クロフォード侯爵夫妻、息子の職場で義娘を構い倒す。
王国軍第一大隊には、敵襲時の対応手順が存在する。
侵入者を発見した場合。 不審物を発見した場合。 王都に危険が迫った場合。
いずれも詳細な規定があり、第一大隊の兵士ならば迷うことなく行動できる。
しかし。
『直属の上官の両親が、その妻を構うために本部へ来た場合』
その対応手順は、まだ存在しない。
午後五時二十一分。
第一大隊本部正門前に、一台の馬車が止まった。
扉が開く。
最初に降りたのは、長身の男だった。
銀灰色の髪に青灰色の瞳。年齢は五十代前半だが、背筋は若い軍人にも劣らないほど真っ直ぐで、仕立てのいい濃色の上着を隙なく着こなしている。
クロフォード侯爵家当主、アレクシス・クロフォード。
その後ろから、エレノアが静かに降りる。
夫とは対照的に感情を大きく表へ出す女性ではない。涼やかな目元と落ち着いた佇まいには、何もせず立っているだけで周囲を黙らせる気品がある。
並んだ二人を見て、新人兵が小声で呟いた。
「……隊長のお父上、似てますね」
隣の古参兵が頷く。
「だから言っただろう。隊長が二人になると」
その瞬間。
「お義父さま! お義母さま!」
白銀の何かが飛んだ。
正確にはリリアだった。
「リリア!」
アルベルトの制止より早い。
駆け寄ってきた義娘を見た瞬間、それまで公爵として完璧だったアレクシスの表情が崩れた。
「リリア!」
両腕を広げる。
「元気だったか!」
「元気!」
「ちゃんと食べているか!」
「食べてる!」
「困っていることはないか!」
「ないよ!」
「アルベルトに意地悪されていないか!」
「父上」
低い声が落ちた。
アレクシスが息子へ振り返った、その隙だった。
エレノアがリリアの頬へそっと手を添える。
「少し痩せた?」
「え?」
リリアが自分の頬を触る。
「変わってないと思います」
「そう?」
エレノアはじっと見る。
「ちゃんと昼食を食べている?」
「食べてます!」
「昨日は?」
「食べました!」
「何を?」
「……ケーキ」
「それは昼食ではないわね」
即答だった。
アルベルトが深く頷く。
「母上からも言ってやってください」
「アルには聞いてない」
「なぜ俺が怒られるんだ」
エレノアは夫へ視線を移す。
「あなた」
「何だ」
「帰ったら料理長へ伝えて。リリアの好きな焼き菓子を明日こちらへ」
「分かった」
「母上まで甘やかさないでください!」
エレノアは息子を見た。
「昼食をケーキで済ませる子には、食事も持たせるべきだったわね」
「そっち!?」
リリアが目を丸くする。
「明日はサンドイッチもつけるわ」
「やった!」
「喜ぶな!」
第一大隊兵士たちは思った。
公爵は分かりやすい。
夫人のほうが、たぶん深刻だと。
※
応接室へ入るなり、アレクシスはリリアの近況を聞き始めた。
「それで、最近はどうだ?」
「楽しいです!」
「そうか!」
「この前、新人さんの先生もやりました」
「聞いたぞ。優秀だったそうじゃないか」
「父上。誰から聞いたんです」
「リリアから手紙で」
アルベルトが妻を見る。
「手紙?」
「うん」
「いつ書いた」
「この前」
「俺は知らないぞ」
「アル宛てじゃないもん」
「そういう意味ではない」
向かいではエレノアが持参した小さな包みを開いていた。
「リリアさん」
「はい?」
「手を出して」
リリアが素直に両手を差し出す。
その上に、淡い紫色のリボンで飾られた小さな箱が置かれた。
「これ、あなたに」
「私に?」
蓋を開ける。
中には繊細な銀細工の髪飾りが入っていた。小さな紫水晶が揺れ、光を受けるたび柔らかく輝く。
「わあ……!」
リリアの紫の瞳が、宝石以上に輝いた。
「かわいい!」
「でしょう?」
エレノアの声はいつも通り落ち着いている。
