最凶夫婦、母上に見つかる。
アルベルト・クロフォードが、人生で最も恐れているものは何か。
敵軍ではない。
暗殺者でもない。
王国軍第一大隊長という立場にある以上、命を狙われることは珍しくなかった。寝室へ暗殺者が侵入してきた経験すらある。
ちなみにその暗殺者は現在、彼の妻である。
では国王かといえば、それも違う。
かつて夫婦喧嘩の末に王都を封鎖し、玉座の前へ夫婦揃って呼び出された際には、「お前たちは一般市民の規模で夫婦喧嘩ができんのか!」と厳しく叱責された。
しかし国王は、少なくとも話が通じる。
軍法会議も恐ろしくはない。
敵国の精鋭部隊も恐ろしくはない。
ただ、王国軍第一大隊長アルベルト・クロフォードには一人だけ、できることなら完全武装した状態で対峙したい女性がいた。
「……母上が来る」
朝食の席で発せられたその一言に、向かいでパンへ蜂蜜を塗っていたリリアが顔を上げた。
「お母さん?」
「ああ」
「アルの?」
「他に誰がいる」
「知らない。急に言うから」
リリアは首を傾げると、再びパンへ視線を落とした。蜂蜜で猫の顔を描いている。
緊張感がない。
まったくない。
対してアルベルトの眉間には、朝食開始時には存在しなかった皺が、すでに二本増えていた。
「いつ来るの?」
「今日だ」
「へえ」
「昼過ぎ」
「急だね」
「昨日、手紙が来た」
「なんて?」
アルベルトは答えなかった。
リリアが顔を上げる。
「アル?」
「……『明日伺います』」
「それだけ?」
「それだけだ」
「短いね」
「母上が本当に怒っている時の手紙は短い」
「怒ってるの?」
「……おそらく」
「なんで?」
純粋な疑問だった。
アルベルトは妻を見た。
白銀の長い髪。
紫色の瞳。
朝から機嫌よく蜂蜜で猫を描いている、二十三歳の元暗殺者。
この女と自分は、正式に婚姻している。
問題は―――。
「リリア」
「ん?」
「俺たちが結婚した時」
「うん」
「母上に挨拶をしたか?」
リリアは考えた。
かなり長く考えた。
「……してないね」
「ああ」
「アルのお父さんにも?」
「していない」
「結婚式は?」
「挙げていない」
「そうだね」
ここまで来ても、リリアには危機感がなかった。
「じゃあ、お母様はどうやって私たちが結婚したって知ったの?」
「新聞だ」
「新聞?」
「王都封鎖の記事だ」
リリアの手が止まった。
アルベルトの声は淡々としていたが、その瞳からは完全に光が消えていた。
「記事に『第一大隊長夫妻』と書かれていた。それを読んだ母上から、三日後に手紙が届いた」
「なんて?」
アルベルトは遠い目をした。
「『母は息子の結婚を新聞で知りました』」
「…………」
「その一行だけだ」
さすがのリリアも、少しだけ表情を引きつらせた。
「……怖いね」
「分かったか」
「うん」
「今さらか!」
アルベルトの怒声が朝の食卓へ響く。
リリアはびくりと肩を揺らしたあと、パンを持ったまま眉を寄せた。
「でも、アルも挨拶してないじゃん」
「…………」
「私だけ怒られるの?」
「…………」
「ねえ」
「俺も怒られる」
「よかった」
「何がだ!」
一人で死ぬのではないと分かって安心したらしい。
アルベルトは額を押さえた。
それでも、今回に限っては反論できない。
そもそも結婚式を挙げなかったのも、正式な婚約期間を設けなかったのも、二人の意向だった。
リリアには家族がいない。
幼い頃から暗殺者として育てられ、『結婚式』というものに特別な夢もなかった。
アルベルトも豪奢な式典を好む性格ではない。
ならば婚姻手続きだけ済ませればいいと、二人で決めた。
そこまではいい。
問題は、アルベルト自身があまりにも自然にリリアとの生活を始めてしまい、実家への報告を完全に忘れていたことだった。
王国軍第一大隊長、二十九歳。
軍略、統率、戦闘、危機管理において王国でも指折りの男。
そんな彼が犯した、人生最大の報告漏れである。
「リリア」
「なに?」
「一つだけ頼む」
アルベルトは真剣な顔をした。
「普通にしてくれ」
リリアが瞬きをする。
「普通だよ?」
「その認識が一番不安なんだ」
「失礼だなあ」
「母上の前で窓から出るな」
「出ないよ」
