第一大隊、元暗殺者三人を同時に入れてはいけない。
王国軍第一大隊には、近年になって非公式の警戒項目が増え続けている。
『クロフォード夫妻が妙に静かな場合』
『副官殿と王女殿下の間に進展があった場合』
『クロフォード侯爵夫妻が義娘を構い始めた場合』
どれも軍事的脅威とは一切関係がない。
にもかかわらず、なぜか実際に警戒しておいたほうが被害が少ないという実績だけが積み上がっている。
そして、その日の午前九時十七分。
第一大隊本部に、新たな警戒項目が誕生することになった。
「先輩ー!」
聞き慣れた声が廊下から響いた。
隊長執務室のソファで紅茶を飲んでいたリリアが、ぱっと顔を上げる。
「ユリウス!」
次の瞬間には扉が開き、ユリウス・フォン・ラングレーが姿を現した。
淡い銀紫の髪に紫系の瞳。整った顔立ちには人懐っこい笑みが浮かび、リリアを見つけた途端、その表情がさらに明るくなる。
「先輩、いた。よかった」
「なに? 遊びに来たの?」
「仕事だよ。俺だって仕事くらいするから」
「たまに?」
「毎日してる!」
机に向かっていたアルベルトの眉間へ、早くも皺が一本刻まれた。
「ユリウス。ここは第一大隊の執務室だ」
「分かってますって、隊長」
ユリウスは慣れたものだった。
アルベルトが自分を好いていないわけではないことも分かっている。
ただし、自分がリリアへ懐きすぎると夫として面白くないらしいことも、とっくに把握済みだった。
だからといって遠慮する気はない。
リリアは先輩だ。
それ以前に、孤児院にいた頃から自分の前を歩いていた人だった。
暗殺者になる前も、なった後も、彼女が《白猫》などという物騒な名前で呼ばれるようになるよりずっと前から知っている。
今さら夫ができた程度で距離を変えろと言われても困る。
「先輩、これ」
「なに?」
「王宮からの書類。あと菓子」
「わ、ありがと!」
リリアが嬉しそうに紙袋を受け取る。
アルベルトの眉間に二本目が刻まれた。
向かいの机でその様子を見ていたテオドールは、何も言わず書類を揃えた。
余計なことを言わない。
副官として培った危機管理能力である。
だが、問題はここからだった。
「失礼する」
扉の外から、もう一つ声がした。
ユリウスの笑顔が消えた。
「……げ」
「何だ、その反応は」
姿を現したのは、王宮情報局のセドリックだった。
隙なく整えられた服装に、洗練された立ち居振る舞い。柔和に見えて、その実どこか人の内側まで見透かすような目を持つ、端正な青年。
かつてリリアと同じ仕事をし、同じ現場に立ち、互いに背中を預けていた元相棒。
そして、今なお彼女を特別に想っている男だった。
「セド!」
リリアが笑った。
ほんの一瞬、セドリックの目元が柔らかくなる。
「久しぶりだな、リリア」
アルベルトの眉間に三本目が刻まれた。
テオドールはそっと書類へ視線を落とした。
今日は長くなりそうだった。
※
「それで、二人揃って何の用だ」
アルベルトの声がいつもより低い。
「仕事ですよ」
ユリウスが答える。
「王宮と情報局で共同整理してた資料が第一大隊にも必要になって」
「私が最終確認を担当した」
セドリックが書類を机へ置く。
仕事の話になれば、二人とも空気が変わった。
先ほどまでリリアへ菓子を渡していたユリウスから軽さが消え、資料の要点を淀みなく説明する。
セドリックはさらに静かだった。
必要な情報だけを選び、相手が次に疑問を持つ箇所まで先回りして補足する。
アルベルトは説明を聞きながら、わずかに目を細めた。
――なるほど。
この二人が、リリアと同じ世界にいた人間なのだ。
ユリウスは弟分。
セドリックは相棒。
自分の知らないリリアを知っている。
それが、面白くない。
嫉妬だと認めるのは癪だったが、もう否定するほど子供でもない。
リリアが生きてきた二十三年間のすべてを、自分が知ることはできない。
彼女が泣いた夜。怪我をした任務。孤児院で笑った日。暗殺者として刃を握った瞬間。
そこに自分はいなかった。
ユリウスはいた。
そしてセドリックも。
「アル?」
呼ばれて顔を上げる。
リリアが不思議そうにこちらを見ていた。
「怖い顔してるよ」
「元からだ」
「今日は三割増し」
「余計なお世話だ」
