暗殺者と隊長と、最悪の初対面【過去編】
―――王国軍第一大隊長、アルベルト・クロフォードを殺せ。
その依頼がリリアのもとへ届いたのは、雨の降る夜だった。
古びた宿の二階。窓硝子を細かな雨粒が絶え間なく叩き、街灯の乏しい路地を濡れた石畳だけがぼんやりと照り返している。
リリアは窓枠へ腰掛け、封書から抜き出した一枚の紙を片手でひらひらと揺らしていた。
白銀の髪が肩から零れ、紫の瞳が簡潔な文面を追っていく。
標的は二十六歳。
若くして王国軍第一大隊を預かるまでになった軍人であり、剣術、指揮能力ともに優秀。警戒心が強く、生活は規則正しい。これまでにも何度か命を狙われているが、いずれも未遂に終わっている。
「ふうん」
紙を裏返してみたところで、続きが現れるわけでもない。
依頼金だけは破格だった。
普通なら、それで十分。
誰かが一人の人間に死んでほしいと願い、その願いに金を払う。金を受け取った者が標的を殺す。
それが暗殺という仕事だった。
少なくともリリアは、そういうものだと教えられてきた。
殺す理由など知らなくていい。
標的が善人か悪人かを考える必要もない。
命令された相手を、見つけて、近づいて、殺す。
物心がついた頃にはもう、それが彼女にとっての日常になっていた。
「アルベルト・クロフォード」
試しに名前を声に出してみる。
妙に硬い響きだった。
名前だけを聞けば、眉間に皺を寄せて一日中規則の話でもしていそうな男だ。
「強いのかな」
ぽつりと呟くと、口元がわずかに綻んだ。
興味を惹かれたのは、それくらいだった。
王国軍第一大隊本部は、暗殺者にとって決して入りやすい場所ではない。
外壁はおよそ十二メートル。四方に見張り塔があり、歩哨は一定間隔で巡回している。各窓には軍用の特殊錠、主要な出入口には侵入者を感知する魔術結界まで施されていた。
一般人はもちろん、並の工作員なら建物へ近づくことすら難しい。
もっともリリアにとっては、少し面倒な家という程度の違いしかなかった。
夜半を過ぎ、雲の切れ間から薄い月が覗いた頃。
黒い外套を纏った小柄な影が、外壁へ向かって駆けた。
速度を落とさない。
石壁を二歩蹴り、わずかな継ぎ目へ爪先をかける。そのまま身体を跳ね上げ、突き出した石材の縁へ指を掛けた。
華奢な身体が、重さを失ったように壁面を上っていく。
見張りが反対側へ顔を向ける。
その一瞬に塀の上へ身体を引き上げ、次には内側へ降りていた。
着地の音さえしない。
濡れた夜気の中へ、黒い外套だけが溶けていく。
「簡単」
小さく呟いて、リリアは建物を見上げた。
事前に手に入れた図面によれば、大隊長の私室は北棟の最上階にある。
正面から入る理由はない。
兵の巡回と視線の向きを読み、建物の裏手へ回る。目的の窓は四階だった。
当然ながら階段などない。
リリアは外壁を見上げた。
装飾のために設けられた石の突起が、一定の間隔で続いている。
「これ、登れってことかな」
もちろん違う。
だが、彼女にとって用途は大した問題ではなかった。
数十秒後には四階の窓枠へ指を掛けている。
髪に忍ばせていた細い針金を抜き、鍵穴へ差し込む。
わずか三秒。
小さな音を立てて錠が外れた。
窓を僅かに押し開け、隙間から室内の空気を読む。
人間は一人。
規則正しい呼吸。
リリアは音もなく室内へ滑り込んだ。
薄暗い部屋だった。
軍人の私室らしく余計なものはほとんどなく、机も本棚も几帳面に整えられている。壁には剣が一本掛けられ、奥の寝台には男が横たわっていた。
リリアは腰から短刀を抜いた。
寝息は変わらない。
一歩、さらに一歩。
重心を落とし、呼吸を殺す。
寝台まであと僅か。
逆手に持った刃を持ち上げる。
狙うべきは喉だった。
しかし刃を振り下ろした、その瞬間、手首を掴まれた。
「―――!」
予想以上の力だった。
身体が浮く。
視界が反転した。
リリアは投げ飛ばされながら身を捻り、床へ片手をついて衝撃を逃がす。黒い外套が一度大きく広がり、猫のような身軽さで着地した。
顔を上げる。
眠っていたはずの男が寝台の横へ立っていた。
乱れた黒髪。
鋭い灰色の瞳。
寝起きの気怠さなど微塵もない。
「起きてたんだ」
