結婚式につき、逃走経路封鎖中。
王国軍第一大隊長アルベルト・クロフォードは、戦争というものを熟知している。
敵軍の兵力を分析し、地形を読み、補給経路を確保し、相手の行動を予測した上で、最善の配置を整える。
優れた指揮官とは、起こり得る事態を事前に想定できる人間だ。
その点において、アルベルトは王国でも屈指の存在だった。
だからこそ。
「どうして俺の結婚式に、軍用の警備計画書が存在するんだ」
クロフォード侯爵邸の応接室で、アルベルトは人生でも類を見ないほどの疲労を滲ませながら、一枚の書類を見下ろしていた。
紙面上部には、達筆な文字でこう記されている。
『結婚式当日警備配置及び花嫁逃走防止計画』
「必要だからです」
向かいのソファで紅茶を飲むエレノアは、平然としていた。カップをソーサーへ戻す動作にも、微塵の迷いがない。
「必要ありません」
アルベルトが即座に切り返すと、エレノアは瞬きひとつせずに答えた。
「必要です」
「結婚式ですよ」
「承知しています」
「敵襲ではない」
「敵襲より厄介でしょう」
エレノアの灰色の瞳が、ゆっくりと横へ向く。
その視線を追うように、アルベルトも顔を動かした。
窓辺では、問題の花嫁がカーテンの隙間から庭を観察していた。白銀の髪が揺れるたび、まるで本当に戦場を偵察しているように見える。
「……東側に二人。北門に四人。屋根にもいる」
「リリア」
アルベルトが低く呼びかけると、リリアは振り返りもせずに返事をした。
「何?」
「何をしている」
「警備の穴を探してる」
悪びれる様子もない。
アルベルトはゆっくりと目を閉じた。怒鳴る気力すら、少しずつ削られていく。
「なぜだ」
「逃げるため」
「なぜ逃げる!」
思わず声を荒らげると、リリアはようやく窓から離れた。白銀の髪を揺らしながら振り返り、非常に真剣な表情を浮かべる。
「昨日、ドレスの試着が四時間だった」
「ああ」
アルベルトが相槌を打つと、リリアは指を一本立てた。
「一昨日は食事作法の練習が三時間」
「ああ」
「その前は挨拶の練習」
「ああ」
「結婚って、こんなに大変なの?」
「普通は結婚する前にやるんだ!」
思わず身を乗り出して反論すると、リリアも負けじと眉を寄せた。
「私たち、もう三年くらい結婚してるじゃん!」
もっともな意見だった。
だが、もっともだからこそ腹立たしい。
そもそも彼らが婚姻届だけで済ませた結果が、この大騒動なのだった。
「それに」
リリアは不満そうに眉を下げると、自分の腰を両手で抱えた。
「ドレス、苦しい」
「コルセットですね」
エレノアが紅茶を一口飲んでから、淡々と補足する。
「敵に襲われたら動けないです」
「襲われません」
「短剣も隠せない」
「隠さなくて結構です」
「お母様」
「何でしょう」
「結婚式って危険」
リリアが真剣に訴えると、エレノアはわずかに首を傾げた。
「あなたにとって、世の中の行事はすべて戦闘なのですか?」
リリアは少し考えた。視線を天井へ向け、これまでの経験を思い返しているらしい。
「だいたい」
「違います」
エレノアは間髪入れずに否定した。
そのまま深々と息を吐き、額を押さえる。
最近、この二人の会話を聞いているだけで頭痛がする。
さらに恐ろしいことに、当初こそ逃走を企てていたリリアは、この一か月ですっかりエレノアに懐いてしまっていた。
礼儀作法の稽古が終われば二人で茶を飲み、エレノアが王都へ出れば当然のようについていく。
ドレスを選びに行けば、「お母様、これは?」「駄目です」「では、これは」「もっと駄目です」と朝から夕方まで続く。
先週など、アルベルトが軍務から帰ると、リリアは母親から贈られた髪飾りを嬉しそうに見せてきた。
嫁姑関係が良好なのは結構だ。
実に結構なのだが、なぜか二人の仲が深まるほど、自分への風当たりだけが強くなっている。
「母上」
アルベルトが書類から顔を上げると、エレノアは何事もなかったかのように彼を見た。
「何です?」
「警備兵二十名は多すぎます」
「四十名です」
「増えている!」
思わず立ち上がりかけたアルベルトに、エレノアは涼しい顔で続けた。
「第一大隊からも協力を得ました」
アルベルトの顔から表情が消えた。
