暗殺者と隊長と、とばっちりの公開告白【過去編】
リリアがアルベルト・クロフォードを殺し損ねてから、半年が経った。
正確に言えば、殺し損ねたという表現には少し語弊がある。
彼女ほどの暗殺者が本気で殺そうとして失敗したのなら、相手がよほどの化け物だったということになるが、あの夜のリリアは最初から急所を外していた。
標的について調べるうち、なぜこの男が殺されなければならないのか疑問を抱き、最後には本人への興味が勝ってしまったから。
結果として暗殺には失敗し、捕まり、依頼主に口封じのため殺されかけ、なぜか標的だった男と背中を預けて戦い、その男の尽力によって処刑を免れた。
人生というものは分からない。
※
「アルー」
「帰れ」
半年後の現在、最大の変化といえばこれだった。
王国軍第一大隊長執務室、午後三時。
山積みになった書類を処理していたアルベルトは、扉から顔だけを覗かせた白銀の頭を確認すると、挨拶より先に退去を命じた。
「まだ何も言ってないよ?」
「お前が午後三時に来る時は、大抵ろくな用事ではない」
「失礼だなあ」
頬を膨らませながらも、リリアは帰る気配など微塵もなく室内へ入ってくる。
以前は四階の窓から訪ねてきたため、本気で叱った。
以来、正門から入るようにはなったが、本人曰く、これは大幅な譲歩らしい。
アルベルトとしては、人間が建物へ入る際の一般常識を教えただけのつもりだった。
「今日はちゃんと用事あるよ」
リリアは両手を後ろへ隠しながら机へ近づくと、得意げに笑った。
「目、閉じて」
「嫌だ」
「なんで?」
「お前を前にして視界を塞ぐほど俺は愚かではない」
「私、もうアルを殺さないよ?」
「そういう問題ではない」
「信用ないなあ」
「暗殺目的で寝室へ侵入してきた女に言われたくない」
至極もっともな指摘だった。
リリアは少し考えたあと、「確かに」と素直に頷いた。
それから机の上へ小さな包みを置く。
「じゃーん」
布を開く。中から現れたのは、形の歪んだ焼き菓子だった。
焦げている。
少なくとも三つは明確に焦げて黒い。
アルベルトは無言になった。
「……何だ、これは」
「焼き菓子」
「見れば分かる」
「作った」
「お前が?」
「うん」
胸を張る。
暗殺者としてなら王国でも指折りの技量を持つ女。
毒薬なら分量を一滴単位で調整できるし、投擲用の刃なら走りながらでも十数メートル先の急所へ命中させられる。
その女が焼き菓子を焦がした。
「……なぜ」
問いかけると、リリアは少しだけ不思議そうな顔をした。
「アルに食べてもらおうと思って」
あまりにも自然に言われたせいでアルベルトは返事ができなかった。
こういうところなのだ。
この半年、彼を最も困らせているのはリリアの非常識な身体能力でも、軍用錠を三秒で開ける技術でもなかった。
彼女は好意を隠さない。
美味しいものを見つければ持ってくる。
面白いものを見れば報告する。
市場で白い猫を見た、変な形の野菜が売っていた、焼き菓子屋の新作がおいしかった。
そんな、どうでもいい話をするためだけに会いに来る。
そして帰る時には必ず笑う。
「またね、アル」
最初は奇妙な女だと思っていた。
次第に今日は来ないのかと思うようになった。
そこまで自覚した時点で、アルベルトは己の感情へ厳重に蓋をした。
「食べない?」
リリアの声で我に返る。
紫の瞳が期待に満ちていた。
アルベルトは焦げた焼き菓子を一つ取り口へ運ぶ。
「どう?」
「…………硬い」
「そこ?」
「甘すぎる」
「そこも?」
「端が焦げている」
「知ってる」
リリアの肩が目に見えて落ちる。
アルベルトは残りを見た。
ため息をついて、もう一つ取った。
「だが」
齧る。
「食えないほどではない」
ぱっと顔が上がった。
「ほんと?」
「ああ」
「じゃあ全部あげる」
「待て。なぜそうなる」
「おいしいんでしょ?」
「食えないほどではないと言った」
「同じだよ」
「違う」
結局、その日のうちにアルベルトは全部食べた。
副官がそれを知ったのは翌朝だった。
「隊長、胃薬です」
「なぜだ」
「昨夜、厨房の者から聞きまして」
「何を」
「奥方候補――」
「誰が奥方候補だ」
「失礼。リリア殿の焼き菓子を七個すべて召し上がったと」
書類へ向けていたアルベルトの視線が止まった。
