副官殿、恋人の父親と二人きりになる。
王国軍第一大隊副官、テオドール・ハインツ大尉は、不測の事態への対応能力に優れている。
戦況の急変。
指揮官不在。
予期せぬ敵襲。
補給路の寸断。
どのような状況であろうと、手持ちの情報から最善策を導き出し、冷静に対処する。それが副官という役職であり、テオドール自身もその能力には一定の自負があった。
ただし、人生には、軍事教本にも第一大隊服務規程にも記載されていない事態が存在する。
午前九時十八分。
「……もう一度お願いします」
第一大隊執務室。
王宮から届いた書状を手に、テオドールは珍しく固まっていた。
伝令兵が困惑しながら同じ言葉を繰り返す。
「国王陛下より、本日午後三時に王宮へお越しいただきたいとのことです」
「用件は」
「私的な面談、とだけ」
私的。
その二文字が、軍事機密より恐ろしかった。
テオドールは書状を見る。
王命ではない。
公務でもない。
王宮への出頭命令ですらない。
ただ、来てほしい。
国王が、自分に、私的に。
「……隊長」
「何だ」
アルベルトは書類から顔を上げた。
「午後から休暇をいただいてもよろしいでしょうか」
「構わん」
「ありがとうございます」
「健闘を祈る」
テオドールの眉が動いた。
「なぜ戦場へ送り出す言い方なのです」
アルベルトは答えなかった。
窓際のソファから、リリアがひょこりと顔を出す。
「テオ、お父様に呼ばれたの?」
「そのようです」
「何したの?」
「何もしていません」
「ほんと?」
「なぜ疑うのです」
リリアは少し考えた。
「シャルと付き合ってる」
「それは罪ではありません!」
「お父様からしたら重罪かも」
「リリアさん!」
アルベルトが額を押さえた。
「煽るな」
「でもアルだって、娘がいたら絶対こうなるよ」
「いない」
「もしもの話」
「考える必要がない」
「娘が恋人連れてきたら?」
「帰す」
「ほら」
「何がだ!」
テオドールは静かに眼鏡を外した。
レンズを拭く。
現実逃避だった。
※
午後二時五十八分。
王宮西棟。
案内された部屋の前で、テオドールは深く息を吸った。
軍議なら緊張しない。
王の御前で報告することも珍しくない。
だが今日は公務ではない。
扉が開く。
「ハインツ大尉がお見えです」
「通してくれ」
入室する。
国王が一人で座っていた。
護衛も侍従もいない。
机には茶器が二つ。
完全に二人きりだった。
テオドールは帰りたくなった。
「そこへ」
「はい」
向かいへ座る。
国王が紅茶を注ぐ。
「楽にしてくれ」
「はい」
背筋は軍用定規を当てたように真っ直ぐだった。
「……楽に」
「しております」
「そうか」
国王は諦めた。
しばらく沈黙が続く。
時計の針が妙に大きく聞こえた。
先に口を開いたのは国王だった。
「先日の公開演習、見事だった」
「ありがとうございます」
「第一大隊はよく鍛えられている」
「隊長の指揮によるものです」
「君の働きも見ていた」
テオドールは僅かに目を瞬かせた。
国王はカップを置く。
「状況判断が速い。兵士たちも君の指示を迷わず聞いていた」
「恐縮です」
「シャルロットが君を好きになった理由が、少し分かった気がする」
テオドールの思考が停止した。
戦場なら即死だった。
「……陛下」
「何だ」
「本日は、そのお話でしょうか」
「そうだ」
即答だった。
逃げ道が消えた。
※
「以前はな」
国王は少し困ったように笑った。
「君を娘の恋人としてしか見ていなかった」
テオドールは黙って聞く。
「無論、軍人として優秀だという話は聞いていた。アルベルトも信頼している。だが、父親というものは厄介でな」
「……はい」
「今、『分かります』と言わなかったのは賢明だ」
「経験がありませんので」
「君は本当に真面目だな」
国王は苦笑する。
窓の外には王宮の庭園が広がっていた。午後の日差しの中で、噴水の水が白く煌めいている。
「公開演習で、娘が君を見ていた」
「……はい」
知っていた。
正確には、途中で気づいた。
気づいた瞬間、三秒ほど心拍数が上がったので必死で無視した。