「……何?」
その瞬間、応接室の扉がこんこん、と控えめに叩かれた。
嫌な予感がした。
非常に嫌な予感だった。
「失礼します」
入ってきたのは副官だった。
なぜか礼装である。
アルベルトは副官の姿を上から下まで眺め、それからゆっくりと視線を戻した。
「お前」
「はい」
「なぜここにいる」
「奥方様逃走防止班の打ち合わせに」
「何だ、その班は!」
怒声が屋敷中に響き渡った。
副官の肩が跳ねる。しかし、その後ろからさらに三人の兵士が顔を出した。彼らはそれぞれ、まるで任務を受けた兵士のように真剣な顔をしている。
「隊長、我々は屋根を担当します」
「俺は北門を」
「地下通路は封鎖済みです!」
「軍を私事に使うな!!」
アルベルトが叫ぶと、副官は一歩前へ出て、必死に反論した。
「ですが、隊長!」
「何だ!」
「奥方様を一般の警備兵だけで止められると思いますか!?」
アルベルトは黙った。
反論しようと開きかけた口が、そのまま閉じる。
室内も静まり返った。
やがて、全員の視線がリリアへ向く。
当人は、いつの間にかテーブルの焼き菓子を食べていた。視線を集めても気にする様子はなく、二つ目へ手を伸ばしている。
「……無理だな」
「でしょう!?」
副官が勢いよく頷く。
「納得しないでよ、アル」
リリアが頬を膨らませると、アルベルトは彼女を指差した。
「お前がついこの間、王都封鎖を突破しかけた実績を持っているからだ!」
「もう終わった話じゃん」
「数か月も経っていない!」
「終わったなら昔だよ」
「時間の区切り方がおかしい!」
元暗殺者の時間感覚はおかしい。
そこへエレノアが優雅に書類をめくった。紙の擦れる音が、妙に冷静な空気を作り出す。
「念のため、煙玉対策として風魔術師を二名配置します。変装対策として、招待客の顔写真も各警備担当へ」
「軍事作戦より徹底している!」
アルベルトが頭を抱えると、エレノアは当然のように答えた。
「当然です」
「何が当然なんです!」
エレノアは静かに息子を見た。その視線には、呆れと確信が同居している。
「一度、逃げたでしょう。この方」
「家出の話をするな!」
「逃げたね」
リリアまで頷いたため、アルベルトは両手を広げた。
「お前も肯定するな!」
リリアはくすくす笑いながら、アルベルトの袖を掴んだ。指先で布地を弄びながら、少しだけ声を落とす。
「でも、大丈夫だよ。今回は逃げない」
アルベルトの動きが止まる。
「……本当か?」
「うん」
「本当に?」
「たぶん」
「なぜ最後に不安を残す!」
思わず身を乗り出すと、リリアは困ったように笑った。
「だって、ドレスを着てみたらちょっと楽しみになったから」
その言葉に、アルベルトの表情がわずかに緩む。
「お母様がね、髪も綺麗にしてくれるって。花もいっぱい用意してくれるって言ってた」
「……そうか」
「アルも礼装を着るんでしょ?」
「ああ」
「似合いそう」
「まだ見ていないだろう」
「絶対似合うよ」
何の根拠もないくせに断言する。
それでも、その笑顔を見てしまえば、アルベルトはそれ以上何も言えなかった。
結局のところ、この男は昔からこの顔に弱い。
その様子をエレノアが眺めていた。書類を閉じる音が、妙に満足げに響く。
「では、警備計画はこのままで」
「待ってください」
感動に乗じて押し切ろうとするなと懇願する息子をエレノアは完全に無視した。
アルベルトが崩れ落ちる。
リリアが笑った。
※
そして結婚式当日。
クロフォード侯爵邸には、朝から三百名を超える招待客が集まっていた。
花で飾られた庭園。白い椅子。楽団。王国軍上層部。貴族。親族。
そしてなぜか、第一大隊の兵士たち。
一方、その頃。
花嫁控室では、侍女が悲鳴を上げていた。
「奥様! 窓から離れてください!」
「見るだけ」
「片足が外に出ています!」
「空気吸おうかなって」
「二階です!」
純白のドレス姿のまま、リリアは窓枠に片足を掛けていた。
コルセットに締めつけられ、大勢の侍女に髪を結われ、顔を整えられ、さらに「式が始まるまで動かないでください」と言われて二十分。
限界だった。
元暗殺者にとって、同じ場所に二十分座り続けるという行為は、拷問に近い。