驚きよりも先に、楽しさが勝った。
リリアの口元に笑みが浮かぶ。
「お前が窓を開けた時からな」
「嘘」
「何がだ」
「気配、消してたよ?」
「カーテンが揺れた」
「…………」
リリアは一度だけ窓へ目を向けた。
確かに、閉じ切らなかった窓から入り込む夜風に、厚い布地がごく僅かに揺れている。
「それだけ?」
「十分だ」
「細かいね」
「暗殺者に言われたくない」
男―――アルベルトは壁際の剣を取った。
簡素な寝間着姿でありながら、剣を握った瞬間、その場の空気が変わる。
重心、間合い、視線。
どこにも無駄がない。
リリアの瞳が楽しそうに細められた。
「やっぱり強そう」
「降参する気は」
「ないよ?」
「そうか」
短い返答と同時に、アルベルトが踏み込んだ。
速い。
リリアは反射的に身体を沈める。
頭上を銀光が走った。
そのまま横へ抜け、脇腹へ短刀を滑り込ませる。しかし刃は剣の腹に弾かれ、甲高い音とともに火花が散った。
手首まで痺れる。
「わ」
思っていた以上に重い。
正面から力を競えば勝ち目は薄い。
ならば、競わなければいい。
リリアは一度大きく距離を取ると、左手から短刀を放った。
アルベルトが首を傾けてかわす。
その視線が飛来する刃を追った、ほんの一瞬。
死角へ潜り込む。
腰から二本目の刃を抜く。
銀色の軌跡がアルベルトの頬を掠めた。
赤い線が一本走る。
「当たった」
思わず嬉しそうな声が出た。
アルベルトは頬へ指を触れ、そこについた血を一瞥する。
怒るでもなければ剣を振り上げるでもなかった。
「そこまでだ」
「え?」
予想外の言葉に、リリアが瞬きをする。
「お前、本気で俺を殺すつもりがないだろう」
笑みが僅かに消えた。
「どうして?」
「殺せる場面が二度あった」
アルベルトは剣先を下げた。
「最初の一撃。狙いは喉ではなく肩へ逸れていた」
「寝ぼけてたんじゃない?」
「二度目は今だ」
頬の傷を親指で示す。
「もう半寸深ければ、頸動脈まで届いていた」
リリアは答えなかった。
雨音だけが、窓の外で静かに続いている。
図星だった。
依頼を受けてから、彼女は標的について調べた。
若くして大隊長となった男。
軍上層部との衝突。
兵站横領の摘発。
戦場では撤退を進言し、部下の生還を優先したこと。
金に汚いという話も、人を陥れたという噂も出てこなかった。
調べれば調べるほど、なぜこの男にこれほど高額な賞金が掛けられたのか分からなくなった。
だからほんの少しだけ確かめてみたくなった。
この男が、本当に殺されるような人間なのか。
「誰に雇われた」
「言わない」
「目的は」
「暗殺」
「それは見れば分かる」
「なら聞かなくていいじゃん」
アルベルトの眉間に小さな皺が刻まれた。
「……名前は」
「それも言わない」
「では何なら答える」
リリアは真面目に考えた。
「好きな食べ物?」
「聞いていない」
「甘いもの」
「だから聞いていない」
「アルベルトは?」
「質問するな」
「固いね」
「暗殺に来た人間に言われたくない」
思わずリリアが吹き出した。
妙な男だった。
これまで刃を向けてきた標的の多くは、怯えるか、怒鳴るか、金を出すから助けてくれと縋った。
この男は、そのどれもしない。
まるで侵入してきた暗殺者を、厄介な部下でも叱るような顔で見ている。
その時、廊下の向こうから複数の足音が響いた。
「隊長!」
警備兵だ。
アルベルトが扉へ目を向ける。
リリアも反射的に窓を見た。
今なら逃げられる。
そう判断しているのに、身体は動かなかった。
「逃げないのか」
アルベルトにも気づかれたらしい。
「逃げられるよ?」
「なら、なぜ逃げない」
「んー」
少し考えてリリアは小首を傾げた。
「もう少し、あなたを見てみたいから」
アルベルトが怪訝な顔をする。
「俺を?」
「アルベルト・クロフォードが、どんな人なのか」
「呼び捨てにするな」
「じゃあ、アル」
「悪化している」
直後、扉が勢いよく開き、武装した兵士たちが雪崩れ込んだ。
リリアは素直に両手を上げる。
「捕まっちゃった」
その声音は、牢へ連行される人間のものとは思えないほど楽しそうだった。
※