「……誰が喋った」
「厨房全員が知っています」
「なぜだ」
「三個目あたりから隊長が水を大量に飲んでいたので」
「…………」
「愛ですね」
「出ていけ」
副官は満面の笑みで敬礼して退出した。
※
リリアが自分の感情に名前をつけたのは、それからひと月ほど後だった。
きっかけは、驚くほどくだらない。
アルベルトが女と話していた。
それだけだった。
軍務で本部を訪れていた伯爵家の令嬢で、軍への物資支援について話していたらしい。
もちろんリリアはそんな事情を知らない。
中庭へやって来た彼女が見たのは、背筋を伸ばして立つアルベルトと、その前で上品に微笑む美しい女性だった。
「…………」
足が止まった。何か嫌だった。
女性が笑う。もっと嫌になる。
アルベルトが頷く。かなり嫌になった。
令嬢が彼の腕へ軽く触れた。
「…………殺す?」
無意識に呟いた直後 。
「いや、駄目だ」
自分で訂正する。
最近ようやく、人間は気に入らないという理由だけで殺してはいけないと学んだ。
危なかった。
社会復帰は難しい。
※
その日の夕方。
いつもの菓子屋でリリアは店主へ相談した。
「ねえ。アルが女の人と話してると、胸の辺りがもやもやするんだけど」
「恋ですね」
即答だった。
「あと、その人がアルに触った時、ちょっと殺そうかなって思った」
「それは恋のようで恋ではありません」
「違うの?」
「ただの嫉妬です」
勉強になった。
けれど一つ目については納得した。
会いたい。
一緒にいると楽しい。
美味しいものを分けたい。
アルベルトが疲れていると気になるし、怪我をすれば腹が立つ。
自分へ向けられる灰色の目が、ほんの僅かに柔らかくなる瞬間が好きだった。
「そっか」
理解すると早かった。
「私、アルが好きなんだ」
※
翌日には本人へ伝えた。
「アル。私、アルのこと好き」
羽ペンが折れた。
「…………何?」
「好き」
「聞こえなかったわけではない」
折れた羽ペンを机へ置きながら、アルベルトは努めて平静を装った。
心臓だけがその平静にまったく協力していない。
「ならよかった」
「よくない」
「なんで?」
「お前は今、普通の生活を始めたばかりだ」
アルベルトは椅子へ深く座り直した。
この感情に応えてはいけない。
そう判断する理由なら、いくらでもあった。
「これまでお前の周囲にいた人間は、命令する者か、利用する者か、殺す対象だった。今は初めて人間関係そのものを学んでいる段階だ」
リリアは黙って聞いている。
「俺がお前の処刑回避に関わったから、恩義や信頼を恋愛感情と取り違えている可能性がある」
「なるほど」
意外にも納得した。
アルベルトが少し安心した、その直後。
「じゃあアルは、私のこと好き?」
「なぜそうなる」
「私は勘違いかもしれないんでしょ? でもアルの気持ちはアルが分かるじゃん」
正論だった。
アルベルトが黙る。
リリアは机へ両手をつき、ぐっと顔を近づけた。
「好き?」
「近い」
「嫌い?」
「そうは言っていない」
「じゃあ好き?」
「極端すぎる!」
執務室に怒声が響く。
リリアは笑った。
アルベルトの耳が赤い。
「アル、赤い」
「帰れ」
「耳まで赤いよ?」
「帰れ!」
「はーい」
素直に扉へ向かうが出ていく直前に振り返った。
「じゃあ、勘違いじゃないって分かったら、もう一回言うね」
そう言って笑う彼女を見送り、アルベルトは机へ額をつけた。
「……勘弁してくれ」
誰に頼んでいるのか、自分でも分からなかった。
※
それからさらに三か月。
リリアからの告白は一切無くなった。
けれど、態度は何一つ変わらなかった。
アルベルトに会いに来る。
菓子を持ってくる。
訓練場を覗いて兵士へ勝手に助言する。
その助言が的確すぎて、今では第一大隊の若手兵士から妙に慕われていた。
「リリア殿! 昨日教えていただいた体捌き、もう一度お願いします!」
「いいよ。じゃあ剣持って」
「はい!」
「本気で来て」
「え」
「大丈夫。死なない程度にするから」
「待て!」
遠くからアルベルトの怒声が飛ぶ。
それが第一大隊の日常になりつつあった。
そんなある日、訓練場で第一大隊の全体訓練が行われていた。
百名を超える兵士が整列し、アルベルトが前方で指示を出している。
リリアは少し離れた木陰に座り、焼き菓子を食べながらそれを眺めていた。