「ずっと嬉しそうだった」
テオドールの指が僅かに動く。
「父親としては、面白くない」
「…………」
「何か言ってくれ」
「何を申し上げれば正解なのでしょう」
「私にも分からん」
二人で黙った。
どうやらこの面談、双方とも正解を知らないらしい。
※
国王が紅茶を一口飲む。
「ひとつ聞きたい」
「はい」
「シャルロットのどこが好きだ」
テオドールの手が止まった。
「……陛下」
「何だ」
「質問の変更を希望します」
「却下する」
王権の濫用だった。
「答えにくいか?」
「非常に」
「なぜだ」
「ご息女について、ご本人の父君へ説明する状況を想定したことがありません」
「私も娘の恋人に聞く日が来るとは思わなかった」
また沈黙。
国王は待っている。
逃げられない。
テオドールは眼鏡を押し上げた。
「……お優しい方です」
「知っている」
「聡明で」
「知っている」
「ご自身の立場を理解しながら、それを他者へ押しつけない」
国王の表情が少し変わった。
テオドールは言葉を探した。
以前なら、ここで止まっていただろう。
だが、シャルロットに対してだけは、少しずつ自分の気持ちを言葉にすることを覚えた。
「私が何かを選ぶまで、待ってくださる方です」
手を繋ぐことも、名前で呼ぶことも、恋人になることも。いつも急かさず、笑って待っていてくれた。
「それから……」
国王が待つ。
「私が自分でも気づいていないことを、よく見つけます」
「ほう」
「そのため、彼女といると、自分が思っていたより不器用な人間だったと頻繁に思い知らされます」
国王が吹き出した。
「それは褒めているのか?」
「最大限に」
「そうか」
しばらく笑ってから、国王は柔らかな目でテオドールを見た。
「大切にしているのだな」
テオドールは今度は迷わなかった。
「はい」
静かな声だった。
「とても」
国王の笑みが消えた。
今度は父親の顔だった。
「……そうか」
それだけ言って、カップへ視線を落とす。
嬉しい。
寂しい。
安心した。
面白くない。
おそらく全部だった。
※
「もうひとつ」
国王が顔を上げた。
「はい」
「結婚についてはどう考えている」
テオドールが紅茶を噴きそうになった。
辛うじて耐えた。
「陛下」
「何だ」
「話が急では」
「父親としては重要だ」
「交際を始めてまだ――」
「遊びなのか?」
「違います」
即答だった。
国王の眉が僅かに上がる。
テオドール自身も、自分の返答の速さに驚いた。
「では」
「将来について考えていないわけではありません」
言ってしまった。
「ただし」
テオドールは姿勢を正す。
「シャルロットの意思を置き去りにして、私一人で何かを決めるつもりはありません」
国王がじっと見る。
「王女だからか?」
「いいえ」
少し考える。
「シャルロットだからです」
沈黙。
国王が天井を仰いだ。
「陛下?」
「少し待て」
「はい」
「今のは効いた」
「何がでしょう」
「分からなくていい」
国家元首、父性に被弾。
※
その頃第一大隊本部では「今頃どうしてるかな」とリリアが窓の外を見ていた。
「仕事をしろ」
アルベルトが書類から顔を上げずに答える。
「私、仕事ないよ」
「なら静かにしていろ」
「お父様、テオに『娘をくれ』とか言わせてるかな」
アルベルトのペンが止まった。
「まだ早いだろう」
「でも結婚したらシャルも身内だね」
「話を飛ばすな」
「楽しみ」
「気が早い」
「アル」
「何だ」
「テオが泣いて帰ってきたら慰めてあげてね」
「なぜ泣く前提なんだ」
「お父様だから」
アルベルトは否定できなかった。
※
午後四時十二分。
面談は終わった。
テオドールが立ち上がる。
「本日はありがとうございました」
「ああ」
国王も立つ。
そして少し迷ったあと、口を開いた。
「テオドール」
初めて名前で呼ばれた。
テオドールが顔を上げる。
「はい」
「娘をよろしく頼む」
以前、デートの申請書にも似た言葉が書かれていた。
だが今回は、公文書ではない。
決裁印もない。
王命でもない。
一人の父親の言葉だった。