翌朝、地下牢へ降りてきたアルベルトが最初に見たものは、青ざめた看守だった。
次に見たものは、半分開いた鉄格子。
最後に牢の中で床へ座り、朝食のパンを齧っているリリアだった。
「おはよう、アル」
「…………」
「今日も怖い顔だね」
看守が悲鳴に近い声を上げる。
「隊長! 私は確かに施錠しました!」
「分かっている」
「ですが、鍵が……!」
アルベルトは鉄格子を見る。
「お前が開けたのか」
「うん」
「どうやって」
「髪留め」
「なぜ開けた」
「暇だったから」
「なぜ逃げない」
「朝ごはんがまだだったから」
「…………」
アルベルトは片手で眉間を押さえた。
昨夜から頭痛が続いている気がする。
「閉めろ」
「はい!」
看守が慌てて扉を閉じ、鍵を掛ける。
リリアはその様子を眺めながら言った。
「それ、また開けられるよ?」
「開けるな」
「分かった」
「本当か」
「うん」
アルベルトは何かが詰まったように動きを止めた。
「……信じられん」
「ひどい」
まるで普通の会話だった。
そのことが余計に頭痛を悪化させた。
取り調べは、その日の午前中に始まった。
簡素な部屋。
机を挟んで二人。
リリアは拘束されているにもかかわらず、妙に寛いでいる。
「名前」
「リリア」
「姓は」
「ない」
「所属」
「今は特にないよ」
「今は?」
「昔はいろいろ」
「曖昧だな」
「そう?」
アルベルトは書類から顔を上げた。
「お前は《白猫》か」
初めてリリアの瞳から僅かに戯けた色が消えた。
「知ってるんだ」
「裏社会では有名らしいな」
「有名人」
「誇るな」
「別に誇ってないよ」
椅子へ背を預ける。
その拍子に袖が僅かにずれた。
細い手首に残る、いくつもの古い痕。
縄、鎖、拘束具。
種類の違う傷跡が重なっている。
アルベルトの視線が止まった。
「何?」
「……いつから暗殺者をしている」
突然変わった問いに、リリアが瞬きをした。
「急だね」
「答えろ」
「子どもの頃から」
「自分で選んだのか」
そこで初めて、リリアの返事が途切れた。
それまで何を聞かれても軽く返していた彼女が、僅かに視線を逸らす。
「……覚えてない」
「何を」
「選んだかどうか」
声は淡々としていた。
「気づいた時には、そうだったから」
教えられたのは、人の急所、刃物の扱い、毒、鍵の開け方、気配の殺し方。
言われた相手を殺せば褒められた。
失敗すれば罰を受けた。
そして次の標的を与えられた。
それ以外の人生を、リリアはほとんど知らない。
アルベルトはしばらく黙っていた。
彼女を哀れむつもりはなかった。
過去がどうであろうと、奪った命が戻るわけではない。
罪をなかったことにすることもできない。
「なら」
やがて、アルベルトは口を開いた。
「今から選べ」
リリアが顔を上げた。
「何を?」
「これから何をするかだ」
「暗殺者以外?」
「ああ」
「そんなの知らない」
「知らないなら覚えればいい」
あまりにも当然のように言われ、リリアは少し笑った。
「簡単に言うね」
「簡単だとは言っていない」
灰色の瞳が、逃げずに彼女を見る。
「難しいことと、不可能なことは別だ」
リリアは言葉を失った。
奇妙だった。
これまで、自分を見る人間は大抵二種類だった。
恐れる者。
利用しようとする者。
殺人者、怪物、便利な道具。
そのどれか。
なのにこの男は罪を許しているわけでも、同情しているわけでもない。
ただ当たり前のように、未来の話をする。
「変なの」
「何がだ」
「アルって」
「隊長と呼べ」
「やっぱりアルでいいや」
「よくない」
リリアは笑った。
その笑顔を見て、アルベルトは自分でも理由の分からない小さな違和感を覚えた。
※
その夜、第一大隊本部を爆音が揺らした。
地下牢の天井から砂埃が落ちる。
眠っていたリリアは、瞬時に目を開けた。
複数の足音。
速い。
軽い。
軍靴とは違う。
さらに、その足音には迷いがない。
「来たか」
リリアは上半身を起こした。
廊下の暗がりから黒装束の男が現れる。
「白猫」
「知り合い?」
「依頼は失敗した」
「そうだね」
「処分する」
「やっぱり」
その返事にも恐怖はない。
リリアは立ち上がり、髪留めを一本抜いた。