そう返すと、リリアは楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、アルベルトの胸にあった小さな棘が少しだけ抜ける。
過去に自分はいない。
だが、今、この笑顔が向けられている場所には自分がいる。
それでいい――と、思った直後だった。
「そうだ!」
リリアが両手を合わせる。
アルベルトの本能が警鐘を鳴らした。
「何だ」
「三人揃ったし、久しぶりにやろうよ」
ユリウスの顔から血の気が引いた。
「先輩」
セドリックも僅かに眉を寄せる。
「リリア、まさかと思うが」
リリアは満面の笑顔で告げた。
「侵入訓練!」
「却下だ!」
アルベルトの声が本部中へ響いた。
※
「なんで?」
「なんでではない!」
「新人さんの訓練になるよ?」
「ならない!」
「なるって。私とセドとユリウスが別々の場所から本部へ侵入して――」
「具体化するな!」
廊下を通りかかった兵士が硬直した。
三人。
侵入。
本部。
単語だけで危険だった。
「先輩、俺はやらないからね」
珍しくユリウスが全力で拒否する。
「なんで?」
「昔それやったとき、俺だけ囮にしただろ!」
「あれは適材適所」
「俺が一番下だったからだろ!」
孤児院時代からそうだった。
リリアは無茶をする。
ユリウスは文句を言いながらついていく。
怖くなかったわけではない。
それでも、自分を振り返って「大丈夫?」と聞いてくれた人についていきたかった。
あの頃のユリウスにとって、リリアの背中は帰る場所に近かった。
だから今でも「先輩」と呼ぶ。
尊敬だけではない。
姉のようで、家族のようで、けれどどちらとも少し違う。
彼女が幸せなら嬉しい。
ただし。
「それに先輩、もう人妻なんだから少し落ち着けよ」
「人妻関係ある?」
「ある!」
「どこに?」
「知らないけどある!」
「ユリウスも適当になったね」
「誰のせいだよ!」
二人の言い争いを見ながら、セドリックが小さく笑った。
「変わらないな」
「セドもやる?」
「断る」
即答だった。
「えー」
「以前なら付き合ったが」
セドリックの視線が、リリアからアルベルトへ移る。
「今は、君が侵入するたびに胃を痛める人間がいるらしい」
「誰?」
「俺だ!」
アルベルトが怒鳴った。
リリアが目を丸くする。
「アル、胃痛いの?」
「比喩だ!」
「薬いる?」
「原因が心配するな!」
ユリウスが吹き出した。
セドリックも口元を緩める。
アルベルトだけが額を押さえている。
そんな彼を、セドリックは静かに見ていた。
かつてなら、リリアの隣に立つのは自分だった。
任務前には彼女の短剣を確認し、帰還すれば互いの傷を確かめた。
好きだった。
今も好きだ。
その感情を捨てた覚えはない。
だが――自分が欲しかったのは、リリアが自分を選ぶ未来だけだったのだろうか。
目の前には、無茶をする彼女へ本気で怒り、彼女が笑えば結局許してしまう男がいる。
リリアもまた、その男の袖を当たり前のように掴んでいる。
昔の彼女は、誰かにこんなふうに触れなかった。
失うことを知っていたから、最初から持たなければいいとでもいうように。
「……いい顔をするようになった」
思わず零れた。
リリアが振り返る。
「誰が?」
「君だ」
「私?」
「独り言だ。忘れろ」
「気になる」
「忘れろ」
「セド」
「その顔で見るな」
「どの顔?」
「無自覚なのが一番厄介だな」
アルベルトが低く同意した。
「それについては同感だ」
二人の視線が合う。
一瞬だけ、奇妙な連帯感が生まれた。
「何?」
リリアだけが分かっていなかった。
※
結局、侵入訓練は中止された。
正確には、アルベルトとテオドールが全力で阻止した。
夕刻、仕事を終えたセドリックとユリウスが正門へ向かって歩いていた。
少し先では、リリアがアルベルトの隣を歩いている。
「アル、今日の夕飯なに?」
「帰ってから決める」
「お肉がいい」
「昨日も肉だっただろう」
「じゃあ魚」
「最初からそう言え」
「一緒に買って帰ろ」
あまりにも普通の会話だった。
ユリウスが足を止める。
「……先輩さ」
「何だ」
「昔、『帰る』って言わなかったよな」
セドリックも前を見たまま止まった。
「そうだな」
任務が終われば『戻る』。
拠点へ戻る。報告へ戻る。次の命令を受けるために戻る。
帰る、ではなかった。
帰る場所がなかったから。