「ちょっと庭を一周して戻ってくるだけ」
リリアが窓の外へ身を乗り出そうとすると、侍女が慌ててその腕を掴んだ。
「駄目です!」
「五分」
「駄目です!」
「三分」
「交渉しないでください!」
そのとき扉が開いた。
エレノアだった。
窓枠に足を掛けた花嫁と、泣きそうな侍女たちを一瞥する。
エレノアが一歩近づくと、リリアはわずかに身を引いた。
「リリアさん」
「はい」
「そこから降りなさい」
「……はい」
即座に従った。
侍女たちは心底ほっとした。張り詰めていた肩が、一斉に下がる。
最近、この屋敷で元暗殺者を最も確実に制御できる人間は、夫ではなく姑なのではないかという説が出始めている。
もっとも、床へ降りたリリアは不満そうに頬を膨らませた。
「じっとしてるの苦手です」
「知っています」
「人も多いです」
「三百十二名です」
「増えてる」
「あなたが第一大隊全員に声を掛けたからでしょう」
「あ」
本人は忘れていた。
エレノアは小さく息を吐くと、リリアの前へ歩み寄った。
白銀の髪に挿された髪飾りを確かめ、少し傾いていたヴェールを直す。指先は手慣れていて、リリアも今度は大人しくされるがままになっていた。
「怖いですか?」
思いがけない問いに、リリアは瞬きをした。
「怖くはないです」
少し考えてから、窓の向こうへ目を向ける。
「でも、変な感じ。こんなにたくさんの人の前で、武器も持たないで、逃げ道も決めないで歩くのって初めてだから」
暗殺者だった頃ならあり得なかった。
知らない人間が三百人いる場所へ、動きにくい服で、武器もなく、自ら姿を晒して入っていく。
それは彼女が身につけてきた生存の常識と、何もかもが正反対だった。
エレノアはしばらく黙ったあと、リリアのヴェールをそっと撫で、穏やかに言った。
「今日は逃げ道を考えなくていいのですよ」
「どうして?」
「何かあれば、アルベルトがいます」
リリアは目を丸くした。
それから、ふっと笑う。
「それなら大丈夫かも」
「ええ」
「でもアル、こういう日に限って先に倒れそう」
「それは否定できませんね」
母と嫁は揃って頷いた。
※
その頃、当のアルベルトは。
「なぜ全員いる」
控室の窓から第一大隊を見下ろし、低い声を出していた。
庭に並ぶ兵士たちは、誰もが妙に誇らしげな顔をしている。
副官が咳払いをする。
「招待されましたので」
「俺は八十名も招待した覚えはない」
「奥方様が『みんな来てね』と」
「リリア!」
別室にいる花嫁へ届くはずもない怒声が響いた。
直後、伝令役の兵士が飛び込んできた。息を切らしながら敬礼する姿に、アルベルトの嫌な予感が再び膨らむ。
「隊長!」
「今度は何だ!」
「奥方様が窓から!」
アルベルトの顔色が変わった。
「逃げたのか!?」
「いえ、奥方様のお母上が制圧しました!」
「誰の母だ!」
混乱で関係性までおかしくなっている。
副官が肩を震わせた。
「笑うな!」
「まだ何も言ってません!」
「顔が笑っている!」
そんな中、扉が開いた。
「アルベルト」
エレノアだった。
「時間です」
その一言で、アルベルトの背筋が伸びる。
エレノアは息子の礼装を一度眺め、襟元をわずかに直した。
「悪くありません」
「ありがとうございます」
「顔が硬いですね」
「……緊張はしていません」
「先ほど花嫁が窓から逃走しかけたと聞いても?」
「母上!」
やはり報告済みだった。
「未遂です」
「未遂でもです!」
「今は大人しくしています」
それがもっとも信用できない。
だが、もう時間だった。
庭へ出ると、大勢の視線が集まった。
戦場なら何千人に見られても平気なのに、今日は妙に落ち着かない。
やがて楽団の音が変わった。
白い花が敷き詰められた道の向こうに、リリアが現れる。
アルベルトは息を止めた。
純白のドレスには繊細な銀糸が縫い込まれ、白銀の髪には小さな花が編み込まれている。薄いヴェールの向こうで、紫色の瞳が光を受けて輝いていた。
いつものように走ってこない。
壁も登らない。
短剣も持っていない――おそらく。
きちんと歩いてくる。
アルベルトまであと三歩。
そこでリリアの視線が横へ動いた。
アルベルトの心臓が跳ねる。
庭の塀。
