王女殿下、第一大隊では完全に身内扱いされている。
王国軍第一大隊には、来訪者に対する明確な規則が存在する。
身分の確認、訪問目的の申告、入退庁時刻の記録。王族であろうと例外はなく、警備責任者の許可なく執務区域へ立ち入ることはできない。
ただし、近頃ひとつだけ、運用に著しい問題が生じていた。
シャルロット王女殿下。
正確には、第一大隊副官テオドール・ハインツ大尉の恋人であり、国王陛下がいまだに結婚という二文字を直視できない原因でもある、あのシャルロット王女殿下だ。
彼女が本部を訪れるようになってから、兵士たちの対応が少しずつ変わり始めた。
最初は敬礼だった。
次に挨拶が増えた。
やがて世間話が始まり、最近では――。
「殿下、お帰りなさい!」
王女殿下が、帰ってくることになっていた。
※
午前九時四十二分。
秋の陽射しが石畳を照らす第一大隊本部の正門に、王家の紋章を掲げた馬車が停まった。
淡い青の外出着に身を包んだシャルロットが降り立つと、当直の兵士が背筋を伸ばした。
彼女は柔らかな金髪を揺らしながら、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「おはようございます。テオドールは執務室に?」
「はい! 副官殿でしたら、現在は隊長と会議中です!」
「そう。では、終わるまで待たせていただくわ」
「承知しました! あ、殿下」
「なあに?」
「昨日、副官殿が殿下からのお手紙を読んで笑っておられました!」
シャルロットの足が止まった。
「……そうなの?」
「はい! 非常に珍しいことです!」
「どんなふうに?」
「口元が、こう」
兵士は精いっぱい真似をした。
どう見ても不審者だった。
シャルロットは数秒その顔を見つめ、とうとう吹き出した。
「ふふっ……ありがとう。でも、そのお話をしたことはテオドールには内緒にしてね?」
「もちろんです!」
兵士は力強く敬礼した。
その三分後、彼は副官本人から呼び出された。
「殿下に何を報告したのですか」
「機密事項です!」
「私に関する機密を私へ隠すな!」
第一大隊の朝は、本日も平和だった。
※
「シャル!」
執務室の扉が開くなり、リリアが駆け寄ってきた。
白銀の髪を揺らし、紫の瞳を輝かせた元暗殺者は、王女殿下を迎えるというより、遊びに来た友人を見つけた少女のようだった。
「今日は早いね! テオに会いに来たの?」
「ええ。それと、リリアにもお渡ししたいものがあって」
シャルロットが小さな包みを差し出す。
中身は、以前リリアが気に入っていた王都西区の菓子店の焼き菓子だった。
「わあ! これ好き!」
「覚えていたの。今朝ちょうど届けてもらえたから」
「シャル大好き!」
「お菓子がなくても?」
「もちろん!」
抱きつくリリアを受け止めながら、シャルロットは楽しそうに笑った。
かつて王宮のお茶会で、彼女の自由奔放さに驚かされたことがある。けれど今では、この遠慮のなさが心地よかった。
王女として振る舞う必要のない友人。
それはシャルロットにとって、思っていた以上に得難い存在だった。
「リリア」
奥から低い声がした。
アルベルト・クロフォードが書類から顔を上げ、妻の腕の中にいる王女を見て一瞬だけ眉を寄せる。
「殿下を離せ。挨拶もまだだろう」
「あ、そうだった!」
「そうだった、ではない」
リリアが離れると、アルベルトは立ち上がって礼を取った。
「殿下。ようこそお越しくださいました」
「おはようございます、クロフォード隊長。お仕事の邪魔をしてしまってごめんなさい」
「お気遣いなく。会議も間もなく終わります」
そこへ、リリアがひょいと顔を出す。
「アル、シャルも一緒にお昼食べるって!」
「まだ聞いてないだろう」
「シャル、食べる?」
「ええ。お邪魔でなければ」
「ほら!」
「今聞いただろう!」
シャルロットは口元を押さえた。
王宮では決して見られない光景だ。
