏やかに細められ、口元には人好きのする笑みが浮かんでいた。
服装も、ごく一般的な旅装に見える。
武器らしきものは見当たらない。
だが、武器を持っていないことと、武器を扱えないことは別だ。アルベルトは少年の指先、足の置き方、肩の力の抜け具合を順に観察した。隙がない。自然に見せているが、いつでも動ける姿勢だ。
「初めまして、アルベルト様」
少年は胸元で両手を合わせ、にこりと笑った。
「リリア先輩の後輩、ユリウスです」
可愛い。
あざといほどに可愛い。
「ずっとお会いしてみたかったんです。先輩の旦那様って、どんな方なのかなあって」
少年は、終始にこにこと笑っている。
アルベルトは無言のまま、ユリウスを見据えた。
「……そうか」
「はい♡」
駄目だ。
理由は説明できない。
しかし、長年軍人として培ってきた勘が、全力で警鐘を鳴らしている。
こいつは駄目だ。
笑顔が可愛らしいからではない。可愛らしい笑顔のまま、何を考えているのかまるで読めないからだ。
「それで、リリアに何の用だ」
「会いに来ただけですよ?」
ユリウスは小首を傾げた。
「久しぶりに近くまで来たので、先輩は元気かなと思いまして」
「最後に会ったのは」
「四年くらい前です」
アルベルトの目が細くなる。
リリアが組織を抜ける前。
つまり、彼女が暗殺者として活動していた頃だ。
「どういう関係だった」
「先輩と後輩です」
「それだけか」
「それだけですよ?」
完璧な笑顔だった。
「まあ、僕は先輩のことを世界で一番好きですけど」
笑顔のまま、とんでもない言葉が飛んできた。
アルベルトの眉間に深い皺が刻まれる。
「……何?」
「好きなんです」
「聞こえている」
「良かったです」
「良くない」
ユリウスは、不思議そうに瞬きをした。
「どうしてですか?」
「人妻だ」
「知っていますよ?」
「俺の妻だ」
「それも知っています」
「なら、問題だろう」
「僕には関係なくないですか?」
笑顔。
アルベルトのこめかみが引きつった。
少年は悪びれる様子もなく、テーブルの上に置かれた茶へ手を伸ばした。指先でカップの取っ手をなぞりながら、まるで世間話でもするように続ける。
「先輩は昔から、誰かに取られるような人じゃありませんでしたし」
「取ったつもりはない」
「そうですか?」
「リリアは選んで俺の隣にいる」
「先輩の意思で、でしょう?」
「当然だ」
「なら、僕にもまだ可能性はありますね」
「ない」
「即答なんですね」
「あると思うほうがおかしい」
「でも、先輩は僕のことを嫌いではありませんよ」
アルベルトは答えなかった。
それは事実だった。リリアは人を嫌うことが少ない。正確には、嫌うという感情を覚える前に、相手を無害か有害かで分類してしまう。ユリウスに対しても、警戒していないのだろう。
だからこそ、アルベルトは警戒していた。
そのときだった。
廊下から、軽い足音が近づいてくる。
「アルー?」
アルベルトの顔色が変わった。
なぜここにいる。
今日は母と王宮へ行っていたはずだ。
扉が開き、白銀の髪が覗く。
「副官さんから、私にお客さんがいるって――」
リリアが足を止めた。
ユリウスも動きを止める。
「先輩!」
少年の姿が消えた。
アルベルトが立ち上がるより早く、ユリウスはリリアへ飛びついていた。
「会いたかったぁ!」
「わ」
勢いのまま抱き締められ、リリアの身体がわずかに傾く。アルベルトは反射的に腰を浮かせたが、リリアが倒れないと判断すると、すぐに立ち上がるのをこらえた。
しかし、腕はいつでも伸ばせるよう、膝の上で固く握られている。
驚いたのは一瞬だけだった。
「ユリウス?」
「はい!」
「生きてたんだ」
「第一声がそれですか!?」
「だって、死んだと思ってた」
「先輩がいないのに、死ぬわけないじゃないですかぁ」
「そうなの?」
「そうですよ♡」
アルベルトは無言だった。
リリアの腰へ回された腕を見る。