その向こうへ続く大樹。
屋根まで届く枝。
完全な逃走経路だった。
リリアの足が、ほんのわずかにそちらへ向く。
前列にいた第一大隊の兵士たちが一斉に身構えた。
屋根担当が腰を浮かせる。
北門担当が目で合図を送る。
風魔術師が杖へ手を掛けた。
アルベルトのこめかみに青筋が浮いた。
―――頼むから真っ直ぐ来い。
声には出せない。
出したら結婚式が台無しである。
リリアは大樹を見た。
次に警備兵を見た。
最後にアルベルトを見た。
そして、にこりと笑って元の道へ戻った。
第一大隊全員が、目に見えて安堵した。
「……今、逃げようとしただろう」
隣まで来た妻へ小声で尋ねる。
「ちょっとだけ」
「ちょっとでもするな」
「行けるかなって思って」
「試すな!」
「でも行かなかったよ」
「褒めないぞ」
「えー」
リリアが唇を尖らせたところで、司祭が咳払いをした。
式が始まった。
誓いの言葉。
指輪の交換。
さすがのリリアもその間は神妙な顔をしていた。
もっとも、アルベルトが指輪を嵌めようと手を取った瞬間、反射的に手首を返され、危うく関節を極められかけた。
「リリア」
「あ、ごめん。反射」
「結婚式で夫を制圧するな」
前列から、耐えきれなかった誰かの噴き出す音が聞こえた。
続いて誓いの口づけ。
そこで初めて、リリアが少しだけ緊張した。指先がわずかに強張り、アルベルトの袖をつまむ。
「アル」
「何だ」
「みんな見てる」
「今さらだろう」
「三百人いる」
「お前が増やしたんだ」
「目閉じたら見えない?」
「そういう問題ではない」
それでも、アルベルトが顔を近づけると、リリアは素直に瞼を閉じた。
触れるだけの口づけ。
ほんの一瞬だった。
だが離れた途端、リリアは嬉しそうに笑った。
「アル」
「何だ」
「もう一回していい?」
「駄目だ」
「なんで?」
「式が進まん!」
今度こそ第一大隊から笑いが漏れた。
「笑うな!」
「アルベルト」
背後から、母の冷たい声が飛んでくる。
「式の最中です」
「……はい」
なぜ自分だけ怒られるのか。
※
披露宴も、当然ながら平穏には終わらなかった。
リリアは料理を見るたび席を立とうとし、エレノアに戻され、第一大隊の卓へ遊びに行こうとしてアルベルトにドレスの裾を踏まれ、途中で庭の猫を見つけて追いかけかけた。
「猫」
リリアが椅子から腰を浮かせると、アルベルトはすぐにその手首を掴んだ。
「駄目だ」
「触るだけ」
「戻ってくる保証がない」
「あるよ」
「窓から出ようとした女の保証を誰が信じる!」
「アル、今日ずっと怒ってるね」
「誰のせいだ!」
それでも、祝いの言葉を受け、見慣れた兵士たちに囲まれ、エレノアが選んだ花々に目を輝かせるリリアは、ずっと楽しそうだった。
アルベルトはそんな妻を横目で見ながら、ようやく肩から力を抜いた。
準備に一か月。
警備兵四十名。
第一大隊八十名。
風魔術師二名。
母による作法教育。
花嫁逃走防止計画。
胃薬、十二回。
そして当日の逃走未遂、一回。
失ったものは多い。
だが、隣で幸せそうに笑う妻と、その姿を少し離れたところから穏やかに見つめる母を見ていると、まあ、悪くはないと思えた。
「アル」
「何だ」
「結婚式、楽しいね」
「……そうだな」
「またやる?」
「二度とやらん」
即答だった。
第一大隊が爆笑した。
エレノアが額を押さえた。
そしてリリアは、今日一番楽しそうに笑った。
式の終了後。
第一大隊公式記録には、次の一文が追加された。
『午後十四時十三分。
第一大隊長アルベルト・クロフォード夫妻、結婚式を挙行。
花嫁逃走未遂、一件。
逃走阻止、一件。
最終的な逃走なし。
警備計画、成功。』
翌朝、それを読んだアルベルトによって、記録係は外周三十周を命じられた。
エレノアは処分の取り消しを命じた。
リリアは記録を額装して自宅へ飾った。
アルベルトだけが最後まで反対した。
もちろん、誰も聞かなかった。
クロフォード家は今日も概ね円満である。
そして王国軍第一大隊長は、この結婚式によって学んだ。
敵軍より恐ろしいものはある。
元暗殺者の妻でもない。
国王でもない。
結婚式でもない。
―――結婚式を本気でプロデュースする母親である。




