第一大隊、平和すぎる一日に耐えられない。
第一大隊、平和すぎる一日に耐えられない。
王国軍第一大隊には、危険を察知するための指標がいくつかある。
敵軍の不審な移動、王都周辺における犯罪件数の増加、情報局から届く緊急報告。そして近頃、兵士たちの間で非公式に追加されたものがひとつ。
――クロフォード夫妻が、妙に静か。
最後の一項について、第一大隊長アルベルト・クロフォードは断固として警戒基準への採用を認めていない。
「夫婦が普通に過ごしているだけで、なぜ軍が警戒する必要がある」
至極もっともな意見だ。
ただし、その『普通』によって過去に王都封鎖、第一級警戒態勢、本部への侵入、用途不明の地下通路発見その他諸々が発生している事実については、兵士一同、あえて口にしないことにしていた。
反論したところで隊長の眉間の皺が増えるだけである。
そして、その日の第一大隊は――朝から異様なほど平和だった。
※
異変が確認されたのは、午前八時十三分。
第一大隊本部、隊長執務室。
「おはよう、アル」
軽やかな声とともに扉が開き、白銀の長い髪を揺らしてリリアが入ってきた。
書類に目を通していたアルベルトは顔を上げる。紫の瞳は機嫌よく輝いているし、服にも髪にも妙な汚れはない。少なくとも壁を登った形跡はなさそうだった。
「おはよう」
「今日はちゃんと正門から来たよ」
なぜそれを誇らしげに報告するのか。
アルベルトは疑問を飲み込み、ひとまず頷いた。
「そうか」
「許可証も見せたし、壁も越えてないよ」
「当然だ」
「地下も通ってない」
書類をめくりかけていた手が、そこで止まった。
アルベルトはゆっくり妻を見る。
「なぜ最後だけ、わざわざ報告する必要がある」
「前に怒られたから」
リリアは悪びれる様子もなく笑っている。
以前、新人教育と称して訓練場の地下に勝手に通路を掘った女の笑顔としては、あまりにも無垢だった。
「怒られるような経路で軍本部へ入るな」
「今日は入ってないよ?」
「ならいい」
それで会話は終わった。
リリアは満足そうに頷くと、窓際のソファへ腰を下ろし、持参した本を開く。アルベルトも仕事へ戻り、向かいの机ではテオドールが眼鏡越しに報告書を確認している。
紙をめくる音。ペン先が走る音。窓から入り込む春風が、カーテンを柔らかく揺らす音。
それだけだった。
廊下から室内を覗いていた兵士二名が、そっと顔を見合わせる。
「……終わったぞ」
若い兵士が囁くと、隣の古参兵は訝しげに眉を寄せた。
「何がだ」
「会話が」
言われて、古参兵も改めて室内を見た。
隊長は仕事。
副官も仕事。
隊長夫人は読書。
誰も怒っていない。誰も逃げていない。窓も壁も天井も、軍施設としてあるべき姿を保っている。
平和だった。
あまりにも、平和だった。
「……怖いな」
若い兵士が呟く。
古参兵も、しばらく考えた末に重々しく頷いた。
「ああ」
何が怖いのかは、二人とも説明できなかった。
※
午前九時四十二分。
異常事態は継続していた。
リリアが一度もアルベルトの仕事を邪魔をしていない。
机に乗らない。書類を勝手に覗かない。「暇」と言わない。訓練計画書の余白へ『暗殺者役・私』と書き足さない。
むしろ静かすぎて、アルベルトのほうが時折ソファを確認している始末だった。
三度目に視線を向けたところで、リリアが本から顔を上げる。
「アル、紅茶飲む?」
見ていたことを悟られた気がして、アルベルトはわずかに視線を逸らした。
「……ああ」
「テオもいる?」
「いただきます」
しばらくして、三人はごく普通に紅茶を囲んでいた。
リリアは角砂糖をひとつ、ふたつ、みっつと自分のカップへ沈める。
それを横目で数えていたアルベルトが眉を寄せた。
「入れすぎだ」
「今日は少ないよ?」
「昨日はいくつ入れた」
「五個」
「それは紅茶ではなく砂糖水だ」
呆れながらも、アルベルトの口元がほんの僅かに緩む。
リリアはそれを見逃さなかったらしく、嬉しそうに目を細めた。
その瞬間だった。