国王の前でも動じない第一大隊長が、妻のたった一言で毎日これほど振り回されている。
しかも、最後には大抵折れる。
「……昼食の手配をしておきます」
「アル、優しい!」
「殿下への配慮だ」
「私には?」
「お前は昨日もここで昼食を取っただろう」
「今日も食べたい!」
「誰も帰れとは言っていない!」
シャルロットは笑いながら思った。
この夫婦の会話は、どうしてこんなにも安心するのだろう。
※
午前十一時。
会議を終えたテオドールが執務室へ戻ると、恋人はリリアと並んでソファに座っていた。
「シャルロット」
呼びかける声が、自然に柔らかくなる。
以前なら「殿下」と呼んでいた。
たったそれだけの変化なのに、シャルロットは今でも胸が温かくなる。
「お疲れさま、テオドール」
「お待たせして申し訳ありません」
「いいえ。リリアと楽しくお話ししていたわ」
「何の話ですか」
「テオの初恋」
「リリアさん!?」
テオドールの声が裏返った。
リリアは悪びれもせず首を傾げる。
「だってシャルが聞きたいかなって」
「聞いてません!」
「私は少し聞きたいわ」
「シャルロット!?」
王女は涼しい顔で紅茶を飲んだ。
その隣でリリアが満足そうに頷く。
「シャル、だいぶ強くなったね」
「誰の影響でしょうね?」
「私かな!」
「自覚があるなら少し控えてください!」
テオドールが眉間を押さえる。
だが、彼女たちの楽しそうな様子を見ると、それ以上は叱れなかった。
シャルロットは王女だ。
その立場ゆえ、誰もが彼女へ敬意を払う一方、気安く冗談を言える者は限られている。
ここでは違う。
リリアは遠慮なく笑い、アルベルトは必要な時には注意し、兵士たちは彼女が来ることを心から喜んでいる。
それが嬉しい。
ただし。
「副官殿!」
廊下から兵士が顔を出した。
「殿下がお越しなので、午後の訓練を公開形式に変更しますか!」
「変更しません!」
「では、通常訓練で格好いいところを!」
「通常訓練にそのような目的はありません!」
「殿下、ぜひご覧ください!」
「ええ、ぜひ」
「シャルロット!?」
彼女が悪戯っぽく微笑む。
「だって、テオドールがお仕事をしているところ、好きなんですもの」
副官は黙った。
廊下の兵士が拳を握る。
「殿下、ありがとうございます!」
「お前は何に礼を言っている!」
※
正午。
食堂へ向かったシャルロットは、入口で思いがけないものを見つけた。
『本日のおすすめ』
その下に小さな文字。
『王女殿下のお好きな林檎の焼き菓子、あります』
「……まあ」
料理長が厨房から顔を出した。
「殿下! 先日、おいしいとおっしゃってくださったので、また焼いてみました!」
「覚えていてくださったの?」
「もちろんです!」
シャルロットの表情がほころぶ。
「嬉しいわ。ありがとう」
その一言で料理長は感極まった。
なお、隣にいたアルベルトは献立表を見つめていた。
「……料理長」
「はい!」
「昨日、俺が頼んだ野菜の追加は?」
「仕入れの都合で明日になります!」
「殿下の菓子は今日焼けたのか」
「はい!」
「……そうか」
「隊長、何か問題でも?」
「いや。何も」
アルベルトは静かに席へ向かった。
その背中には、戦場でも見せない哀愁が漂っていた。
「アル、負けたね!」
「何の勝負だ!」
リリアが笑い、シャルロットも肩を震わせる。
テオドールは恋人のために椅子を引きながら、小さく息を吐いた。
「……すっかり馴染んでおられますね」
「迷惑かしら?」
「まさか」
即答したあと、彼は少しだけ視線を伏せた。
「あなたが楽しそうで、嬉しいです」
シャルロットは目を細める。
「私もよ」
その瞬間、近くの席から拍手が起きた。
「やめなさい!」
テオドールの怒声で、食堂はさらに賑やかになった。
※
午後三時。
訓練場には、いつもと変わらない号令が響いていた。
シャルロットは見学席から、兵士たちの動きを真剣に見つめている。
テオドールは部下の剣筋を確認し、重心の乱れを指摘しながら、必要な時だけ自ら手本を示した。
