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隊長夫人、夫の過去を何も知らない。

リリア・クロフォードは、その日、とんでもない事実に気づいた。


夫のことを、ほとんど何も知らない。

もちろん、現在のアルベルトについてなら詳しい。


朝は決まった時間に起きる。

寝起きでも髪があまり乱れない。

珈琲は砂糖なし。

仕事中に眉間を揉み始めたら疲れている。

怒っている時ほど声が低くなるし、本気で心配している時は逆に口数が減る。

寝る時は意外と体温が高い。

褒めると目を逸らす。

嫉妬すると無口になる。


そして妻にはかなり甘い。


最後の一項だけは本人が頑として認めないが、第一大隊、王宮情報局、クロフォード侯爵夫妻、ついでに国王まで把握している公然の事実だった。


問題は、その前だった。


※


午後一時十二分。

第一大隊執務室で、リリアはアルベルトの机の前に立っていた。


「アル」


「何だ」


「十歳の時、何してた?」


ペン先が止まった。

向かいではテオドールも書類から目を上げる。


「……なぜ突然十歳の俺を知りたがる」


「知らないから」


「何を」


「アルの昔」


リリアは深刻な顔だった。

アルベルトはしばらく妻を見つめたが、質問の意図が分からないらしい。


「別に知らなくても困らないだろう」


「困るよ!」


「何にだ」


「妻なのに!」


その理屈で声量を上げられても困る。

しかしリリアにとっては重大だった。


先ほどシャルロットと紅茶を飲んでいた際、何気なく幼少期の話になったのだ。

シャルロットは幼い頃から王宮で育った。テオドールは地方の軍人家庭で育ち、士官学校へ進んだ。


ではアルベルトは――知らない。


初めて剣を握った年齢。

好きだった遊び。

苦手だった食べ物。

士官学校でどんな学生だったのか。


初恋。


そこまで考えたところで、リリアの思考は停止した。


「アル」


「まだ何かあるのか」


「初恋いつ?」


ペンが落ちた。

テオドールが咳き込んだ。


「……何だと?」


「初恋」


「聞こえている」


「いつ?」


「なぜ答える必要がある」


「妻だから」


「その権限はどこから発生した」


「結婚した日?」


疑問形だった。

テオドールは静かに眼鏡を押し上げ、書類へ視線を戻した。


巻き込まれてはいけない。


副官として培った危機察知能力が、そう告げている。


「じゃあ好きだった人は?」


「リリア」


「どんな人?」


「リリア」


「名前は?」


「リリア」


「私の名前呼んでも誤魔化されないよ」


「誤魔化しているのではない!」


珍しくアルベルトが机を叩いた。

その瞬間、廊下を歩いていた兵士三名が止まった。


『隊長夫人、隊長の初恋を追及中』


情報は三分で第一大隊全体へ伝播した。


※


午後二時。

なぜかクロフォード侯爵家のエレノアまで召喚された。


正確にはリリアが使いを出した。


『お義母さま、アルの昔のこと教えて』


その一文を受け取ったエレノアは予定をひとつ後ろへずらして来た。

息子より義娘が強い。


「母上」


「何?」


「なぜ来たのです」


「リリアさんに呼ばれたからよ」


当然でしょう、とでも言いたげだった。

隣ではアレクシスまで座っている。


「父上まで」


「私も呼ばれた」


「お義父さまにも聞きたいこといっぱいあるから!」


「何でも聞きなさい」


「父上!」


アレクシスは完全に嬉しそうだった。

エレノアは持参した紅茶をリリアへ渡しながら、涼しい顔で息子を見る。


「あなた、自分の昔話をしていないの?」


「話す必要がありませんでしたので」


「だって」


リリアが身を乗り出す。


「アル、私の昔は結構知ってるじゃん」


その一言に、アルベルトは黙った。


孤児院時代。

《白猫》だった頃。

ユリウスと過ごした日々。

セドリックと組んでいた任務。


すべてを知っているわけではない。リリアが語りたくないことを無理に聞いたこともない。


それでも断片なら知っている。

対してリリアは、自分が出会う以前のアルベルトをほとんど知らない。


「……確かに」


テオドールが小さく呟いた。


「テオ」


「申し訳ありません。しかし隊長が私生活について話しているところは、私もほぼ見たことがありません」


援軍だと思ったら敵だった。


「じゃあ!」


リリアが机へ両手をつく。


「今日はアルの昔を知る日にします!」


「勝手に制定するな」


第一大隊に、新たな記念日が誕生した。


※


最初の証言者、アレクシス・クロフォード。


「アルベルトは幼い頃から真面目な子だった」


「でしょうね」


テオドールが即答した。


「三歳の頃には玩具を使ったあと、自分で元の位置へ戻していた」


「三歳から!?」


リリアが驚愕する。


「五歳で使用人に『廊下は走るものではない』と注意していた」


「五歳で!?」


「七歳の誕生日に欲しいものを聞いたら、『特にありません』と言った」


「かわいくない!」


「リリア」


「ごめん」


アルベルトの眉間に皺が寄る。

しかしエレノアが淡々と補足した。


「本当は剣が欲しかったのよ」


アルベルトが固まった。


「母上」


「庭師の息子が持っていた木剣をずっと見ていたもの」


「……覚えていません」


「三日連続でね」


「母上」


「四日目には庭師へ、どこで売っているのか聞いていたわ」


リリアがアルベルトを見る。

現在の第一大隊長。

規律第一、冷静沈着。

その男が幼少期、欲しいと言えず木剣を三日間見つめていた。


「…………かわいい」


「言うと思った」


アルベルトは額を押さえた。