三か月経っても好きだと思う。
たくさんの人と話すようになった。
菓子屋の店主とも仲良くなった。
市場の人間もおまけしてくれるようになり、軍の兵士も気さくに話しかけてくれる。
自分の世界は確かに広がった。
それでも、アルベルトを見つけると、一番嬉しい。
「……やっぱり好きだなあ」
小さく呟いた時だった。
「リリア殿!」
若い兵士が駆け寄ってきた。
「何?」
「今度の休日、お暇ですか?」
「暇だよ」
兵士の顔が明るくなる。
「でしたら、よければ一緒に街へ――」
「おい」
低い声が飛んだ。
空気が凍った。
百人以上いる訓練場の視線が、一斉に声の主へ向く。
アルベルトだった。
恐ろしく怖い顔をしている。
「訓練中だぞ」
「は、はい!」
「持ち場へ戻れ」
「はいっ!」
兵士が逃げた。
リリアは首を傾げる。
アルベルトも隊列へ戻る。
アルベルトの隣に、副官が寄った。
「隊長」
「何だ」
「怖いですよ」
「何がだ」
「顔が」
「訓練中だからな」
「リリア殿が誘われた瞬間からです」
「気のせいだ」
「嫉妬ですか?」
「違う」
「では、あの兵士がリリア殿と休日に二人で出掛けても問題ないと」
アルベルトが止まった。
副官は見逃さない。眼鏡をかけていたらキランと光った事だろう。眼鏡はかけていないが。
「問題ありませんね?」
「…………」
「隊長?」
「……訓練を続けるぞ」
「逃げましたね」
「黙れ」
ところが今日は運が悪かった。
先ほどの兵士が、諦めていなかった。
全体訓練終了後、百名以上がまだ整列している前で、彼は再びリリアのところへ向かった。
「リリア殿!」
「ん?」
「先ほどの話ですが!」
アルベルトの眉が動く。
副官が危険を察知して一歩離れた。
「今度の休日、俺と――」
「リリア!」
訓練場全体へ響く声だった。
全員が固まった。
リリアも振り返る。
「何?」
アルベルトがこちらへ歩いてくる。
軍靴が地面を踏むたび、なぜか兵士たちが道を開けた。
本人は気づいていない。
リリアの前で止まる。
「お前に話がある」
「今?」
「今だ」
「何?」
百数十人が見ている。
副官は嫌な予感しかしなかった。
「隊長」
「何だ」
「場所を変えられた方が」
「必要ない」
「いえ、絶対に必要だと思います」
「黙っていろ」
リリアはきょとんとしている。
アルベルトは一度息を吐いた。
この三か月、考えに考えた。
彼女の世界を狭めたくなかった。
恩を恋と錯覚させたくなかった。
自由を得たばかりの彼女を、自分の側へ縛りつけるような真似だけはしたくなかった。
だから待った。
けれど彼女の世界が広がってもリリアは変わらなかった。
そして変わったのはむしろ自分の方だった。
「リリア」
「うん」
「以前、お前は俺を好きだと言ったな」
ざわ。
第一大隊が揺れた。
副官が顔を覆った。
リリアは普通に頷く。
「言ったよ」
「三か月経った」
「うん」
「今はどうだ」
「好き」
即答だった。
ざわざわ。
兵士たちのざわめきがさらに大きくなる。
「隊長! 我々を解散させてください!」
副官が叫んだ。
「うるさい!」
「なぜ我々は隊長の告白を隊列を組んで見届けなければならないんですか!」
もっともだった。
しかしアルベルトはもう止まれなかった。
「お前は」
リリアだけを見る。
「これからも、俺のところへ来るのか」
「アルが嫌じゃなければ」
「菓子を持って?」
「うん」
「どうでもいい話をしに?」
「猫とか?」
「……そうだ」
「するよ」
リリアが笑う。
「アルに一番に話したいから」
その瞬間、アルベルトの中で何かを完全に諦めた。
理性かもしれない。
抵抗かもしれない。
おそらく両方だった。
「なら」
一歩近づく。
百人以上の部下が見ていることなど、もうどうでもよかった。
「俺も、お前が好きだ」
静まり返った。
鳥の声が長閑に響き渡る。
リリアが瞬きをする。
「……ほんと?」
「ああ」
「勘違いじゃなく?」
「俺の方は最初から分かっていた」
「じゃあ、なんで三か月も待たせたの?」
「お前の方が分からなかったからだ!」
告白直後に怒鳴った。
第一大隊の兵士たちが一斉に肩を震わせる。
「だって、私は好きって言ったよ?」
「だから、それが恩義や依存ではないとお前自身が判断できるまで待ったんだ!」