無駄のない動き。
的確な指示。
訓練中に負傷しかけた若い兵士を即座に止め、構えの修正を丁寧に教える姿には、普段の不器用な恋人とは違う頼もしさがあった。
「……格好いい」
シャルロットが呟く。
隣のリリアが、にやりと笑った。
「でしょ?」
「ええ。とても」
「テオ、聞こえてるー?」
「リリアさん!」
訓練場から抗議が飛ぶ。
シャルロットは頬を染めたものの、今度は逃げなかった。
むしろ立ち上がり、はっきりと告げた。
「テオドール! とても素敵だったわ!」
訓練場が静まり返った。
テオドールが固まる。
リリアが両手を上げる。
「はい! 副官殿、完全停止!」
兵士たちが一斉に笑い出した。
その騒ぎを聞きつけたアルベルトが、訓練場の入口で足を止める。
「……何をしている」
「隊長! 副官殿が殿下に褒められました!」
「それがどうした」
「動かなくなりました!」
アルベルトは副官を見た。
確かに動いていない。
「テオドール」
「……はい」
「訓練を続けろ」
「承知しました」
「それと」
アルベルトは一拍置いた。
「殿下に礼くらい言え」
「隊長まで!?」
第一大隊の笑い声が、秋空へ響き渡った。
※
夕刻。
王宮へ戻る馬車を待ちながら、シャルロットは中庭のベンチに腰を下ろしていた。
隣にはテオドールがいる。
昼間の騒がしさが嘘のように、辺りは静かだった。
「……今日は、ありがとうございました」
テオドールが口を開く。
「何のお礼?」
「兵士たちに、よくしてくださったことです」
「それはこちらの台詞よ」
シャルロットは首を横に振った。
「皆さん、私を王女として敬ってくださるでしょう? でも、それだけではないのね」
門番は彼女を笑わせようとし、料理長は好みを覚えてくれた。
兵士たちは恋人をからかいながらも、彼の仕事ぶりを誇らしげに話していた。
「皆さんがテオドールを大切に思っていることが、よく分かったわ」
彼は意外そうに顔を上げる。
「……私を?」
「ええ。だって、あんなに楽しそうにからかえるのは、あなたが信頼されているからでしょう?」
「単に遠慮がないだけかと」
「ふふ。それもあるでしょうね」
シャルロットは少しだけ身を寄せた。
「でも、私がここに来ると皆さんが喜んでくださるのは、きっと、あなたの大切な人だからなのね」
テオドールは言葉を失った。
その通りだった。
第一大隊の者たちは、彼女を王女として敬うことを忘れてはいない。
ただそれ以上に、彼女が自分にとってどれほど大切な存在かを、誰よりもよく知っている。
「……シャルロット」
「なあに?」
「私は、幸せ者ですね」
彼女が驚いたように瞬く。
普段なら決して口にしない言葉だった。
「あなたと出会えて、あの者たちと働けて……少々、騒がしくはありますが」
「少々?」
「……かなり」
シャルロットが笑う。
テオドールも、つられるように口元を緩めた。
「でも、私は好きよ。ここが」
彼女はそっと手を差し出す。
「あなたの大切な場所が、私にとっても大切になったことが嬉しいの」
テオドールはその手を取った。
王女殿下ではなく、シャルロットの手を。
そして、静かに握り返した。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
穏やかな時間だった。
少なくとも、その三秒後までは。
「祝! シャル、第一大隊身内認定!」
茂みからリリアが飛び出した。
「リリア!?」
続いて兵士が三名。
なぜか横断幕まである。
『ようこそ第一大隊へ!』
「何をしているんですか!」
テオドールが立ち上がった。
「お祝い!」
「何の!」
「シャルがもう完全に身内だから!」
「誰が決めたんですか!」
「みんな!」
兵士たちが力強く頷く。
「異議なし!」
「満場一致です!」
「副官殿、おめでとうございます!」
「私の結婚式ではありません!」
「予行演習です!」
「何の予行演習ですか!」