細い。少年の腕に見える。だが、力の入り方が尋常ではない。抱擁を装いながら、相手の重心を完全に把握している。
「離れろ」
低い声が落ちた。
ユリウスが振り返る。
「あ」
まるで、今初めてアルベルトの存在を思い出したような顔だった。
「旦那様、いらしたんですね」
「最初からいた」
「すみません。先輩しか見えていなくて」
「離れろ」
「嫌です」
即答だった。
アルベルトの額に青筋が浮かぶ。
リリアは、二人を交互に見た。ユリウスの腕を外そうとするでもなく、アルベルトをなだめるでもなく、ただ不思議そうに首を傾げている。
「知り合いになった?」
「なっていない」
「なりましたよ♡」
返答が真逆だった。
※
結局、一行は食堂へ移動することになった。
理由は単純。
リリアが「お腹すいた」と言ったからだ。
アルベルトとしては、ユリウスを応接室に残したまま尋問を続けたかった。しかし、リリアが空腹を訴えた瞬間、彼女の足が食堂へ向かってしまった。こうなると、止めるより同行したほうが早い。
食堂にいた隊員たちは、三人の姿を見た途端、何も言わずに席を空けた。
「先輩、これ、昔から好きでしたよね?」
ユリウスが焼き菓子を差し出す。
「あ、好き」
「では、あーん」
リリアが素直に口を開く。
その直前、アルベルトの手が二人の間へ割り込んで焼き菓子を奪い取る。
「自分で食べろ」
「アル?」
「毒味だ」
「毒なんて入れていませんよ」
ユリウスは頬を膨らませた。
「先輩に毒を盛るわけないじゃないですかぁ」
「他の人間には?」
「必要なら」
笑顔だった。
食堂の空気が凍りつく。
遠くで皿を運んでいた隊員が、危うくそれを落としかけた。リリアだけは気にせず、アルベルトの手元を覗き込んでいる。
「アル、食べないの?」
「食べる」
アルベルトは焼き菓子を口に入れた。
甘い。毒はない。
だが、毒がないからといって安心できるわけではない。
「やはりお前、暗殺者だな」
「元、です」
「今は何をしている」
「色々です」
「具体的に答えろ」
「人探しとか、護衛とか、物を取り返したりとか」
「最後のは盗みではないのか」
「依頼主から見れば奪還です」
「相手から見れば窃盗だ」
「物事は、見る方向によって変わりますから」
「変わらん」
向かいでは、リリアが何事もなかったかのように焼き菓子を食べている。
緊張感がない。
アルベルトは彼女の横顔を見た。ユリウスが現れてから、リリアの表情はいつもよりわずかに柔らかい。昔を知る相手に会えたことが嬉しいのだろう。
その事実が、アルベルトの胸をざらつかせた。
嫉妬だと認めるには、まだ抵抗がある。だが、ユリウスがリリアに向ける視線が気に入らないことだけは、はっきりしていた。
「先輩」
「ん?」
「髪、伸びましたね」
「うん」
「可愛いです」
「ありがとう」
「結婚したんですね」
「したよ」
「聞いたとき、三日くらい寝込みました」
「風邪?」
「心です」
「心って風邪をひくの?」
「比喩です、先輩」
ユリウスは笑っていた。
だが、その水色の瞳がゆっくりとアルベルトへ向けられる。
「殺そうかなって思いました」
アルベルトの手が止まった。
周囲にいた第一大隊員たちも、一斉に動きを止める。
リリアだけが、変わらず菓子を食べ続けていた。
「ユリウス」
「はい?」
「アルを殺したら駄目だよ」
「分かっています」
「本当に?」
「先輩が悲しむから」
理由がおかしい。
「法律だから、倫理だからではないのか」
アルベルトが尋ねる。
ユリウスは、きょとんとした。
「法律? 倫理?」
「何でもない」
話が通じない。
アルベルトは頭痛を覚えた。
妻と同じ組織の出身者である。
その事実を、彼は一瞬忘れていた。
あの組織が、まともな倫理観を教えているはずがない。
「でも、安心しました」
ユリウスが頬杖をつく。
「何がだ」
「先輩が幸せそうだから」
その声だけが、少し違っていた。