三秒で鉄格子の錠が外れる。
刺客の動きが僅かに止まった。
「牢って」
リリアは扉を押し開ける。
「やっぱり意味ないね」
そして笑った。
廊下では、すでに戦闘が始まっていた。
第一大隊本部へ潜入した刺客は複数。
内部の構造まで把握している。外からの襲撃ではない。
アルベルトは一人を斬り伏せ、そのまま角を曲がった。
向こうから白銀の髪が現れる。
「アル!」
「なぜお前が出ている!」
リリアだった。
「殺されそうだったから!」
「牢を開けたのか!」
「そこ、今気にする!?」
「囚人だろう!」
「死ぬよりいいでしょ!」
「それは……そうだ!」
一瞬、二人とも黙った。
先に吹き出したのはリリアだった。
「今、規則曲げたね」
「黙れ!」
次の刺客が飛び込んでくる。
アルベルトが前へ出た。
真正面から剣を受ける。
その横を、リリアの小さな身体が抜けた。
死角へ一撃。
敵が崩れる。
次。
アルベルトが踏み込む。
相手が後退する。
その先にはリリアがいる。
刃が走った。また一人。
奇妙なほど噛み合った。
初めて肩を並べるはずなのに、互いの間合いを邪魔しない。
アルベルトが敵の意識を引きつければ、リリアは迷いなく死角を取る。
リリアが相手の体勢を崩せば、アルベルトの剣がその逃げ道を塞ぐ。
「なんか、やりやすい」
「俺はやりにくい!」
「そう?」
「お前が勝手に動くからだ!」
「でも、ちゃんと合わせてくれるじゃん」
「合わせざるを得ないんだ!」
返しながら、アルベルトが最後の一人を押し返す。
その時だった。
リリアの視線が跳ね上がる。
梁。影。引き絞られた弓。
矢尻が狙っているのは。
「アル!」
考えるより先に身体が動いた。
アルベルトの肩を突き飛ばす。
直後、鋭い痛みが左肩を貫いた。
「っ……」
身体が揺れて膝をついた。
「リリア!」
アルベルトの声が初めて大きく崩れた。
矢を放った男へ向き直る。
一閃。
迷いのない剣が敵を倒す。
すぐさまリリアのもとへ膝をついた。
「動くな」
「これくらい平気」
「黙れ」
「怒ってる?」
「怒っている」
「私、助けたのに」
「だから怒っている!」
思わぬ返答に、リリアは目を丸くした。
「変なの」
小さく笑う。
けれど次第に、その笑みは困惑へ変わった。
「……なんで庇ったんだろ」
自分の肩から流れる血を見る。
これまで、自分の命は仕事をするための道具だった。
必要なら傷つけばいい。
必要なら危険へ踏み込めばいい。
死んだなら、それまで。
そう思っていた、なのに。
命令されたわけでもない。
報酬が出るわけでもない。
昨日まで殺そうとしていた男を守るために、自分から矢の前へ出た。
「分かんない」
珍しくリリアは本当に困った顔で笑った。
アルベルトは何も答えず、その細い身体を支えた。
※
襲撃が鎮圧されたのは、夜明け前だった。
捕えた刺客たちの証言と押収した書類によって、暗殺依頼の裏側も明らかになる。
首謀者は軍上層部の一人。
長年続けていた兵站物資の横流しをアルベルトに嗅ぎつけられ、証拠を握られる前に彼を消そうとした。
そのために雇われたのが《白猫》。
そして暗殺に失敗した以上、リリアも証拠の一つとして始末する予定だったと。
※
数日後。
傷を手当てされたリリアは、自らの処遇を聞かされた。
暗殺者《白猫》がこれまで奪ってきた命は少なくない。
当然、処刑を求める声も上がった。
「殺せばいいじゃん」
リリアは、まるで夕食の献立について話すような口調で言った。
向かいにいたアルベルトが顔を上げる。
「何?」
「いっぱい殺したし」
肩にはまだ包帯が巻かれている。
それでも彼女の表情は普段と変わらない。
「捕まったら死ぬって、昔から言われてたから。仕方ないよ」
その言葉を聞いた瞬間、アルベルトの眉間に深い皺が寄った。
「お前は」
低い声。
「自分の命を何だと思っている」
リリアが不思議そうに首を傾げる。
「どうでもいいもののように扱うな」
「でも」
「罪は罪だ」
アルベルトは彼女の言葉を遮った。
「お前が人を殺してきた事実は消えない。何をしても、なかったことにはできん」
「……うん」
「だが」
灰色の瞳が、まっすぐリリアを射抜く。