廊下の角から様子を窺っていた兵士四名が、一斉に息を呑む。
「……笑った」
「隊長が?」
「ああ。奥方様を見て」
「怒らずに?」
四人の間に重苦しい沈黙が落ちた。
やがて一人が、戦場で敵の伏兵を察知したかのような顔になる。
「警戒を上げたほうがいい」
「何に対してだ」
「分からん」
「分からないのに?」
男は真剣な眼差しで仲間を見た。
「分からないからこそだ」
妙な説得力があった。
※
午前十時。
第一大隊本部に、王宮情報局のユリウスが姿を現した。
「先輩ー」
聞き慣れた呼び声に、執務室の中でリリアが顔を上げる。
「ユリウス?」
「仕事。定期報告持ってきた」
「珍しいね。ちゃんと仕事してる」
「先輩にだけは言われたくない」
書類を抱えたまま、ユリウスは露骨に嫌そうな顔をした。
かつて暗殺者として同じ現場を生き抜いた先輩と後輩だった。
リリアが《白猫》として恐れられていた頃を知る数少ない人間であり、だからこそ今さら遠慮する理由もない。
「私、仕事するときはちゃんとしてたよ?」
「仕事『は』な」
「どういう意味?」
「そのまんま」
「ユリウス、最近生意気になったね」
「昔からだよ」
そんなやり取りをしながら、ユリウスは書類の束を差し出した。
その上には、小さな紙袋が載っている。
リリアが目を瞬かせた。
「これ、なに?」
「途中で買った焼き菓子。先輩、昔からあそこの好きだっただろ」
紫の瞳がぱっと輝いた。
「覚えてたの?」
「何年一緒に仕事してたと思ってんだよ」
任務帰り、疲れ果てたリリアが珍しく足を止めた店だった。
そんな昔のことを覚えていたらしい。
「ユリウス、ありがと!」
紙袋を抱えたリリアが嬉しそうに笑う。
その瞬間、執務室の奥から書類を置く音がした。
少しだけ。
本当に少しだけ、必要以上に硬い音だった。
ユリウスがそちらを見る。
アルベルトが無表情で書類を見ている。
「……隊長」
「何だ」
「なんか怒ってます?」
「怒っていない」
視線すら上げない。
それが逆に怪しい。
ユリウスは長年、命の危険を察知する仕事をしてきた。こういうときに余計なことを言えば碌な結果にならない程度の危機察知能力はある。
「じゃ、俺は仕事戻るから」
「あ、ユリウス」
呼び止められ、反射的に振り返る。
リリアは紙袋を開けながら首を傾げていた。
「今度一緒に買いに行こ」
「いいけど――」
「リリア」
低い声が割り込んだ。
「何?」
「その菓子を食べるなら、紅茶を淹れる」
「あ、アルも食べる?」
一拍。
「……食べる」
ユリウスは察した。
「俺、帰るね」
「早いね?」
「生きるために必要な判断だから」
「?」
意味が分かっていないリリアだけが首を傾げている。
廊下へ出たユリウスを、兵士たちが妙に温かな目で迎えた。
「……よかった」
「何が?」
「いつもの感じになってきた」
「何の話だよ」
思わず声を上げると、執務室から即座に怒声が飛んできた。
「情報局員が廊下で騒ぐな!」
兵士たちの表情が、一斉に緩んだ。
「よかった」
「ああ」
「いつもの隊長だ」
「何に安心している!」
さらに安堵が広がった。
ユリウスだけが最後まで状況を理解できなかった。
※
正午。
食堂の隅では、この日の異常について非公式会議が開かれていた。
議題は至って単純。
『なぜ今日は何も起きないのか』
「奥方様は?」
「隊長と昼食中」
「口論は?」
「焼き菓子を誰が多く食べたかで少し」
「平常だな」
「副官殿は?」
「午後からシャルロット王女殿下が来るらしい」
その情報に、兵士たちの顔が明るくなった。
副官テオドールと王女シャルロット。
交際前から第一大隊を巻き込み、交際成立後は距離感を見失い、名前を呼ぶだけで掲示板に記録され、挙句の果てにはデートの行き先に王宮の決裁印が押された二人である。
今度こそ何か起こる。
そんな歪んだ期待が食堂を包んだ。
ところが午後零時四十七分。
「こんにちは、テオドール」
「こんにちは、シャルロット」
終わった。