※


士官学校時代。

ここからはテオドールにも多少資料があった。


「隊長は在学中、剣術、戦術、統率学の成績が上位。規律違反歴なし」


「やっぱりアルだ」


「ただし」


テオドールが一枚めくる。


「一度だけ始末書があります」


アルベルトが顔を上げた。


「待て」


リリアの目が輝く。


「なにしたの!?」


「テオドール」


「公的記録ですので」


副官は容赦がなかった。


「夜間、消灯後の寮を無断で退出」


「アルが!?」


この日最大の衝撃だった。

廊下の兵士までざわめく。


「隊長が規則違反……?」


「昔は不良だったのか?」


「消灯後に外出だぞ」


「大事件じゃないか」


「お前たちの基準はどうなっている!」


アルベルトの怒声が飛ぶ。

リリアはさらに身を乗り出した。


「何しに行ったの?」


「……」


「女の子?」


「違う」


即答だった。


「じゃあ何?」


「……猫だ」


沈黙。


「猫?」


「寮の裏で鳴いていた」


子猫が排水溝へ落ちていた。

教官へ報告すればよかったものの、夜中だったため起こすのを躊躇し、自分で助けようとして寮を抜け出した。


結果、泥だらけで子猫を抱えて戻ったところを巡回中の教官に発見された。


リリアは口元を両手で覆った。


「アル……」


「見るな」


「かわいい」


「見るな」


「子猫助けて始末書書いたの?」


「昔の話だ」


「その猫どうしたの?」


エレノアが答えた。


「うちで飼ったわ」


「母上!」


「十六年生きたわね」


アレクシスも頷く。


「アルベルトの部屋でよく寝ていた」


「父上まで!」


第一大隊長の威厳が、猫一匹によって崩壊した。


※


夕方。

聞き取り調査――アルベルト曰く尋問――が終わる頃には、リリアの手帳が何ページも埋まっていた。


幼少期。

士官学校。

初任務。

第一大隊へ来た頃。


知らないアルベルトがたくさんいた。

けれど、どれも不思議なくらい今の彼へ繋がっていた。


真面目で、不器用で、欲しいものを欲しいと言えなくて、困っているものを放っておけない。


「……アル」


皆が帰ったあと、リリアは隣を歩く夫を見上げた。夕暮れの廊下に、二人分の足音が響く。


「なんだ」


「もっと聞いてもいい?」


アルベルトは少し考えた。


「面白がらないならな」


「それは約束できない」


「なら駄目だ」


「えー」


リリアが笑いながら、その腕へ抱きつく。


「でも知りたい」


その声だけは、先ほどまでより少し柔らかかった。


「私と会う前のアルも、全部アルでしょ?」


アルベルトが足を止める。

リリアは彼の腕を抱いたまま、紫の瞳でまっすぐ見上げていた。


「私が知らなかったアルのこと、これからいっぱい教えて」


過去は変えられない。

互いに出会う前の時間へ行くこともできない。


けれど、知らなかった時間を知ることはできる。

アルベルトは小さく息を吐いた。


「……分かった」


「ほんと?」


「ああ」


リリアの顔が輝く。


「じゃあ初恋は?」


「その話は終わりだ」


「まだ聞いてない!」


「帰るぞ」


「誰!? 何歳!? どんな人!?」


「リリア」


「私とどっちがかわいい?」


「比較する必要がない」


「なんで?」


アルベルトは歩きながら、ほんの僅かに耳を赤くした。


「……今、好きなのはお前だけだからだ」


リリアが止まった。

今度はアルベルトが数歩先へ進んでから振り返る。

妻が動いていない。


「どうした」


「アル」


「何だ」


「今のもう一回」


「断る」


「アル!」


「帰るぞ」


「もう一回!」


夕暮れの第一大隊本部に、リリアの声が響いた。


※


翌朝、掲示板に一枚の紙が貼られていた。


『昨日判明したクロフォード隊長情報』


一、幼少期から規律に厳しい。

二、欲しいものを欲しいと言えない。

三、士官学校時代、猫を救助するため規則違反。

四、その猫を実家で飼う。

五、現在好きなのは妻だけ。


アルベルトは無言で読んだ。

一枚剥がした。その下から二枚目が出てきた。


『追記――五について隊長夫人より証言あり』


さらに剥がす。三枚目。


『隊長夫人、夫の過去を知ることに成功。ただし初恋については依然捜査中』


「誰だ」


第一大隊が静まり返る。


「誰が書いた」


返事はない。

そのときリリアが執務室へ入ってきた。


「アル、おはよ――あ、それ私も知りたい」


「捜査するな!」


「だって気になる!」


「終わった話だ!」


「じゃあ私が初恋?」


アルベルトが止まった。

リリアも止まる。

周囲の兵士たちまで止まる。


沈黙。

アルベルトは無言で執務室へ入った。


「アル!?」


追いかけるリリアの声が響く。


「今の沈黙なに!?」


「仕事をしろ!」


「私、軍人じゃない!」


「なら帰れ!」


「初恋教えてくれたら帰る!」


「交渉材料にするな!」


扉が閉まる。


中からまだ二人の声が聞こえてきた。


廊下では、兵士たちが顔を見合わせる。

やがて一人が掲示板へ新しい紙を貼った。


『調査継続』


その日の午前中、アルベルトによって掲示板は撤去された。

なお、昼には別の壁へ移設されていた。


王国軍第一大隊。

隊長夫人は、夫の過去をほとんど知らない。


しかし本人曰く「知らないなら、これから聞けばいいもん」とのことである。


その言葉を聞いたアルベルトが、誰にも見えないところで少しだけ笑ったことについては――幸いなことに、まだ誰にも記録されていない。

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