第一大隊、家族参観の日ではありません。
王国軍第一大隊には、年に一度、王家および軍上層部へ訓練成果を披露する公開演習がある。
日頃の鍛錬によって培われた部隊行動、指揮系統の正確性、不測の事態への対応能力を示す、極めて格式高く、極めて真面目な公式行事だ。
少なくとも、本来は。
午前八時三十分。
第一訓練場の観覧席を見上げたアルベルト・クロフォードは、開始前から帰りたくなっていた。
「……なぜ、こんなにいる」
最前列には国王。
その隣にはシャルロット。
少し離れて、父アレクシスと母エレノア。
さらに王宮情報局のユリウスと、王室情報書記官セドリックまでいる。
軍上層部も当然出席しているのだが、どう見てもそちらのほうが脇役だった。
「年次公開演習ですから」
隣で資料を確認していたテオドールが淡々と答える。
「陛下がお見えになるのは例年通りです」
「そこではない」
アルベルトの視線が観覧席を横切る。
アレクシスがこちらへ大きく手を振っている。
正確には、アルベルトではなく、その隣にいるリリアへ。
「リリアー!」
「お義父さまー!」
リリアも両手を振り返した。
「父上! 公式行事です!」
「分かっている!」
「なら座っていてください!」
アレクシスは素直に座った。
その隣でエレノアが涼しい顔をしている。
「あなた。少し落ち着きなさい」
「すまん」
「リリアさんがこちらを見たら、また手を振ればいいでしょう」
「母上も煽らないでください!」
第一大隊長の怒声が朝の訓練場へ響き渡った。
兵士たちは思った。
今年も駄目そうだ。
※
午前九時。
公開演習が開始された。
最初は順調だった。
隊列行動。 陣形転換。 模擬防衛戦。
アルベルトの号令が飛べば兵士たちは一斉に動き、テオドールは各隊の状況を正確に把握して指示を補佐する。
普段はクロフォード夫妻の動向に一喜一憂している第一大隊だが、本職となれば話は別だ。
無駄のない動きに、観覧席から感嘆の声が上がる。
「……格好いい」
シャルロットが小さく呟いた。
視線の先では、テオドールが眼鏡を押し上げながら次の部隊へ指示を出している。
普段の彼なら、恋人からそう言われたと知れば少なくとも数秒は機能停止していただろう。
だが今は任務中。
こちらを見ることさえない。
それがかえってシャルロットには新鮮だった。
隣に座る国王が、娘の横顔を見る。
続いてテオドールを見る。
また娘を見る。
「……なるほど」
「お父様?」
「何でもない」
父親としては複雑だった。
しかし、娘が好きになった男が職務中くらいは娘より仕事を優先できる人間であることに、王としては安堵している。
感情というものは難しい。
一方、少し離れた席では別の問題が起きていた。
「先輩、まだ何もしてないな」
ユリウスが訓練場を眺めながら呟いた。
「当然だ」
セドリックは落ち着いていた。
「今日は見学者だ」
「ですよね」
二人の視線が同時にリリアへ向く。
訓練場の端で、彼女は大人しく座っていた。
ユリウスが眉を寄せる。
「……逆に怖くないですか?」
「奇遇だな。私も今そう思った」
元暗殺者二名の意見が一致した。
※
異変が起きたのは午前十時十二分だった。
休憩時間。
「アル」
リリアがやって来た。
アルベルトは水を飲みながら妻を見る。
「何だ」
「私も参加したい」
「駄目だ」
返答まで一秒もなかった。
「まだ何するか言ってないよ?」
「お前がその顔で『参加したい』と言う場合、ろくなことにならない」
「偏見」
「実績だ」
リリアは頬を膨らませた。
「じゃあ兵士役じゃなくていい」
「駄目だ」
「まだ言ってない」
「言ってみろ」
「模擬敵役」
「もっと駄目だ!」
怒声に、周囲の兵士たちが一斉に振り返った。
観覧席ではアレクシスが身を乗り出している。
「リリアが出るのか?」
「あなた」
エレノアが夫の袖を引いた。
「まだ出るとは決まっていないわ」
「そうか」
「出るならよく見える場所へ移りましょう」