あざとく作られていた笑顔が消え、ごく自然な表情が浮かぶ。
ユリウスは、リリアを見つめていた。
「昔の先輩って、何でもできたけど、何も欲しがらなかったじゃないですか」
リリアが瞬きをする。
「そうだった?」
「そうですよ」
食べ物を与えれば食べる。
眠れと言われれば眠る。
殺せと言われれば殺す。
けれど、自分から何かを欲しがることは、ほとんどなかった。
ユリウスにとっての《白猫》は、誰よりも強く、誰よりも美しく、そしてどこか空っぽな人だった。
だから好きだった。
たぶん、狂ってしまうほどに。
「今は違いますね」
「何が?」
「いっぱい持っています」
ユリウスの視線が、ゆっくりと周囲を巡る。
菓子。
緩んだ表情。
隣に座る夫。
騒がしくも温かな第一大隊。
「良かった」
ほんの一瞬だけ、年相応の少年の顔になった。
リリアは、しばらく彼を見つめていた。
「ユリウスも食べる?」
自分の皿から菓子を差し出した。
ユリウスの瞳が大きく見開かれる。
「……くれるんですか?」
「うん」
「先輩が?」
「いらない?」
「いります!」
ユリウスは、両手で大切そうに受け取った。
途端に、先ほどまでの静かな空気が吹き飛ぶ。
「一生保存します!」
「食え」
アルベルトが即座に言った。
「嫌ですよ! 先輩が僕にくれたんですよ!?」
「ただの菓子だぞ」
「家宝です!」
「腐る!」
「防腐処理します!」
「するな!」
リリアが笑い出した。
ユリウスも笑う。
アルベルトだけが、深く額を押さえた。
その様子を見ていた隊員たちは、誰も口を挟まなかった。隊長が完全に振り回されている。しかも、奥方様は楽しそう。
この状況を邪魔するほど、命知らずな者はいなかった。
※
帰るというユリウスを、リリアは門まで見送った。
「また来てもいいですか?」
「いいよ」
「駄目だ」
背後から、アルベルトが即答した。
「アル」
「何だ」
「私のお客さんだよ」
「俺を殺そうとした人間を、家へ招くな」
「思っただけですよ」
ユリウスが可愛らしく唇を尖らせる。
「口に出しただろう!」
「実行していません」
「当たり前だ!」
「旦那様って、細かいですね」
「お前が大雑把すぎる!」
ユリウスはくすくす笑うと、リリアへ向き直った。
「では、先輩。また」
「うん」
「大好きです♡」
「ありがとう」
「愛しています♡」
「うん」
「一緒に逃げませんか?」
「行かない」
即答だった。
ユリウスが固まる。
アルベルトも、一瞬だけ目を見開いた。
リリアは何でもないことのように続ける。
「私、アルと一緒にいるから」
「……」
「それに、仕事もあるし。お母様と今度お菓子を食べに行く約束もあるし、孤児院にも行く予定があるし」
指を折りながら、これからの予定を数えていく。
昔のリリアなら、決して持っていなかったものばかりだった。
「だから、行かないよ」
ユリウスはしばらく黙っていた。
やがて、困ったように笑う。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、仕方ないですね」
「またね」
「はい」
数歩離れてから、ユリウスが振り返った。
「旦那様」
「何だ」
笑顔。
先ほどまでと同じ、愛らしく完璧な笑顔だった。
「先輩を泣かせたら、殺しますからね♡」
アルベルトの目が据わる。
「お前に言われるまでもない」
「あ」
ユリウスが瞬きをする。
アルベルトは、リリアの肩を抱き寄せた。
「泣かせるつもりなどない」
その言葉に、リリアがわずかに目を見開いた。
アルベルトは普段、こういうことを人前で口にしない。ましてや、妻を守ると宣言するような言葉を、かつての同僚へ向けて言うなど、なおさらだった。
だが、ユリウスの視線があまりにも真剣だったから、曖昧に済ませる気にはなれなかった。
ユリウスはじっと彼を見つめたあと、ふっと笑った。
「……やっぱり、今は殺さなくてもいいかな」