「アル」
「何だ!」
「真面目だね」
「誰のせいだと思っている!」
リリアは笑った。
「じゃあ」
少しだけ首を傾げる。
「私と付き合う?」
アルベルトは一瞬黙った。
周囲では百人以上の兵士が息を止めている。
「……そのつもりで言った」
次の瞬間、リリアが飛びついた。
「やった!」
「うおっ!」
反射的に抱き止める。
白銀の髪が大きく舞い、細い腕がアルベルトの首へ回った。
「アル、大好き!」
「分かった!」
「ずっと好きだった!」
「知っている!」
「キスしていい?」
「待て! ここには部下が――」
待たない。頬へ、ちゅ、と。柔らかな唇が触れた。
「…………」
アルベルトが停止した。
第一大隊も停止した。
リリアだけが嬉しそうだった。
「した」
「…………リリア」
「何?」
「ここがどこか分かっているか」
「訓練場」
「何人いる」
リリアは周囲を見る。
百人以上の兵士と目が合った。
「いっぱい」
「そうだな!」
アルベルトの耳は真っ赤だった。
その時、どこからともなく。
ぱち。
一度だけ拍手が鳴った。
全員が音の方向を見る。
副官だった。
「……何だ」
アルベルトが睨む。
「いえ」
副官は笑顔だった。
「おめでとうございます」
それを皮切りに、ぱちぱちぱち、拍手が増えた。
「おめでとうございます、隊長!」
「リリア殿、おめでとうございます!」
「ついに!」
「長かった!」
「三か月ですよ!」
「いや絶対もっと前から好きだっただろ!」
訓練場が一気に騒がしくなる。
「お前たち!」
アルベルトの怒声が飛ぶ。
だが止まらない。
「隊長! 顔赤いですよ!」
「黙れ!」
「リリア殿! 隊長のどこが好きなんですか!」
「全部!」
「リリア!」
即答されたアルベルトの耳がさらに赤くなる。
「隊長は!?」
「聞くな!」
「隊長はリリア殿のどこが好きなんですか!」
「訓練を再開するぞ!」
「逃げた!」
「全員、外周十周!」
「横暴だ!」
「十二周!」
「増えた!」
悲鳴と笑い声が訓練場いっぱいに響く。
その中心で、リリアはアルベルトの腕の中から彼を見上げていた。
怖い顔。
赤い耳。
怒鳴っているくせに、自分を下ろそうとはしない腕。
初めて会った夜。
彼は自分を恐れなかった。
利用しようともしなかった。
過去を許しもしなかった。
ただ、これから何をするかは、自分で選べと言った。
だからリリアは選んだ。
生きることを。
甘いものを食べることを。
街を歩くことを。
誰かと笑うことを。
そして、この人を好きでいることを。
「アル」
周囲の騒ぎに紛れるくらいの、小さな声で呼ぶ。
「何だ」
アルベルトが彼女を見る。
「私、暗殺者じゃなくなってよかった」
唐突な言葉にアルベルトの表情が止まった。
リリアは笑う。
「だって、こういうの知らなかったから」
アルベルトは何も言わなかった。
ただ、彼女の背中へ回していた腕へ少しだけ力を込めた。
「……そうか」
「うん」
「なら」
灰色の瞳が僅かに柔らかくなる。
「これから覚えればいい」
あの日と同じ言葉だった。
リリアの目が細くなる。
「一緒に?」
アルベルトは答えるまで、ほんの少しだけ時間がかかった。
「ああ」
今度は迷わなかった。
「一緒にだ」
リリアが笑った。
その笑顔を見てアルベルトも、ごく僅かに笑った。
―――直後。
「隊長が笑ったぞ!」
「珍しい!」
「誰だ今言った奴は!」
「逃げろ!」
「全員十五周だ!」
「また増えた!」
感動は三秒しか続かなかった。
これが後に、夫婦喧嘩一つで王都を封鎖し、愛妻弁当一つで第一級警戒態勢を発令させ、国王から直々に「夫婦喧嘩は家でやれ」と叱られることになる二人の、最初の恋だった。
なお。
第一大隊の公式記録には、この日の出来事について次のように記されている。
―――午後十五時四十二分。
全体訓練中、大隊長より重要事項の通達あり。
―――十五時四十五分。
大隊長、リリア嬢との交際を開始。
―――十五時四十六分。
大隊長、頬への接吻を受ける。
―――十五時四十七分。
全隊員、外周十五周を命じられる。
後日、この記録を発見したアルベルトによって担当書記官は呼び出された。
リリアは腹を抱えて笑った。
そして記録はなぜか、今もなお残っている。