「壁を登るな」
「登らない」
「武器を抜くな」
「必要なければ」
「必要でも抜くな」
「襲われても?」
「母上に襲われる前提で話すな!」
「でも嫁姑戦争って言うじゃん」
「物理戦ではない!」
なぜそんな言葉だけ知っているのか。
アルベルトの胃は、昼前にしてすでに限界へ近づいていた。
※
午後二時。
官舎前へ、クロフォード侯爵家の紋章を掲げた黒い馬車が止まった。
アルベルトの背筋が伸びる。
横に立つリリアも、それを真似してぴんと背筋を伸ばした。
「アル」
「何だ」
「私、今ちゃんとしてる?」
「ああ」
「手は?」
「前で組め」
「短剣抜きにくい」
「抜くなと言っただろう!」
小声で揉めている間に、馬車の扉が開いた。
女性が降りてくる。
銀を帯びた淡い金髪は隙なく結い上げられ、深い紺色のドレスは、華美ではないのに一目で上質と分かる。細身の身体を包む立ち姿には微塵の乱れもなく、灰色の瞳は冷静で鋭い。
年齢を重ねた気品というものが、人の姿を取って歩いているような女性だった。
リリアは素直に思った。
綺麗。
そして、目がアルに似ている。
「母上」
アルベルトが一歩進み出る。
「ご無沙汰しております」
「ええ」
エレノア・クロフォードは息子へ一度だけ頷いた。
そして、静かに告げる。
「ずいぶんご無沙汰でしたね」
「…………はい」
「ご結婚なさる程度には」
「…………申し訳ありません」
第一撃。
アルベルトの防御を貫通した。
リリアは横で感心した。
笑顔なのに怖い。
これは新しい。
「それで」
エレノアの視線が動いた。
リリアを見る。
頭から足先まで、ゆっくりと、隙なく観察する。
元暗殺者の本能が反応した。
リリアもエレノアを観察する。
重心、視線、呼吸、右手に武器らしい膨らみはない。
戦闘経験は―――。
「リリア」
低い声が横から飛んだ。
「何?」
「母上を敵戦力として分析するな」
「してないよ?」
「目を見れば分かる!」
エレノアの眉が僅かに上がった。
「初めまして」
その声音は優雅だった。
「エレノア・クロフォードです」
「リリアです」
リリアも笑った。
「アルのお母さん?」
沈黙。
アルベルトが、ゆっくり目を閉じた。
「リリア」
「何?」
「敬語」
「あ」
忘れていた。
リリアは慌てて姿勢を正す。
「アルのお母様ですか?」
「言い直せば済む問題ではない」
「難しいね」
「何がだ!」
玄関先で夫婦漫才が始まる。
エレノアはしばらく二人を見ていた。
怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ静かに呟いた。
「なるほど」
アルベルトは嫌な予感がした。
「何がでしょう」
「あなたが結婚したことより」
エレノアは息子を見る。
「結婚後に急速に老けた理由が分かりました」
「母上!」
「アル、老けたの?」
「お前は黙っていろ!」
「私のせい?」
「九割はそうだ!」
「ひどい!」
エレノアはほんの少し、口元を緩めた。
※
客間へ移動してからも、裁判は続いた。
紅茶が出され、焼き菓子が並べられ、エレノアが優雅にカップを持つ。
「では」
カップの縁から灰色の目だけが二人へ向く。
「改めて伺います」
アルベルトの背筋が伸びた。
「なぜ、結婚式を挙げなかったのです?」
「必要性を感じなかったためです」
アルベルトが答えた。
「リリアに家族はおらず、俺も盛大な式典を望んでいません。二人で話し合った結果――」
「なるほど」
エレノアは頷いた。
「式を挙げない。そこまでは理解しました」
「はい」
「では」
微笑む。
「親への報告をしない理由は?」
「…………」
「…………」
夫婦揃って黙った。
「式を挙げないことと、母親へ『結婚します』の一言も言わないことには、何か深い関連性が?」
「ありません」
「そうでしょうね」
即死だった。
リリアが横からアルベルトを見る。
「アル」
「何だ」
「怒られてるね」
「お前もだ!」
「私、お母様の連絡先知らなかったもん」
「俺は知っていた!」
「じゃあアルのせいじゃん」
「…………」
エレノアが紅茶を飲む。
「そこの妻の言う通りです」
「母上」
「あなたが九割悪い」