「母上!」
遠くから聞きつけたアルベルトが叫ぶ。
リリアは目を輝かせた。
「お義母さま、見たい?」
「ええ」
「じゃあやる!」
「決定権は俺にある!」
※
本来なら、そこで終わるはずだった。
ところが演習責任者である軍上層部の一人が、余計なことを言った。
「面白いのではないか?」
アルベルトは耳を疑った。
「……何がでしょう」
「実戦経験豊富な人間を侵入役として配置し、第一大隊がどこまで対応できるかを見る。予定にはないが、不測の事態への対応訓練として有益だろう」
リリアが満面の笑みを浮かべる。
アルベルトは絶望した。
「許可する」
「やった!」
「お待ちください!」
遅かった。
※
午前十時四十分。
緊急模擬演習。
任務――侵入者一名の捕縛。
侵入者――リリア・クロフォード。
説明を聞いた第一大隊兵士たちは静まり返った。
新人兵が手を挙げる。
「質問があります」
テオドールが頷く。
「どうぞ」
「投降は認められますか」
「敵役がですか?」
「我々がです」
「認めません」
絶望が広がった。
別の兵士が手を挙げる。
「副官殿」
「何でしょう」
「遺書を書く時間は」
「模擬演習です!」
観覧席からユリウスの笑い声が聞こえた。
「先輩、完全に災害扱いじゃん」
「笑っている場合か」
セドリックは訓練場を見たまま言った。
「おそらく最初に東側へ注意を引く」
「ですよね」
「そのあと西壁」
「いや、先輩なら一回地下見せてから上じゃないですか?」
二人の会話を聞いたアルベルトが振り返る。
「なぜ分かる」
ユリウスは肩を竦めた。
「昔からそうだから」
セドリックも静かに続ける。
「彼女は正面から来ると見せて、相手が『裏をかく』ことまで計算する」
アルベルトは黙った。
まただ。
自分の知らないリリアを、この二人は知っている。
胸の奥に、わずかな苛立ちが生まれる。
だが以前ほど苦くはなかった。
知らない時間があるのは当然だ。
それでも今、あいつが帰ってくる場所は自分の隣だ。
「隊長」
テオドールの声で意識を戻す。
「始まります」
「ああ」
アルベルトの顔が指揮官へ戻った。
「全員配置につけ!」
※
開始三分。
東側で物音。
兵士が一斉に動く。
「東です!」
「待て!」
アルベルトの声が飛ぶ。
直後、西壁から白銀の髪が現れた。
「いたぞ!」
「西だ!」
「いや待て、上も見ろ!」
新人兵が叫んだ。
教育の成果だった。
リリアは壁を蹴り、二階回廊の手摺へ軽々と着地する。
観覧席でアレクシスが立ち上がった。
「すごいぞ、リリア!」
「父上、敵役です!」
「分かっている!」
エレノアも目を細める。
「綺麗に着地したわね」
「母上まで!」
「褒めるべきところは褒めるものよ」
「今は敵です!」
「模擬でしょう?」
正論だった。
その間にもリリアは兵士三名を翻弄し、訓練用短剣を奪っている。
「先輩、右!」
ユリウスが思わず叫ぶ。
リリアが反射的に右へ跳んだ。
アルベルトが振り返る。
「敵へ助言するな!」
「すみません! 癖で!」
セドリックが額を押さえる。
「君は昔からそうだ」
「セドリックさんだって楽しそうですよ!」
「否定はしない」
「お前たちは黙って見ていろ!」
※
それでも第一大隊は崩れなかった。
アルベルトがリリアの移動を読み、テオドールが兵士を再配置する。
「第二班、退路を塞いでください。第三班は追わない。誘導されています」
テオドールの声は冷静だった。
観覧席のシャルロットは、その姿をじっと見つめている。
「……やっぱり格好いい」
今度は国王にもはっきり聞こえた。
「シャルロット」
「何でしょう、お父様」
「いや……何でもない」
国王は諦めた。
娘は完全に惚れている。
※
十五分後。
ついにリリアの前後を兵士が塞いだ。
正面にアルベルト。
背後にはテオドール率いる第二班。
リリアが楽しそうに笑う。
「アル、やるね」
「誰の夫だと思っている」
言ってからアルベルトが止まった。
兵士たちも止まった。