「だからといって、これから生きる資格まで失ったとは思わない」
リリアは黙った。
何を言われたのか理解するまで、少し時間がかかった。
生きろ。
そう言われたのだ。
命令でもなく。
仕事でもなく。
価値があるからでもなく。
ただ、一人の人間として。
※
その後、アルベルトはリリアの処刑回避のために動いた。
軍への情報提供。
暗殺組織の拠点。
関係者の名。
汚職高官との取引記録。
彼女の持つ情報を司法取引の材料として積み上げ、軍上層部と何度も交渉した。
それを知ったリリアには、どうしても理解できないことがあった。
ある日の夕方、廊下で彼を見つけるなり後ろから呼び止める。
「アル」
「隊長と呼べ」
「なんで?」
「何がだ」
「なんで、そこまでするの?」
アルベルトの足が止まった。
「私、アルを殺そうとしたよ?」
「知っている」
「頬も切った」
「知っている」
「それなのに?」
アルベルトはしばらく黙っていた。
答えを探していたわけではない。
自分でも説明する必要があると思っていなかったのだ。
「……お前が死ぬ必要がないと思った」
「それだけ?」
「それだけだ」
リリアは彼を見つめた。長い時間、アルベルトが居心地悪そうに眉を寄せるまで。
彼女には不思議だった。
自分を欲しがる人間はいた。
利用したい人間もいた。
怖がる人間なら、もっといた。
けれど、何も求めずに「死ぬ必要がない」と言った人間は、一人もいなかった。
胸の奥に、知らない感覚が残った。
それが何なのか、この時のリリアにはまだ分からなかった。
※
数週間後。
リリアは暗殺組織との関係を正式に断ち、一定期間の監視を条件に自由を得た。
第一大隊本部の正門。
冬の気配を含んだ風が、白銀の髪を揺らしている。
「では」
見送りに来たアルベルトが、最後まで生真面目な顔で言った。
「二度と軍施設へ無断侵入するな」
「分かった」
「本当か」
「うん」
「窓から入るな」
「うん」
「壁を登るな」
「うん」
「絶対だぞ」
「分かってるってば」
リリアは楽しそうに笑う。
そして振り返り、街へ向かって歩いていった。
小さくなっていく背中を見送りながら、アルベルトはなぜか拭いきれない嫌な予感を覚えていた。
※
三日後の昼すぎ。
第一大隊長執務室。
アルベルトが書類へ署名していると、コンコンと窓を叩く音がした。
ペン先が止まる。
ここは四階。
「…………」
嫌な予感が、見事に的中した。
ゆっくりと顔を上げる。
窓の外では片手で窓枠へぶら下がりながら、白銀の髪の少女が満面の笑みを浮かべていた。
「アルー!」
アルベルトはしばらく無言で彼女を見つめた。
それから立ち上がり、窓を開ける。
「何をしている」
「遊びに来た!」
「正門から入れと言っただろう!」
「だって、こっちの方が早いよ?」
「リリア!」
執務室に怒声が響く。
「入っていい?」
「正門へ回れ」
「ここまで来たのに?」
「回れ」
「けち」
「規則だ」
「じゃあ、今日は帰ろうかな」
「…………」
リリアが窓枠から手を離そうとする。
「待て!」
反射的にアルベルトがその手首を掴んだ。
リリアが目を丸くする。
ここは四階なのだ。
「落ちるだろう!」
「落ちないよ?」
「いいから入れ!」
アルベルトは彼女を窓から室内へ引き上げた。
床へ降りたリリアが、にこにこと彼を見上げる。
「入っていいんだ?」
「今回だけだ」
「やった」
「次からは正門だ」
「分かった」
「本当だな」
「うん」
その返事をアルベルトはまだ信じていた。
リリアは楽しそうに笑う。
そして、いつの間に持っていたのか、小さな紙袋を差し出した。
「これ、あげる」
「何だ」
「焼き菓子」
「なぜ俺に」
「アル、甘いもの好き?」
「……嫌いではない」
「よかった」
「俺が好きだと言った覚えはないが」
「私が好きだから」
「理由になっていない」
「一緒に食べたかったの」
何でもないことのように言って、リリアは笑った。
アルベルトは返す言葉を失った。
ただなぜか、その紙袋を突き返すことだけはできなかった。
王国史上もっとも騒がしい夫婦の馴れ初めは、一件の暗殺未遂と一袋の焼き菓子から始まった。