「さっきリリアが九割だったのに」
「内容が違います」
「アル、九割仲間だね」
「嬉しくない!」
この家の嫁姑は、初対面から妙に息が合っていた。
「それにしても」
エレノアはリリアを見る。
「私はあなたについて、ほとんど新聞で知ったのですが」
「あ」
リリアが少し気まずそうな顔をした。
「申し訳ありません」
初めて、きちんと謝った。
エレノアの目が僅かに柔らかくなる。
「最初の記事は『元暗殺者《白猫》、王国軍第一大隊長と婚姻』」
「はい」
「次が『第一大隊長夫妻、王都封鎖騒動』」
「はい」
「その次が『第一級警戒態勢、原因は大隊長夫人の愛妻弁当』」
「…………はい」
アルベルトは片手で顔を覆った。
改めて並べられると、ひどい。
「母上」
「何?」
「最後の件は軍が勝手に――」
「あなた」
「はい」
「妻が十二メートルの防壁を登り、警備兵を回避し、特殊錠を解錠して執務室へ侵入したと報告書にありました」
「なぜ報告書まで読んでいるんですか!」
「息子の妻を知るためです」
「情報収集能力が高すぎる!」
リリアが感心したようにエレノアを見る。
「お母様、暗殺者向いてそう」
「リリア!」
「褒めたのに」
「褒め言葉ではない!」
「まあ」
エレノアは平然としている。
「悪い気はしません」
「母上まで乗らないでください!」
アルベルトだけが孤立した。
エレノアの本当の嫁審査が始まったのは、その後だった。
「リリアさん」
「はい」
「立って」
「?」
「歩いてみてください」
「歩く?」
「侯爵家へ嫁いだ以上、最低限の立ち居振る舞いは必要です」
「なるほど」
リリアは素直に立った。
部屋の端まで歩く。
いや、歩いたはずだった。
気づけば消えていた。
「…………」
エレノアが瞬きをする。
次の瞬間、反対側から声がした。
「着きました」
「今のは何です?」
「歩きました」
「歩いていません」
「歩きましたよ?」
「足音が一度もしませんでした」
「癖です」
「直しなさい」
「ええー」
リリアが本気で困った顔をする。
「音を立てて歩くと位置がばれます」
「今日は誰から隠れているの?」
「誰からも」
「では音を立てなさい」
「無防備すぎない?」
「社交界は暗殺現場ではありません」
そこでアルベルトが小さく咳払いをした。
「母上」
「何?」
「社交界も時々、暗殺現場になります」
「あなたは黙っていなさい」
「はい」
息子が即座に引いた。
リリアは驚いた。
アルが負けた。
初めて見た。
※
続いて、お辞儀。
リリアは完璧だった。
「上手ね」
「ありがとうございます」
「どこで覚えたの?」
「標的の屋敷へ侍女として潜入した時です」
「忘れなさい」
「え?」
「思い出ごとではありません。用途をです」
「難しいね」
「では座り方」
リリアが椅子へ腰掛ける。
背筋は美しく伸びている。
膝も揃っている。
「いいわ」
「ほんと?」
「ええ。ただ」
エレノアの目が落ちる。
「なぜ右手をテーブルの下に?」
「すぐ短剣を抜けるように」
「武器を置いてきなさい」
「丸腰で?」
「丸腰で」
「お母様」
「何?」
「死ぬよ?」
「お茶会では普通、死にません」
「ほんと?」
「あなたが参加しなければ、おそらく」
「母上」
アルベルトが止めた。
エレノアの冗談の切れ味が、思った以上に鋭かった。
※
三十分後。
リリアの短剣がテーブルに並んでいた。
一、二、三、四、五、六。
エレノアが黙る。
アルベルトも黙る。
リリアが七本目をブーツから取り出す。
「それで全部?」
「たぶん」
「たぶん?」
さらに髪飾りから細い針が三本出てきた。
「リリア」
「何?」
「なぜ母上との顔合わせに、そこまで武装している」
「いつもこれくらいだよ?」
「初耳だ!」
「寝る時は少ないよ」
「ゼロにしろ!」
エレノアは並べられた武器を見つめ、静かに息を吐いた。
「アルベルト」
「はい」
「あなた」
暫し間を置く。エレノアは溜めに溜めた。
「……よくこの子と同じ寝室で眠れますね」
「慣れました」
「慣れるところではありません」
「俺もそう思います」
初めて、母子の意見が完全に一致した。
※
一時間後。
エレノアは疲れていた。
リリアも疲れていた。