「先日、店で見かけたの。あなたの髪に似合うと思って」
「つけていい?」
「もちろん」
リリアは早速髪へ差そうとするが、鏡がないため上手くいかない。
するとエレノアが自然に立ち上がった。
「こちらへいらっしゃい」
「はい」
リリアが背を向けて座る。
エレノアは白銀の髪を指先で丁寧に梳き、耳の少し上へ髪飾りを留めた。
「これでいいわ」
「どう?」
くるりとアルベルトへ振り返る。
「アル、似合う?」
アルベルトが一瞬言葉に詰まる。
「……似合っている」
「やった!」
「当然でしょう」
エレノアが静かに言った。
「私がこの子に似合うものを間違えるわけがないわ」
アルベルトが母を見る。
アレクシスが妻を見る。
リリアは嬉しそうに髪飾りへ触れる。
そしてテオドールだけが気づいた。
侯爵夫人の口元が、ほんの少しだけ得意げに上がっている。
なるほど。
こちらも相当だった。
※
建前上の視察が始まった。
「ここが第一訓練場です」
テオドールが案内する。
「第一大隊では主に――」
「リリアもここで訓練するのか?」
アレクシスが尋ねる。
「私?」
「うん。前に新人さんの先生やったよ」
「そうなのか!」
「梁から襲った」
アレクシスの笑顔が止まる。
「……梁?」
「あと地下」
「地下?」
アルベルトが額を押さえた。
「その話はしなくていい」
「穴も掘ったよ」
「リリア」
「ちゃんと埋めた」
「結果ではなく過程が問題なんだ」
アレクシスが訓練場の梁を見上げる。
「怪我はしなかったか?」
「してないよ」
「ならよかった」
「父上!」
その隣でエレノアが静かに尋ねる。
「高さは?」
「七メートルくらい」
アルベルトが母を見る。
嫌な予感がした。
「母上」
「何?」
「止める側ですよね?」
「もちろんよ」
アルベルトが安堵する。
「次は一人でやらないようにね」
「母上!?」
「下で誰かに見てもらいなさい」
「そこではない!」
リリアが嬉しそうにエレノアの腕へ抱きついた。
「お義母さま大好き!」
「あら」
エレノアは驚くでもなく、リリアの頭を一度撫でる。
「私もよ」
さらりと言った。
リリアが固まった。
「……もう一回言って」
「嫌よ」
「なんで!?」
「一度聞いたでしょう」
「お義母さまぁ!」
追い縋るリリアを見ながら、エレノアの口元には小さな笑みが浮かんでいる。
アルベルトは天井を仰いだ。
父だけではなかった。
母まで完全に陥落している。
※
第三訓練場へ着くと、新人十二名がリリアを発見した。
全員が一斉に上を見る。 背後を見る。 床を見る。
エレノアが首を傾げる。
「なぜ床を?」
「私の教育の成果!」
リリアが胸を張った。
「後遺症です」
アルベルトが訂正する。
新人の一人が敬礼した。
「奥方様、本日は地下からではありませんよね!」
「今日は違うよ」
「今日は……」
新人たちが警戒を強める。
エレノアはそんな彼らを眺めてから、リリアへ目を向けた。
「随分慕われているのね」
「慕われてるかな?」
「あなたが来ただけで全員がこれほど真剣になるのでしょう?」
「母上。それは恐怖です」
「似たようなものよ」
「全然違います」
エレノアは聞いていなかった。
「リリアさん」
「はい」
「教えるのは楽しかった?」
「うん!」
その一言で十分だったらしい。
「なら、よかったわ」
エレノアはそれ以上何も言わなかった。
けれどその目は、義娘の新しい居場所を確かめるように、訓練場をゆっくり見渡していた。
かつて人を殺すために身につけた技術を、今は誰かを生かすために教えている。
この場所で笑っている。
それが分かっただけで、エレノアには十分だった。
「母上?」
アルベルトが呼ぶ。
「何でもないわ」
そう答えてから、エレノアはリリアの髪飾りをそっと直した。