観覧席も静まった。
リリアだけが嬉しそうだった。
「私の!」
「……捕縛しろ!」
照れ隠しの号令とともに兵士たちが殺到した。
※
演習終了。
結果――第一大隊側勝利。
ただし兵士十二名が訓練用武器を奪われ、七名が途中でリリアを見失い、三名が「もう地下しか信用できない」と供述した。
それでも拍手が訓練場を満たした。
リリアが息を弾ませながら戻ってくる。
アレクシスは誰より先に立ち上がった。
「リリア! 素晴らしかった!」
「お義父さま!」
「怪我はないか?」
「ないよ!」
エレノアも近づき、乱れた白銀の髪を整える。
「お疲れさま」
「楽しかった!」
「そう。ならよかったわ」
その目は優しかった。
昔、命を奪うために磨いた技術。
今は笑いながら誰かを鍛えるために使っている。
少し離れた場所で、セドリックがその光景を見つめていた。
「……変わったな」
隣のユリウスが笑う。
「うん」
幼い頃から知っている先輩。
危険な仕事へ進み、《白猫》と呼ばれるようになって、それでも自分の前ではどこか変わらなかった人。
「でも俺、今の先輩のほうが好きだな」
セドリックは一瞬だけ目を細める。
「私もだ」
その声は穏やかだった。
愛しているからこそ、今の彼女が笑っていることが嬉しい。
そして二人の視線の先では、アルベルトがリリアの額へ付いた土埃を指で拭っている。
「無茶をするなと言っただろう」
「でも勝ったのアルたちだよ?」
「そういう問題ではない」
「アル、すごかった」
「……そうか」
「かっこよかった」
アルベルトが黙る。
耳が僅かに赤くなった。
ユリウスが吹き出した。
「隊長、分かりやす――」
セドリックが無言でその口を塞いだ。
「言うな。殺されるぞ」
「んんっ」
元暗殺者として、極めて適切な判断だった。
※
翌朝。
第一大隊本部掲示板に、一枚の紙が貼られた。
『次年度公開演習に関する改善事項』
一、観覧席の配置を再検討。
二、見学者による敵役への助言を禁止。
三、クロフォード夫人を模擬敵役として採用する場合、事前に兵士へ告知すること。
その下に別の筆跡。
『四、侯爵閣下が敵役を応援しても動揺しないこと』
さらに。
『五、侯爵夫人も実質的には敵役側であると認識すること』
アルベルトが眉間を押さえた。
その横へテオドールがやって来る。
「隊長」
「何だ」
「六項目目があります」
嫌な予感がした。
紙の一番下。
『六、副官殿は王女殿下が観覧していても平常心を維持すること』
テオドールが無言になった。
「……誰ですか」
アルベルトは少しだけ考えた。
「今回は俺ではない」
「分かっています」
廊下の向こうで兵士が走った。
「待ちなさい!」
テオドールが追う。
その騒ぎを聞きつけ、リリアが執務室から顔を出した。
「何してるの?」
アルベルトは妻を見る。
昨日までなら、公開演習へ元暗殺者を投入するなど絶対に認めなかった。
今でも二度とやりたくはない。
だが。
観覧席で彼女を見つめていた両親。
昔を知るセドリックとユリウス。
今の彼女を知る第一大隊。
そして、そのすべての時間を抱えたまま笑っている妻。
悪くない光景だった。
「何でもない」
「ほんと?」
「ああ」
アルベルトはリリアの頭へ手を置いた。
「昨日はよくやった」
紫の瞳が大きくなる。
次の瞬間、ぱっと輝いた。
「アルが褒めた!」
「大声で言うな」
「みんなー! アルが褒めてくれた!」
「リリア!」
廊下へ飛び出した妻を、アルベルトが追う。
その日の第一大隊の日報には、公開演習について簡潔にこう記録された。
『年次公開演習――終了。成果良好。重大事故なし』
その下になぜか誰かが勝手に一文を書き足していた。
『なお、来年度は家族参観形式を禁止すること』
アルベルトは即座に訂正した。
『そもそも今年も家族参観ではない』
翌朝、さらにその下へ、新しい一文が増えていた。
『では、なぜ保護者しかいなかったのですか』
掲示板は撤去された。