アルベルトは朝からずっと疲れていた。
「お母様」
「何?」
「暗殺の訓練より難しい」
「暗殺者として何年生きていたの?」
「十年以上」
「侯爵家の嫁としては?」
「……三年くらい?」
「では仕方ありません」
エレノアはさらりと言った。
リリアが顔を上げる。
てっきり呆れられると思っていた。
「これから覚えればいいでしょう」
その言葉に、リリアが少しだけ目を見開いた。
昔、似たことを言った男がいた。
『知らないなら覚えればいい』
隣にいる夫を見る。
アルベルトも同じことを思い出したらしい。
視線が合った。
それだけで、少し嬉しくなる。
「ただし」
エレノアの声が続く。
「一度教えたことは覚えなさい」
「はい」
「二度目はありません」
「分かりました」
その返事が、異様に早かった。
エレノアが気づく。
「……そういう教え方には慣れているの?」
リリアは何でもないように頷いた。
「昔から。一回で覚えないと怒られたので」
「怒られた?」
「うん。失敗するとご飯抜きとか、閉じ込められたりとか。あとは――」
「リリア」
アルベルトが静かに止めた。
リリアが夫を見る。
そこで初めて、自分が何を言ったのか少し理解した。
「あ」
エレノアは何も言わなかった。
哀れむこともしなかった。
ただ、しばらくリリアを見たあと、静かに言った。
「ここでは、失敗しても食事は出ます」
リリアが瞬きをする。
「……はい」
「それに」
エレノアは焼き菓子の皿を彼女の方へ押した。
「覚えられなければ、何度でも教えます」
「でも、さっき二度目はないって」
「あれは撤回します」
「いいの?」
「私が決めたことです」
「お母様、強いね」
「知っています」
リリアが笑った。
それを見たエレノアの目元も、ほんの僅かに和らいだ。
※
陽が傾き、世界を橙色に染める。夜が深くなる前のほんの僅かな時間。
玄関前で、エレノアは馬車へ乗る前に息子を振り返った。
「アルベルト」
「はい」
「あなたには後日、本邸へ来てもらいます」
「……何のためでしょう」
「説教の続きです」
「まだあるんですか」
「結婚報告を怠った件について三時間ほど」
「三時間」
「あなたの父も待っています」
逃げ場がなくなった。
「リリアさん」
「はい」
「あなたも来なさい」
「私も怒られる?」
「あなたは」
エレノアは少し考えた。
「礼儀作法の続きをします」
リリアの顔から笑顔が消えた。
「…………」
「どうしました?」
「お母様」
「何?」
「説教と礼儀作法なら」
真剣な顔で問う。
「どっちが短いですか?」
「礼儀作法は半年ほど」
「アル」
リリアが即座に夫を見る。
「私、説教がいい」
「選べると思うな」
「三時間で終わるじゃん!」
「お前は半年やれ!」
「ひどい!」
エレノアが、とうとう声を出して笑った。
ほんの一瞬だった。
だがアルベルトは目を見開いた。
母が笑った。
それも、こんなふうに。
「母上?」
「何でもありません」
エレノアはすぐにいつもの表情へ戻る。
そして、リリアを見る。
「最後に一つ」
「はい」
「私は」
少しだけ間を置く。
「あなたが元暗殺者だから反対しているわけではありません」
リリアの紫色の瞳が僅かに揺れた。
「人は過去だけで決まるものではない。それくらいは理解しています」
エレノアの視線が息子へ向く。
「この愚息が」
「母上」
「その程度も考えずに妻を選ぶ男ではないことも知っています」
アルベルトが黙った。
「私が腹を立てているのは」
エレノアは再び二人を見る。
「結婚したことを新聞で知ったことです」
すべて、そこだった。
「本当に申し訳ありません」
アルベルトが深々と頭を下げる。
リリアも慌てて頭を下げた。
「ごめんなさい」
「ですから」
エレノアは優雅に微笑む。
「結婚式を挙げなさい」
「…………」
「…………」
夫婦が同時に顔を上げた。
「え?」
リリアが声を漏らす。
「式です」
「今から?」
「今からです」
「もう結婚してるよ?」
「知っています」
「必要?」
「必要です」
リリアがアルベルトを見る。
「アル」
「俺を見るな」
「どうしよう」
「俺も今考えている」
「簡単です」