そこへアルベルトが現れた。
「……リリア」
「アル!」
「横断幕を片づけろ」
「えー!」
「殿下が困っておられるだろう」
シャルロットは慌てて首を横に振った。
「いいえ、隊長。とても嬉しいです」
アルベルトが止まる。
テオドールも止まる。
リリアだけが満面の笑顔になった。
「ほら!」
「……殿下」
アルベルトは困ったように息を吐いた。
「どうか、あまり妻を甘やかさないでください」
「あら」
シャルロットは悪戯っぽく微笑んだ。
「それは隊長にこそ、お伝えしたい言葉ですわ」
沈黙。
リリアが吹き出した。
兵士たちも笑い始める。
アルベルトは額を押さえた。
「……殿下まで」
第一大隊長、王女殿下にも敗北。
その日の記録に、新たな一敗が刻まれた。
※
翌朝。
第一大隊の掲示板には、一枚の通達が貼られていた。
『シャルロット王女殿下来訪時の対応について』
一、王族としての礼節を遵守すること。
二、通常の警備手順を省略しないこと。
三、副官殿の私生活を勝手に報告しないこと。
四、副官殿と殿下の会話を実況しないこと。
五、殿下の前で副官殿を必要以上にからかわないこと。
その下に、別の筆跡。
『ただし殿下は身内なので、歓迎すること』
さらに追記。
『将来的には本当の身内になる予定』
テオドールは無言で最後の一文を剥がした。
その背後から、アルベルトが現れる。
「……またか」
「隊長。この本部には、個人の恋愛事情を尊重するという概念がないのでしょうか」
「俺に聞くな」
「隊長ならお分かりになるかと」
アルベルトは副官を見た。
しばらく考えた。
「……諦めろ」
「またそれですか!」
そこへリリアが顔を出す。
「テオ、おはよ! シャル、今日も来るって!」
「聞いていません!」
「今教えた!」
「そういう意味ではありません!」
廊下の向こうから、兵士の声が響いた。
「殿下、お帰りなさい!」
「ただいま!」
明るい返事が聞こえる。
テオドールは思わず振り返った。
そこには、金髪を揺らして笑うシャルロットがいた。
王女としての気品を失わず、それでいて、ここにいる誰よりも楽しそうに。
「おはよう、テオドール」
「……おはようございます、シャルロット」
その顔を見た兵士たちが、にやりと笑った。
テオドールは即座に振り返る。
「何も言わないでください!」
「まだ何も言っておりません!」
「顔に書いてあります!」
「副官殿、我々の顔まで管理なさるおつもりですか!」
「必要なら管理します!」
第一大隊本部に笑い声が広がった。
※
なお、その日の午後、国王陛下の執務室へ一通の報告書が届いた。
『シャルロット王女殿下、第一大隊にて完全に身内扱い』
国王は黙って読んだ。
もう一度読んだ。
そして、側近へ尋ねた。
「……身内?」
「はい」
「誰の?」
「第一大隊の、かと」
「娘は王家の人間だぞ?」
「もちろんでございます」
「なぜ軍の身内になっている?」
側近は答えに窮した。
国王は深く椅子へ沈み込む。
「……私は?」
「はい?」
「私は第一大隊で、どう扱われているのだ」
側近は慎重に言葉を選んだ。
「……副官殿の恋人のお父上、でしょうか」
国王が立ち上がった。
「父親という立場が薄すぎる!!」
王宮中に怒声が響いた。
その十分後、第一大隊へ国王直筆の書簡が届いた。
『近日中に視察へ赴く』
アルベルトは読み終えると、無言でテオドールへ渡した。
テオドールも読んだ。
二人は顔を見合わせた。
「……隊長」
「言うな」
「警戒態勢は」
「第二級だ」
「妥当かと」
その横からリリアが顔を出した。
「国王陛下も遊びに来るの? じゃあみんなでお茶会しよう!」
「第一級に変更だ!」
王国軍第一大隊。
王女殿下は、完全に身内扱いされている。
ただし、その父親まで身内扱いするかどうかについては、現在も軍上層部で慎重な協議が続いている。
理由は単純だった。
――娘を溺愛する国王陛下は、敵軍よりも対処が難しい。