ユリウスは少しだけ笑った。
寂しさではない。
むしろ逆だった。
孤児院にいた頃、自分より少し前を歩いていた少女が、ようやく自分の家へ帰る。
それが嬉しかった。
「先輩、ちゃんと帰るようになったね」
「……ああ」
セドリックの返事は静かだった。
胸の奥が痛まないと言えば嘘になる。
自分ではない男の隣が、彼女の帰る場所になった。
それでも。
アルベルトに何か言われて笑うリリアを見ていると、その痛みすら大切にしておける気がした。
「セドリックさん」
「何だ」
ユリウスが横目で彼を見る。
「まだ先輩のこと好きなんですか」
セドリックは驚かなかった。
「好きでなくなる必要があるのか?」
「いや」
「なら、好きなままでいい」
穏やかな声だった。
奪うつもりはない。
壊すつもりなど、もっとない。
愛しているからこそ、彼女が選んだ幸福を守る側にいる。
それが今の自分の立ち位置だった。
「……大人だなあ」
「君が子供なだけだ」
「俺もう子供じゃないですけど」
「先ほど菓子を渡して褒められて喜んでいただろう」
「それは別!」
その声に、前を歩いていたリリアが振り返った。
「セドー! ユリウスー!」
二人を見ると、大きく手を振る。
「一緒に帰ろ!」
ユリウスが即座に叫んだ。
「旦那いるだろ!」
「途中まで!」
「なんでだよ!」
セドリックが額へ手を当てる。
「君は昔から、人を巻き込む才能だけは変わらないな」
「褒めてる?」
「褒めていない」
アルベルトが深いため息を吐いた。
「……正門までだ」
三人が彼を見る。
「そこまでは同じ方向だろう」
リリアが笑った。
「アル、優しい!」
「違う」
「照れてる?」
「違う」
「隊長、耳ちょっと赤くない?」
「ユリウス」
「はい黙ります!」
四人が並んで歩き出す。
その後ろ姿を本部の窓から眺めていた兵士が、ぽつりと言った。
「……元暗殺者三人が同時に帰っていくぞ」
隣の兵士が真顔になる。
「尾行するなよ」
「しない」
「絶対するな」
「命は惜しい」
賢明だった。
※
翌朝、第一大隊の掲示板に新たな非公式警戒項目が追加されていた。
『元暗殺者三名が同時に本部内へ存在する場合――警戒度を一段階引き上げること』
『理由:何をするか分からない』
『ただし元相棒は比較的まとも』
『後輩も止める側』
『つまり原因は奥方様』
アルベルトはしばらく眺めた。
「……」
通りかかったテオドールが足を止める。
「撤去しますか?」
アルベルトは考えた。
非常に不本意だった。
しかし、事実関係だけを精査するなら。
「……最後の一行以外は残せ」
「隊長!?」
背後からリリアの声がした。
「私だけ危険人物みたい!」
アルベルトが振り返る。
「違うのか?」
「違うよ!」
「では昨日、何を提案した」
「侵入訓練」
「それを一般に危険人物と言う」
「教育熱心って言って」
「言わない」
そこへユリウスが顔を出した。
「先輩ー」
さらに、その後ろからセドリック。
「昨日渡し忘れた書類がある」
アルベルトの顔が固まった。
リリアの顔が輝く。
「三人揃った!」
「揃うな!」
第一大隊長の怒声が、本部中へ響き渡った。
その日の午前九時、非公式警戒項目には、誰かの手によって一文が追記された。
『訂正――元暗殺者三人を同時に入れてはいけない』
アルベルトは今度こそ剥がそうとした。
だが、その横でリリアがユリウスと笑い、セドリックが呆れたようにそれを眺めている。
自分の知らない彼女を知る二人。
以前なら、それだけで面白くなかった。
今も、多少は面白くない。
だがあの二人がいたから、今ここにリリアがいる。
そう思えば、完全に邪険にする気にもなれなかった。
「アル!」
リリアがこちらを見る。
「何だ」
「帰り、みんなでお菓子買って帰ろ!」
「なぜこいつらまで一緒なんだ」
「だめ?」
紫の瞳がこちらを見上げる。
アルベルトは三秒耐えた。
「……正門までだ」
「やった!」
ユリウスが笑う。
「隊長、先輩に甘いですよね」
「黙れ」
セドリックまで小さく笑った。
「否定は難しそうだな」
「お前も黙れ」
第一大隊、元暗殺者三人を同時に入れてはいけない。
ただし。
その三人が笑っていられる現在を守ることについてだけは、第一大隊長アルベルト・クロフォードにも異論はなかった。