「少し曲がっていたから」
「ありがとう、お義母さま」
リリアが嬉しそうに笑う。
エレノアも、ごく僅かに笑った。
※
「お義父さま、私ね、新しい短剣欲しい」
「買おう」
「父上」
「鞘が黒いやつ」
「探そう」
「父上」
「あとお菓子」
「好きなだけ買いなさい」
「父上!」
「甘いものばかりは駄目よ」
エレノアが割って入った。
アルベルトが救われたような顔をする。
「母上」
「焼き菓子は一日三つまで」
「お義母さま……」
リリアが悲しそうな顔をする。
エレノアは数秒耐えた。
「……四つ」
「増えた!」
「母上!」
「一つくらい変わらないでしょう」
「そういう問題ではありません!」
アレクシスが息子の肩を叩く。
「諦めろ、アルベルト」
「父上が言うな!」
※
夕刻。
馬車へ戻る前、エレノアはリリアの両手を取った。
「今度は二人でいらっしゃい」
「うん!」
「あなたの部屋もそのままにしてあるわ」
リリアが瞬く。
「私の部屋?」
「当然でしょう」
エレノアは何でもないことのように言った。
「あなたの家でもあるのだから」
一瞬、リリアが何も言わなくなった。
家。
かつて、その言葉を自分のものとして考えたことなどほとんどなかった。
帰る場所。 待っている人。 自分の部屋。
結婚してアルベルトからもらったものが、いつの間にかもう一つ増えている。
「……お義母さま」
「何?」
「ぎゅってしていい?」
エレノアの目が僅かに見開かれた。
「聞かなくてもいいでしょう」
それだけだった。
次の瞬間、リリアが抱きつく。
エレノアは一度だけ目を閉じ、白銀の頭を静かに抱き寄せた。
「またいらっしゃい」
「うん」
「ちゃんと食べて」
「うん」
「危ないことは――」
一拍。
「できれば控えて」
「できれば?」
アルベルトが反応した。
「母上、そこは絶対でしょう!」
「この子に『絶対』と言って聞くの?」
アルベルトが黙った。
「……聞きません」
「でしょう?」
完敗だった。
※
翌朝、クロフォード侯爵家から、第一大隊本部へ巨大な荷物が届いた。
宛名『リリアへ』
アレクシスから黒い鞘の短剣二本。 菓子十二箱。
そしてエレノアから昼食用のサンドイッチ。 果物。 紅茶。 予備の手袋。 寒くなった時のための薄手の外套。 昨日リリアが「かわいい」と言っていた店のリボン。
さらに小さなカード。
『お菓子だけで昼食を済ませないこと。次に来る日は先に知らせてね。あなたの好きなものを用意して待っています。――エレノア』
リリアはしばらくカードを見つめた。
「……アル」
「何だ」
「私、お義母さまも大好き」
「知っている」
「お義父さまも好き」
「それも知っている」
「クロフォード家、好き」
アルベルトの表情が僅かに止まった。
そして、リリアの頭へ手を置く。
「……そうか」
それだけだった。
けれど手はしばらく離れなかった。
そこへテオドールが荷物の確認書を持ってくる。
「隊長。一応、搬入物として記録が必要なのですが」
「書け」
「品目は」
「短剣、食料、衣類だ」
「贈答目的は?」
アルベルトが黙る。
リリアが元気よく答えた。
「娘がかわいいから!」
「リリア」
「違う?」
誰も否定できなかった。
※
その日の午後、第一大隊の非公式警戒項目に新たな一文が追加された。
『クロフォード侯爵夫妻が義娘を構い始めた場合――止めることは不可能』
その下には別の筆跡。
『侯爵閣下――分かりやすく甘い』
さらにその下。
『侯爵夫人――分かりにくいだけでもっと甘い』
アルベルトは三行すべて読んだ。
しばらく考えた。
「……否定できない」
珍しく剥がさなかった。
ただし夕方、四行目が追加された。
『第一大隊長――両親以上に甘い』
掲示板そのものが撤去された。