エレノアが断言した。
「一ヶ月後にクロフォード侯爵家主催で、正式な披露の場を設けます」
「母上」
「親族、軍上層部、関係貴族――」
「待ってください」
「招待客は三百名程度で」
「増やさないでください!」
「少ない方です」
「十分多い!」
「ドレスは私が選びます」
「お母様」
リリアがおそるおそる手を上げる。
「逃げてもいい?」
「捕まえます」
即答だった。
リリアが固まった。
元暗殺者《白猫》。
王国軍の包囲すら煙玉一つで抜ける女。
その彼女が、初めて明確に怯えた。
「……アル」
リリアが夫の袖を掴んだ。
「この人、怖い」
「だから朝から言っている!」
アルベルトの叫びが官舎前へ響く。
エレノアは満足そうに馬車へ乗った。
馬車が見えなくなったあと、リリアはしばらく無言だった。
「アル」
「何だ」
「お母様、私のこと嫌いじゃない?」
「ああ」
「なんで分かるの?」
「嫌いなら、式など用意しない」
「そっか」
少しだけ安心したように笑う。
「よかった」
その横顔を見て、アルベルトの表情も僅かに柔らかくなった。
だが、次の瞬間。
「じゃあ結婚式から逃げても許してくれるかな」
「許すわけがない」
「屋根から」
「やめろ」
「地下道なら」
「もっとやめろ」
「変装?」
「リリア」
「何?」
「母上を敵に回すな」
「アルでも勝てない?」
「勝てない」
即答だった。
「すごい」
「感心するな」
※
その夜、クロフォード侯爵家本邸。
エレノアは夫へ紅茶を差し出しながら、淡々と報告した。
「息子の妻に会ってきました」
「ようやくか」
クロフォード侯爵は新聞を閉じた。
「どうだった?」
「非常識です」
「だろうな」
「礼儀が足りません」
「元暗殺者なのだろう」
「武器を七本持ち歩きます」
「七本?」
「針を含めると十本です」
「エレノア」
「軍施設の十二メートルの壁も登ります」
「待ってくれ」
「特殊錠は三秒」
「本当に大丈夫なのか、その娘は」
夫の顔が引きつる。
エレノアは紅茶へ口をつけた。
「ええ」
「どこを見てそう思った」
「アルベルトを大切にしています」
簡潔だった。
侯爵が黙る。
「それに」
エレノアはふと思い出す。
『アルだから一緒にいたい』
屈託なく、しかし誰よりも真っ直ぐ息子を見ていた紫色の瞳。
「悪い娘ではありません」
「珍しいな」
「何がです?」
「君が初対面でそこまで言うのは」
「ただし」
エレノアはカップを置いた。
「教育は必要です」
灰色の瞳が光る。
「徹底的に」
「…………」
侯爵は、まだ会ったことのない嫁の無事を心の中で祈った。
※
翌月。
クロフォード侯爵邸の庭では、朝から厳しい声が響いていた。
「リリアさん! 歩幅!」
「はい!」
「足音!」
「出してます!」
「聞こえません!」
「これ以上出すと敵に位置が――」
「敵はいません!」
「お母様がいる!」
「私は敵ではありません!」
「今はかなり敵っぽいです!」
「リリア!」
見学していたアルベルトの怒声が飛ぶ。
「アル、助けて!」
「自分で蒔いた種だ!」
「夫婦は助け合うんじゃないの!?」
「こういう時だけ妻の権利を使うな!」
「アルベルト」
エレノアの声が飛んだ。
「あなたも姿勢」
「なぜ俺まで!」
「妻へ手本を見せなさい」
「…………はい」
王国軍第一大隊長が、素直に背筋を伸ばした。
リリアは隣で驚愕した。
「アル」
「何だ」
「お母様って」
「言うな」
「王国最強?」
「言うな!」
その日、クロフォード家には新たな序列が誕生した。
元最凶暗殺者、リリア・クロフォード。
王国軍第一大隊長、アルベルト・クロフォード。
そして、その二人をまとめて叱れる女、エレノア・クロフォード。
後に第一大隊の兵士たちは、彼女をこう呼ぶことになる。
最凶夫婦を止められる、唯一の人間―――絶対調整神、と。
なお本人は、「失礼ね」と不満そうだったという。
クロフォード家の嫁姑関係は、今日も概ね良好である。
ただし、嫁は現在、結婚式から逃げる方法を検討している。
姑は、すでにそれを見越して警備計画を立てている。
そしてアルベルトだけが、まだ何も知らない。
おそらく、次に一番苦労するのは、彼なのだ。