「今後も殺すな」
「善処します」
「約束しろ!」
「では、また♡」
ユリウスは、そのまま逃げるように去っていった。
「待て!」
追おうとしたアルベルトの袖を、リリアが掴む。
「アル」
「離せ。あいつには一度、倫理観というものを―――」
「嫉妬した?」
アルベルトの動きが止まった。
リリアが下から顔を覗き込んでいる。
紫色の瞳が、面白そうに輝いていた。
「していない」
「したでしょ」
「していない」
「抱きついたとき、怒ってた」
「あれは警戒だ」
「お菓子も取った」
「毒味だ」
「あーんも止めた」
「……」
「嫉妬?」
「違う」
耳が赤い。
リリアの口元が緩む。
「アル、かわいい」
「言うな」
「かわいい」
「リリア」
「好き」
アルベルトが黙り込む。
ずるい。
こういうところだけは、昔からまるで変わらない。
結局、アルベルトは深く息を吐くと、妻の頭を片手で引き寄せた。逃げ道を塞ぐような仕草なのに、触れ方はひどく優しい。
「……俺もだ」
「何が?」
「分かっているだろう」
「ちゃんと言って」
「帰るぞ」
「アルー」
「帰ったら言う」
「今言って」
「門の前だ」
「誰もいないよ」
「いる」
アルベルトが視線を向けると、門番の兵士が慌てて顔を背けた。少し離れた場所では、見回りを装った隊員が三人、明らかにこちらを気にしている。
リリアはそれを見て、楽しそうに笑った。
「じゃあ、帰ったらね」
二人の声が、ゆっくりと遠ざかっていく。
※
その日の第一大隊の日誌には、次のように記された。
『午前十時二十三分。
奥方様の元同僚を名乗る人物、来訪。
元暗殺者。
奥方様への異常な執着あり。
隊長への殺害予告あり。
実害なし。
第一種警戒態勢―――』
そこまで読んだアルベルトは、勢いよく机を叩いた。
「発令していない!」
記録係が震え上がる。
「ですが隊長! 最近の傾向から判断しますと!」
「傾向だけで警戒態勢を発令するな!」
「では、備考欄に記載を!」
「何を書くつもりだ!」
「奥方様の交友関係に関する危険度、極めて高し、と」
「余計なことを書くな!」
※
第一大隊内の非公式危険人物一覧に、新たな名前が加えられた。
第一位。
リリア・クロフォード。
第二位。
エレノア・クロフォード。
第三位。
ユリウス。
その一覧を発見したアルベルトによって、作成者は外周三十周を命じられた。
ちなみに、リリアは自分が第一位であることを知り、少しだけ喜んだ。
「私、アルより危険なんだ」
「喜ぶな」
「でも、強そう」
「強い弱いの話ではない」
「じゃあ、何の話?」
「お前が事件を起こすという話だ」
「起こしてないよ」
「お前が動くと起きる」
「偶然だよ」
「偶然が多すぎる」
リリアはしばらく考えたあと、納得したように頷いた。
「じゃあ、これからも気をつけるね」
アルベルトは、嫌な予感を覚えた。
「何をするつもりだ」
「何もしないよ」
「その言い方をするときのお前は、だいたい何かする」
「アルは心配性だね」
「お前が無警戒すぎる」
リリアがくすくすと笑う。その笑顔に、もはや何も言えなかった。
※
翌朝、第一大隊本部へ、可愛らしい便箋に包まれた手紙と、大量の焼き菓子が届いた。
『先輩より下なんて光栄です♡』
アルベルトは手紙を燃やそうとした。
リリアが止めた。
「焼き菓子は?」
「食べる」
「手紙は?」
「捨てる」
「駄目」
「なぜだ」
「ユリウスが一生懸命書いたから」
「殺害予告を書いた相手だぞ」
「でも、私の後輩だよ」
「……」
アルベルトは反論できず、手紙を机の端へ置いた。
リリアは満足そうに笑い、焼き菓子をひとつ口に入れる。
「美味しい」
「毒味をする」
「もう食べたよ」
「なら、次は俺が食べる」
「アルも食べたいの?」
「違う。確認だ」
「嫉妬?」
「違う」
「かわいい」
「言うな」
クロフォード家と第一大隊は、今日も概ね円満である。