テオドールは深く頭を下げる。
「はい」
その返事だけは、軍人としてではなかった。
※
廊下へ出た。
十歩歩いたところで聞き慣れた声がした。
「テオドール」
振り返る。
柱の陰からシャルロットが顔を出している。
「……シャルロット」
「お疲れさま」
「なぜこちらに」
「お父様に呼ばれたと聞いたから」
「待っていたのですか?」
「少しだけ」
絶対に少しではない。
だが、追及する気にはなれなかった。
シャルロットが心配そうに顔を覗き込む。
「何を話したの?」
テオドールが固まる。
『シャルロットのどこが好きだ』
『結婚についてはどう考えている』
脳裏に会話が蘇る。
「……機密事項です」
「嘘」
「機密事項です」
「顔が赤いわ」
「気のせいです」
シャルロットが笑う。
「お父様にいじめられた?」
「いいえ」
テオドールは少し考えてから、彼女の手を取った。
以前なら、人目のある王宮で自分から触れるなど考えもしなかった。
今は違う。
「むしろ」
「むしろ?」
「あなたのことを、少し話しました」
「私?」
「はい」
「何を?」
「機密事項です」
「テオドール」
「申し上げません」
「気になるわ」
「一生気にしていてください」
「そんなに?」
楽しそうに笑うシャルロットを見て、テオドールも小さく笑った。
※
翌朝、第一大隊本部。
「おはようございます」
テオドールが執務室へ入る。
午前七時四十分。
定刻だった。
アルベルトが顔を上げる。
「生きていたか」
「隊長」
「何だ」
「本気で心配していたのですか」
「少しな」
窓際からリリアが飛び出してくる。
「テオ!」
嫌な予感。
「何でしょう」
「結婚いつ?」
テオドールが止まった。
アルベルトも止まった。
「…………誰から聞きました」
「お父様」
「陛下!?」
「昨日の夜、お茶しに行ったら『テオドールは真面目に将来を考えているようだ』って」
テオドールは両手で顔を覆った。
「なぜ話すのですか……」
「シャルにも教えていい?」
「絶対にやめてください!」
「なんで?」
「まだ何も決まっていません!」
アルベルトが肩を震わせている。
テオドールが睨む。
「隊長」
「笑っていない」
「笑っています」
「気のせいだ」
「口元が上がっています!」
リリアは楽しそうに続ける。
「でもよかったね。お父様、テオのこと気に入ってるよ」
「……そうでしょうか」
「うん。昨日『思っていたよりずっとまともだった』って」
「評価基準が低すぎませんか!?」
「あと『娘を見る目だけは気に入らない』って」
「どちらなのです!」
執務室に笑い声が響く。
テオドールは深く息を吐き、眼鏡を押し上げた。
国王陛下。国家元首。恋人の父親。
三つの肩書きを持つ人物との面談は、どうにか無事終了した。
ただしその日の正午。
第一大隊掲示板に新しい紙が貼られていた。
『副官殿、国王陛下による恋人父親面談を突破』
その下。
『確認事項――交際態度、王女殿下への好意、将来設計』
さらに。
『結果――生還』
テオドールは無言で紙を剥がした。
十分後に新しい紙が貼られた。
『副官殿、国王陛下公認から父親公認へ昇格』
また剥がした。
午後には『祝・婿候補』まで進化していた。
「誰ですか!」
副官の怒声が本部中へ響いた。
廊下の向こうで、リリアが全力で逃げていく。
「リリアさん!」
「私じゃないよ!」
「ではなぜ逃げるのです!」
「なんとなく!」
アルベルトは追いかけていく二人を眺めながら、静かに書類へ戻った。
王国軍第一大隊副官、テオドール・ハインツ大尉。
王女殿下との交際にも慣れ、名前も呼べるようになり、手も自然に繋げるようになった。
恋人の父親との面談も、無事突破。
着実に前へ進んでいる。
ただし本人は、掲示板に書かれた『婿候補』だけは最後まで認めなかった。
なお翌日、その文字を見たシャルロットが、少し嬉しそうに笑った。
それを目撃した第一大隊兵士によって『王女殿下――否定せず』の一文が追加された。
掲示板は、その日の午前九時十二分に撤去された。