シャルロットが差し出した手を、テオドールはほんの少し微笑みながら自然に取った。
「今日は暖かいですね。中庭へ行きましょうか」
「ええ」
二人はそのまま歩いていく。
兵士たちは声もなく見送った。
やがて新人兵が、恐る恐る口を開く。
「……今、普通でしたよね?」
誰も答えない。
「副官殿、殿下を一回で名前で呼びましたよ?」
「見ていた」
「手も自然に繋いでました」
「見ていた」
「もしかして副官殿……恋人との接し方に慣れたのでは?」
古参兵が、信じられないものを見るように新人を見た。
「そんな馬鹿な」
「でも、交際してるんですから普通では?」
古参兵は静かに新人の肩へ手を置いた。
その表情には、数多の修羅場を越えた者だけが持つ深みがあった。
「新人」
「はい」
「この本部で『普通』という言葉を軽々しく使うな」
新人は、それ以上何も聞けなくなった。
※
午後二時。
とうとうテオドール本人が、兵士たちの異変に気づいた。
「隊長。本日の兵士たちは、妙に落ち着きがありませんね」
訓練場を見渡しながら眼鏡を押し上げる。
アルベルトも腕を組んだ。
「俺も気づいている」
兵士たちは必要以上に周囲を警戒していた。
上を見る。
床を見る。
窓を見る。
そして最後に、リリアを見る。
「……新人教育の成果かな?」
リリアだけが嬉しそうだった。
「違う」
「でも、みんな危険を探してるよ?」
「存在しない危険を探している」
「危機察知としては満点だね」
「不安を植え付けただけだろう」
その横で、シャルロットが堪えきれず小さく笑った。
「第一大隊って、いつもこうなの?」
「最近は特に」
テオドールの返答があまりにも早く、アルベルトの眉間に皺が刻まれる。
「誰のせいだと思っている」
「隊長夫妻では?」
「なぜ俺まで含まれる」
「実績です」
副官は淡々としていた。
「王都封鎖、第一級警戒態勢、地下通路――」
「待て。最後は俺ではない」
「アル」
リリアが袖を引く。
「なんだ」
「私たち、人気者だね」
「違う。監視対象に近い」
「じゃあテオとシャルも?」
「巻き込むな」
するとシャルロットが、どこか楽しそうに首を傾げた。
「でも私たちも、ずいぶん見られていたわよね」
「過去形にしないでください」
テオドールは深々と息を吐く。
「現在進行形です」
その言葉を証明するかのように、少し離れた場所で兵士が手帳を閉じた。
テオドールの眼鏡が光る。
「今、何を書きました?」
「何も!」
「見せなさい」
「業務記録です!」
「なら見せられますね?」
兵士が走り出した。
テオドールも追う。
「待ちなさい!」
その背中を見送った古参兵が、心底ほっとしたように呟いた。
「……いつもの副官殿だ」
「安心するな!」
遠くから怒声が返ってきた。
ようやく第一大隊にも、日常らしい騒がしさが戻ってきた。
※
午後四時。
それでも、大きな事件は起きなかった。
傾き始めた陽が長い廊下を橙色に染め、窓枠の影を床へ細長く落としている。
執務室ではアルベルトが最後の書類を確認し、テオドールが翌日の予定を整理していた。
リリアとシャルロットは窓際のソファで、残った焼き菓子を半分ずつ分けている。
「これ、本当に美味しいわね」
「でしょ? 昔、任務帰りによく買ったの」
何気なく口にしてから、リリアはほんの一瞬だけ目を伏せた。
あの頃、任務の後に帰る場所はなかった。
生きて戻れば次の命令を待ち、また夜になれば誰かの命を奪いに行く。そんな日々の途中で食べる甘い菓子だけが、僅かな息抜きだった。
けれど今は違う。
顔を上げれば、机に向かうアルベルトがいる。
隣ではシャルロットが笑っている。
向かいにはテオドールがいて、廊下からは兵士たちの声が聞こえてくる。
先ほどまでいたユリウスも、明日になればまた何食わぬ顔で「先輩」と呼ぶのだろう。
かつての自分なら、こんな未来を想像できただろうか。
軍本部の執務室で紅茶を飲み、誰かと菓子を分け、帰る時間になれば夫と同じ家へ帰る。
そんな当たり前が、自分にも与えられるなど。
「……静かだね」
リリアがぽつりと言った。
「そうね」
シャルロットが柔らかく微笑む。
その声を聞いて、アルベルトも書類から顔を上げた。
妻がいる。
副官がいる。
その副官の恋人になった王女がいる。
情報局の人間まで、もはや当然のように出入りする。
騒がしい連中だと思う。
自分も含めて。
「……平和だな」
口から出た言葉に、自分自身が少し驚いた。
リリアも目を丸くする。
やがて、ぱっと笑った。
「うん。いいね、こういうの」
白銀の髪が夕日に淡く染まり、紫の瞳が幸せそうに細められる。
アルベルトは何も答えなかった。
ただ、その表情を見つめたあと、ほんの僅かに口元を緩めた。
それで十分だった。
テオドールも書類から目を上げる。
シャルロットと視線が重なり、彼女が笑う。
以前なら、その程度のことで思考が止まっていた。
今は自然に笑い返せる。
何も起きない。
誰も逃げない。
誰も追わない。
壁も壊れない。地下も増えない。国家案件にもならない。
第一大隊にとっては異常なほど珍しく――彼らにとっては、ごく普通の幸福な一日だった。
※
午後五時十二分。
「……終わった」
帰宅準備をしていた若い兵士が、信じられないものを見るように夕焼けを眺めた。
隣の古参兵が眉を上げる。
「何がだ」
「一日が」
「そうだな」
「何も起きずに?」
その問いに、古参兵も訓練場へ目を向けた。
敵襲なし。
侵入者なし。
地下から人も出てこない。
空も赤いだけで、何も降ってこない。
「……そうだな」
若い兵士の顔に、ひとつの可能性へ辿り着いた者の表情が浮かぶ。
「もしかして」
「何だ」
「これが普通なのでは?」
古参兵はゆっくりと振り返った。
そして、若者の肩へ重々しく手を置く。
「馬鹿を言うな」
「え?」
「そんなわけがない」
「でも今日は――」
その瞬間だった。
正門方面から鐘が二回鳴った。
直後、伝令兵が廊下を全力で駆けてくる。
「隊長!」
本部の空気が変わった。
兵士たちが一斉に立ち上がる。
「来た!」
「やっぱり!」
「何かあった!」
なぜか安堵まで混じっている。
「喜ぶな!」
アルベルトの怒声が飛んだ。
伝令兵は執務室前で急停止すると、乱れた呼吸を整える間も惜しんで敬礼した。
「クロフォード隊長! 至急ご報告が!」
「何だ」
一瞬で、アルベルトの顔から私情が消える。
テオドールも立ち上がり、眼鏡の奥の目を鋭くする。
リリアも焼き菓子を手にしたまま振り返った。
「クロフォード侯爵閣下ご夫妻が、こちらへ向かわれております!」
沈黙。
アルベルトが瞬いた。
「……父上と母上が?」
「はい!」
対照的に、リリアの顔は見る間に輝いた。
「お義父さまとお義母さま!?」
勢いよく立ち上がった拍子に、膝から本が落ちる。
本人は気づきもしない。
「なんで? 遊びに来るの?」
「侯爵閣下より伝言を預かっております!」
伝令兵が紙を開いた。
「『息子夫婦の職場を、一度きちんと見ておきたい』とのことで!」
アルベルトの眉間に、本日最深の皺が刻まれた。
嫌な予感しかしない。
父が「息子の職場を見たい」だけで来るはずがない。少なくとも、最近の父は息子より義娘に会う理由を探している節がある。
「……なぜ今日なんだ」
アルベルトが呻く一方、リリアはすでに外へ向かおうとしていた。
「やった。迎えに行ってくる!」
「待て」
アルベルトは咄嗟にその腕を掴む。
「まだ正門にも到着していない」
「じゃあ正門で待つ」
「なぜそうなる」
「だって早く会いたいもん」
あまりにも迷いのない答えだった。
アルベルトは一瞬だけ言葉を失った。
リリアにとって、自分の両親はもう『夫の両親』ではないのだろう。
お義父さま。
お義母さま。
そう呼ぶ声に遠慮がなくなって久しい。
そして両親もまた、彼女を『息子の妻』としてだけ見てはいない。
父など娘が欲しかった反動なのか、リリアを見つけるたびに構いたがる。母は父ほど表へ出さないものの、リリアが好きだと言った紅茶も菓子も一度で覚え、何気なく次に用意している。
家族なのだ。
その事実は、アルベルトにとって悪いものではない。
――父が自分の妻を構い倒すことさえなければ。
「……奥方様、侯爵閣下ご夫妻のこと本当に好きなんですね」
近くにいた新人兵が、微笑ましそうに呟いた。
古参兵も頷く。
「侯爵閣下のほうも相当らしいぞ」
「では、隊長と義娘の取り合いに?」
アルベルトが振り返った。
「全部聞こえているぞ」
兵士たちの背筋が一斉に伸びる。
そんな上官を横目に、テオドールは眼鏡を静かに押し上げた。
「隊長」
「何だ」
副官は今日一日の平穏を惜しむように、わずかに息を吐いた。
「本日の平和、終了ですね」
アルベルトは目を閉じた。
否定したい。
だが、否定できる材料がひとつもない。
「……言うな」
その袖を、リリアが楽しそうに引っ張った。
「アル、早く行こう」
「引っ張るな」
「お義母さまも来るんだよ?」
「分かっている」
「お義父さまも!」
「それも分かっている!」
「じゃあ早く!」
「だから、まだ着いていない!」
第一大隊の兵士たちは、その光景を眺めながら深く頷いた。
ようやく世界が正常に戻った。
※
王国軍第一大隊、本日の重大事件。
敵襲――なし。
侵入者――なし。
地下通路の増設――なし。
王女殿下と副官殿の交際問題――なし。
隊長夫妻の夫婦喧嘩――なし。
午後五時十二分まで、異常なし。
なお、その後については、『クロフォード侯爵夫妻、第一大隊本部来訪』との記録を最後に、日報の筆跡がなぜか急激に乱れていた。
余白には、誰が書いたのか分からない一文まで残されている。
『平和とは、次の騒動までの待機時間である』
翌朝、それを発見したアルベルトによって即座に削除された。
ただし第一大隊の兵士たちは、誰一人として間違っているとは思わなかった。
なぜなら、その日の夕刻、正門前へ到着した豪奢な馬車から降りたアレクシス・クロフォードは、息子の姿を確認するより早く、その隣にいる白銀の髪を見つけて満面の笑みを浮かべたからである。
「リリア!」
「お義父さま!」
そして、その隣でエレノアは夫のように大きく手を広げたりはしなかった。
いつもの涼やかな表情のまま馬車を降り、腕に抱えた上品な箱をリリアへ差し出す。
「先日、好きだと言っていたでしょう?」
中に入っていたのは、リリアが以前たった一度「おいしい」と口にした菓子だった。
「……覚えててくれたんですか?」
目を輝かせる義娘を見て、エレノアの目元がほんの僅かに和らぐ。
「当然でしょう」
その一言に、リリアの顔がますます綻んだ。
アレクシスはすでに義娘へ渡す別の土産を取り出している。
エレノアもまた、まだ馬車の中に紅茶の箱を残している。
二人とも、明らかに持ってきすぎだった。
その光景を見たアルベルトは、静かに眉間を押さえた。
「……息子の職場を見に来たのではなかったのですか」
アレクシスが不思議そうに息子を見る。
「そのつもりだが?」
「では、その大量の荷物は何です」
「リリアへの土産だ」
即答だった。
エレノアも涼しい顔で続ける。
「こちらは私からよ」
「母上まで……」
リリアは両腕いっぱいの土産を抱え、幸せそうに笑っている。
「アル、見て! いっぱいもらった!」
「見れば分かる」
「あとで一緒に食べようね」
そう言われてしまえば、アルベルトもそれ以上は何も言えなかった。
その様子を、第一大隊の兵士たちは遠巻きに眺めている。
誰かが、小さく呟いた。
「……明日、荒れそうだな」
隣の兵士が頷いた。
「ああ」
「何が起きると思う?」
「分からん」
「またそれか」
「だが、ひとつだけ分かる」
古参兵は、義娘を構いたくて仕方がない侯爵と、それを涼しい顔で上回る量の土産を持参した侯爵夫人、そしてすでに眉間を押さえている第一大隊長を順番に見た。
「今日より平和ではない」
誰も反論しなかった。
第一大隊は明日も平和である。
おそらく。
少なくとも――クロフォード侯爵夫妻が、義娘を構い始めるまでは。




